旅立ち
僕の名前は、オヂサン。
もうかなり立派とはいえない年老いた黒猫だ。
僕は、何の語ることもない一生を送り、そして、もうすぐ死んでいこうとしている。
僕には、今、飼い主がいない。
ほとんど一匹でこの家に住んでいる。
ほとんどというのは、ときどき、この家を管理している女の人がやってきて家の掃除をしたり、僕の世話をしてくれるからだ。
その人が来るときだけ、僕は、一匹ぼっちでなくなる。
その人の名前を僕は、知らない。
だけど、その人の手は、とても暖かい。
昔は、僕も一匹ぼっちじゃなかった。
友達のクマがいた。
あの頃は、よかったと、今でも時々思い出す。
クマは、ネズミだったが、たいしたネズミだった。
なにより、いいネズミだった。
クマは、善良なネズミだった。
僕とクマは、地下下水道で出会った。
僕等は、二匹で旅をした。
永遠の子を探して。
昔々。
僕がクマと出会うずっと前のことだ。
僕には、まだ飼い主がいた。
飼い主の名は、ユウスケ。
若い人間の雄だった。
物語を創ることを生業とする人間だった。
僕とユウスケは、幸せに暮らしていた。
少なくとも、僕は、幸せだった。
初めて出会ったときから、ユウスケは、僕を愛してくれた。
今思えば、彼は、孤独な人間だったのだろう。
僕と彼は、ユウスケの知り合いの家で出会った。
僕の母親は、その家の猫だった。
僕は、そこで彼に選ばれて彼の猫になった。
そして、僕たちは、一緒に暮らし始めた。
本当に、楽しい時間だった。
彼は、僕と遊んでいるときも、ふと気がつくと窓の外の遠い空を眺めたりしていた。
あの、寂しそうな横顔を今でも夢に見ることがある。
遠くを見つめる瞳。
ただ、僕の姿を映すときだけ現実を感じた瞳。
ユウスケが消えたのは、ある春の日のことだった。
よく人間たちが行方不明になることを消えるというらしい。
だけど、ユウスケのは、違っていた。
そんなものじゃなかった。
彼は、文字通り、消えてしまったのだ。
あの春の午後。
彼は、開け放った窓からいつものように遠い瞳をして空を見つめていた。
僕は、眠くてあくびをした。
それを見て、彼は、笑った。
「オヂサンは、気楽でいいね」
彼は、僕の喉を優しく撫でながら言った。
「いつまでも、今のままでいて」
僕は、そのときの彼の笑顔を忘れない。
僕が思い出す思い出の中の彼は、いつもあのときの笑顔のままだ。
最後に、彼は、僕に言った。
「なんだか、今日は、いいことがありそうな気がするよ」
そうして、彼は、消えてしまった。
突然に。
さっきまでそこに居たはずの人間が、一瞬後には、跡形もなくなっていた。
それが、僕と彼の別れだった。
僕は、最初、何が起こったのかわからなかった。
だから、しばらくの間居なくなった彼の姿を探して家の中をうろついた。
たんすの陰にも、ベッドの下にもどこにも彼の姿はなかった。
僕は、寂しくて泣いた。
「なぜ、泣いているんだい?」
ふと顔を上げると開いた窓のところに、見たことのないトラ猫がいた。
大きくて、立派な、素晴らしい猫だった。
「誰?」
僕は、きいた。
そのトラ猫は、答えた。
「誰でもない。僕は、名前のない猫なんだ」
名前のない猫は、すとんと僕の前に飛び降りてきて僕の耳元で言った。
「僕は、名前がない。だから、決まった場所に居ない猫なんだ。つまり、どこにでも居る猫なんだ」
「どういうこと?」
「つまり、ここにも居るけど、同時に、あそこにも居る。僕は、世界であって、世界は、僕なんだ。だから、僕は、この世界のことなら全て知っている。君の消えたご主人様のこともね」
「本当に?」
僕は、名前のない猫の方に身を乗り出した。
「ユウスケは、どこに行ったの?」
「どこにも行ってない」
名前のない猫は、言った。
「だけど、ここには、もう居ない」
「どういうことなの?」
僕に聞かれて、名前のない猫は、少し考え込んだ。
「彼は、僕と似たような存在になったんだ。つまり、ここにも居るけど、ここには居ない。あそこにも居るけど、あそこには居ない。彼は、そんな、不確かな存在になったんだよ。どこにも居るけど、どこにも居ない者。それが、今の彼なんだ」
「なんで、そんなことになっちゃたの?」
僕は、泣きながら聞いた。
「どうすれば、元の人間に戻せるの?」
「なぜ、は、僕には、わかっているから答えられる。どうすれば、も知っている」
「じゃあ、頼むから教えてよ」
僕は、名前のない猫にお願いした。
彼は、困ったような顔をした。
「かまわないけど、でも、それを知っても君には、できることは、何もないと思うよ」
「そんなこと、わからないだろ。頼むから、僕に教えてくれよ。本当のことを」
名前のない猫は、必死に頼む僕を見てため息をついた。
「いいだろう。わかっていることを教えることなんて簡単なことだからね。君のご主人様は、『永遠の子』によって、今の不確実な存在にされたんだ」
「『永遠の子』?」
「そうだよ。『永遠の子』。豆粒みたいなオタマジャクシだけど世界を百万回創造できるぐらいの力を持っている怪物なんだ」
