5章
親父が峯岸と床の上で絡み合っているのを見た後の事は正直よく覚えていない。
誇張ではなく本当によく覚えていないのだ。
仕事が忙しく、俺の様子を気にかける暇などない母さんでさえ俺のただならぬ塞ぎぶりに気がつき、ある日こう尋ねてきた。
「晃樹、あなた、最近元気ないわね。食欲もあまりないみたいだし。何かあった?」
当時、母さんがこんな風に親身に話かけてくることはなかったので俺はちょっと泣きそうになりながら「ううん、何もない」と首をぶんぶん振ってみせた。
母さんが峯岸を良く思っていないのは以前から感じていた。
「あら、今日はお気に入りのあの子が来る日ね」みたいな事をあからさまに嫌味な口調で親父に言うのを何回か聞いたことがあったからだ。
母さんは知っているのだろうか?二人の行っている行為を。
俺はしばらくの間、悶々と悩み続けていた。
その日は峯岸が来る日だった。俺は家に帰りたくなくて、河川敷に寄り道して時間を潰していた。
「あ、やっぱりここにいた」
河川敷でうずくまっていたら悠君がニコニコしながらやってきた。
悠君は委員会の集まりがあって俺は一人で先に帰ったのだ。
「はい、これ。晃ちゃん好きでしょ」
俺が駄菓子屋でよく買うお気に入りのチョコ菓子をくれる。
何日かぶりにお菓子を食べた。口の中にチョコの甘い味が広がる。
美味しくて貪るように一気に食べた。
「美味しい?」
悠君は俺の顔色を伺うような口調で聞く。
悠君にまで心配されてる。彼は元気がない俺を気遣って、わざわざ俺の好きな駄菓子を買ってきてくれたのだ。気がついたら泣いていた。涙が頬を伝い、ぼたぼたと手の甲に落ちる。
拭いたかったが悠君に泣いていることを悟られたくなかったので俺は微動だにせずやり過ごしていた。
悠君は何も言わなかった。何も聞かなかった。ただ黙って隣にいた。
涙が乾くと俺は何事もなかったかのように大袈裟に立ち上がり、努めて明るく「帰ろうぜ」と悠君に言った。俺の言葉に悠君はのろのろと立ち上がった。あたりは暗くなっていた。悠君の表情は読み取れない。
「来月の10日にさ、親父が大学の定期演奏会に出るらしいぜ」
いつものように悠君を喜ばせたくて親父の話をする。
「え!本当?絶対行くよ」
悠君の弾んだ声が聞こえる。こんな時にさえ俺は悠君に親父の話をする。
悠君は親父が好き。
俺は親父が嫌い。
ピアノのレッスン室の床で絡み合う親父と峯岸の映像が頭をかすめる。
それを振り払うように俺はぶんぶんと頭を振って駆け出した。