10章
手紙をゴミ箱に捨て、ベッドに寝転んでぼんやりしていると、階下からピアノの音が聴こえてきてはっとする。
親父は大学に行ってるはず。恐る恐る階段を降り、ピアノのある部屋のドアを開けた。
母さんだった。
母さんはピアノを弾く手をとめ、「あら、晃樹、帰ってたの」とのんびりした口調で言った。
「母さん、ピアノ弾けるの?初めて聴いたよ」
「高校までピアノ習ってたの。ずっと弾いてなかったから全然指が動かないわ」
母さんは恥ずかしそうに笑って言った。
「弾いてた曲、確か、ドビュッシーの…」
「そう、ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女」
俺は黒い革張りのソファに座ると背後から声を掛ける。
「弾いて。亜麻色の髪の乙女。母さんのピアノ聴きたい。」
母さんはじゃあ、と言って弾き出した。指が動かない、と言っていた割にはミスッタッチもなく、滑らかに曲は進む。俺はピアノの事はよくわからないが、母さんのピアノの音は悪くなかった。音の粒がそろっていて聴いていて心地良い。耳元で綺麗な鈴の音が鳴っているよう。
疲れていたのだろう。瞼がさがり、意識が飛んでいた。
ちょっと寝てしまったのかもしれない。意識がはっきり戻った時、ピアノの音は止んでいた。
「昇樹」
母さんの声は少し震えていた。
「一つ聞いておきたい事があるの」
「何?」
「昇樹はお父さんが峯岸君と付き合っているの、知ってるんでしょう?」
突然言われて頭がうまく回るはずもなく、すぐに返事ができなかった。返事をしない事が肯定したようなものだと気づき、渋々「うん」と俺は言った。
「……ごめんね」
母さんの涙声が聞こえる。何に対する謝罪なのだろう、とぼんやり思う。聞きたかったが聞くべきではない気がしてやめた。でも、何か母さんに声をかけたくて必死に言葉を探した。
「俺、母さんが仕事をやめて家にいるようになってほんと嬉しいんだ。毎日美味しいご飯が食べられるし。家政婦の小林さんの料理も悪くなかったけど、小林さんの料理はひねりがなくて正直つまんなかった。豆腐ハンバーグとか、そういうちょっと変わったやつがたまには食べたいんだ、俺は」
母さんは鼻を啜り、手で涙を拭うと「…じゃあ、今夜は豆腐ハンバーグにしようかな」と言った。まだ涙声だったが口調は明るかった。
「ピアノ、リクエストしていい?リストのコンソレーション第3番、聴きたい。」
悠君からもらったCDの中で一番好きな曲だ。
「うまく弾けるかわからないけど」と自信なさげに母さんは弾き始めた。甘美な音色が耳に心地よく響く。
俺は目をつぶり、曲に身を委ねた。
物憂げな悠君の表情がぼんやり浮かんで消えた。
人の感情は日々の中で変わってゆく。
今日がその日である事は間違いないように思えた。
母さんの優しいピアノの音に耳を傾けながら俺の中の感情の一つが浄化されていくのを感じた。