「だけど、ただのオタマジャクシなんだろ」
僕は、言った。
「そんなやつ、僕が踏み潰してやる!」
「君には、できないよ」
名前のない猫は、笑った。
「誰もやつを傷つけることはできない。なぜなら、やつは、カエルになることのないオタマジャクシなんだからね」
「カエルにならない駄目なやつなんて、たいしたことないじゃないか」
「それは、違う」
名前のない猫は、声を潜めた。
「カエルにならないオタマジャクシだから恐ろしいんだ。普通の生き物ってやつは、産まれて成長して、やがて、死んでいく。それが、この世界のルールってものさ。だけど、やつは、違う。やつは、永遠に変わらない。この不確かな世界において、唯一の不変の存在なんだ。そういうものを人間がなんて呼ぶか、僕は、知っている。人間は、そういう存在を神と呼ぶんだ」
『神』というものの噂は、僕も知っていた。
人間たちは、『神』を恐れ、『神』のために争い、『神』のために愛し、『神』のために生きるという。
『神』を持つ者も、持たない者も不幸だ。
だけど、もっと不幸なのは、『神』を持ちながら『神』を失った者だとユウスケが前に言っていた。
その『神』がなぜユウスケを消したのだろうか。
「『永遠の子』は、なぜ、ユウスケを消したんだろう?」
僕の質問に名前のない猫は、答えた。
「そんなことは、知らない。ただ、君のご主人様を消したのは、間違いなくやつだ。やつがなぜ、そんなことをしたのかが知りたいのなら、やつに聞いてみることだね」
「君は、この世界の全てを知っているんじゃないの?」
「僕は、そこで何が起きているのかを知っているだけさ。何のためにそれをするのかなんて、僕には、わからない」
「でも、どうしたらユウスケが戻ってくるか、知ってるんだろう?」
名前のない猫は、僕の言葉にうなづいた。
「知っているさ。とても簡単なことなんだけど、でも、誰にもできないだろうことだよ。だから、君は、知らなくてもいいのかもしれない」
「教えて」
「わかったよ」
彼は、ため息をついた。
「知っても無駄なことだろうけどね」
「無駄でもいい。知りたいんだ」
「わかってるよ。いいかい、この世界のものがどうして存在を保っていられるのかわかるかい?本当に簡単なことなんだけど、皆、意外と気づかないっことなんだよ。それは、この世界を形成している物事の本質というものだ。君は、ここに存在しているよね。それは、なぜかわかるかい?それは、ね、君を見る者が居るからだよ。誰かが君を見ることによって君の存在は確かなものとなり、君は、この世界に存在することになるんだ。つまり、この世界の全てのものが、他の何かに見られることによって存在しているわけさ。だから、消えてしまった君のご主人様を元に戻すには、誰かが彼を見ればいいんだ」
「それだけ?」
僕は、正直、拍子抜けしていた。
僕には、できないことだと名前のない猫は言ったけど、そんな簡単なことならわけはない。
だけど、名前のない猫は、僕を同情の眼差しで見て言った。
「それだけだけど、それは、無理なことなんだ。少なくとも、僕や君には、絶対にできない」
「なぜ?」
「だって、君のご主人様は、どこにもいないからさ」
「でも、君は、どこにでも居るんだって言ったじゃないか」
「そうだよ。彼は、どこにでも居るけど、でも、どこにも居ないんだ。だから、誰も、彼を見ることは、できない。誰も、彼の存在を確かめることは、できないんだ」
「それじゃ、僕は、どうすればいいんだ?」
僕は、聞いた。
「どうすれば、ユウスケを助けられるの?」
「どうすることもできないよ」
名前のない猫は、言った。
「君にできることは、ご主人様のことを忘れてしまうことだけだよ。そうすれば、君の心も楽になる」
「それこそできないことだよ」
僕は、言った。
「ユウスケのことを忘れるなんて、僕には、できないよ」
「じゃあ、一生、消えたご主人様のことを思って泣いてすごせばいい。僕には、関係のないことだ」
「君は、『永遠の子』が、なぜ、ユウスケを消したのか、わからない、と言ったね」
「ああ」
名前のない猫は、うなづいた。
「そうだよ、それは、僕には、わからないことだ」
「僕は、『永遠の子』に会いに行くよ」
僕の言葉をきいて、彼は、声も出ないほど驚いていた。
僕は、続けた。
「そして、そいつにユウスケを消した理由をきくよ。できれば、そいつにユウスケを元に戻してもらう」
「それは、可能かもしれない」
名前のない猫は、言った。
「確かに『永遠の子』ならそれも可能だろうね。でも、やつは、何者にも会うことを好まない。無理やり会おうとしても、やつは、ドラゴンに守られているから、現実的に考えると、やつが会う気がなければ誰もやつに会うことはできないんだよ」
「それでも、僕は、行くよ」
僕は、言った。
「『永遠の子』に会いに行く」
僕の決心が変わらないことを知って名前のない猫は、面白そうに笑った。
「行けばいいさ。僕は、君を見守っていよう。君の存在がやつに消されてしまわないようにね」
「ありがとう」
そうして、僕の生涯でただ一度の旅が始まった。