Off The Rails
「それじゃあこの前の実力テストを返すぞー。じゃあまずは明石から取りに来い」
そういいながら数学教師は答案を返し始める。拓也が部活を引退してからすでに一ヶ月が経とうとしていた。七月に入り、気温が高くなるにつれて蝉もぼつぼつと鳴き始めている。拓也も答案を受け取ると、席に着いた。
結果は、六十二点。やや平均より上、といったところだ。すでに本気で医学部を目指している者たちならば八十点以上はとっているので、この時点ですでに拓也は遅れをとっていることになる。だがまだ焦るような時期ではない。たいていの高校生にとって重要なのは夏の過ごし方だ。部活も終わり、自由となった身でどれだけ遊びを我慢するかが勝負の分かれ目である。
(今日も塾か……。サッカー、したいなあ……)
どれだけそう思っていても、できないものはできない。母親の期待を一身に背負っている拓也に、そんな時間はなかった。この日も五時に授業が終わってからすぐさま塾に行かなければならない。分かっていたこととはいえ、やはり辛いことには違いがない。
「拓也、お前何点? 俺は、……三十二点!」
隣の席から拓也の机上を覗き込む様に身を乗り出し、そういいながら屈託のない笑顔をつくるのは、拓也と同じクラスでまだ現役サッカー部の日野良平である。坊主頭にこんがりとやけた肌は、彼がスポーツマンであることを容易に想像させる。そしてこの良平は、拓也が任命した次のキャプテンでもある。
「六十二点。まあまあってとこだよ。最近サッカー部はどう?」
やはり気にかかるのはサッカー部のことである。
「そうだなあ……、やっぱり中盤が弱くなったのは確かだな。やっぱりお前の穴を埋めるのは難しいってことだな。どうだ、もう一回サッカーやらねえか? 拓也がいれば選手権も夢じゃないと思うんだけどな」
拓也はその言葉が本気なのかそうでないかが分からない。そんな気持ちを知ってか知らずか良平は笑顔のままである。この笑顔に拓也は何度助けられたか分からない。辛い練習のときや試合でも、良平の笑顔はチームを盛り上げた。
「それ言うなよ。俺だって……」
そういって視線を落とす拓也に、良平はもはや何も言えず困った様な表情を浮かべ、黒板の前でテストの解説をしている数学教師の方を見やった。
(俺だって……)
二度ノックをすると、拓也は担任がいる職員室へと入る。昼休みに進路相談をするために担任に呼ばれたのである。この時期になると三年生は担任とじっくりと入りたい大学や学部などを見当していくこととなる。
「失礼します」
拓也の姿が見えると、担任の小笠原は手招きする。拓也は来客用の机を挟んで小笠原と向かい合うように椅子に座った。
「さっそく始めようか。たしか小野は国立大の医学科志望だったよな?」
事前に提出した進路志望を記入する紙をみながら、小笠原は口を開く。
「……ハイ。大丈夫ですか?」
「んーまあ、結局は夏休みの過ごし方にもよるな。どこの大学狙うかにもよるが、どちらにしろセンター試験九割近くはとらないと厳しいぞ。それだけとってさえいれば、あとは二次試験で大コケしなければ大概の大学には受かるだろうな。そうだな……、十月に七百は余裕で超えてないと難しいと思う。そういえば、お前学校の夏期講習は参加するのか? 塾とかに行くのなら強制はしないが……」
星野高校では毎年夏休みに入ると三年生を対象に二週間の夏期講習がある。家でなかなか勉強することができない生徒のために教師が好意で行っているものである。
拓也はやんわりとそれを断ると、職員室を後にした。
(夏休み、か……)
足早に廊下を進みながら拓也は考え込んでいた。夏休み、もしそれを勉強だけに使えるならば、なるほど国立大学に合格することはできるかもしれない。しかし、そうすれば体は完全に鈍ってしまい、もうサッカープレイヤーとしては役に立たなくなる。もしかしたら、今ならまだ……。
夕暮れと共にサッカー部員たちはグラウンドに駆け出していく。彼らが練習をするグラウンドの横を通る道が、拓也の帰り道だ。拓也の耳に、サッカー部員たちの威勢の良い声が突き刺さる。拓也の瞳に映るのは、自分が願い続けていた、想い続けていた姿だった。一つのボールを、必死になって追いかける、その瞬間が最高に好きだった。
いつしか脚を止めていた自分に気づいた拓也は、再び塾に向かって歩き始めた。
ゆっくりと歩いていたが、いつしかそれは早足になり、いつのまにか拓也は走り出していた。ショルダーバッグに入った参考書の重みが、なまった脚に負荷をかける。拓也は肺にも鋭い痛みを感じていた。しかし苦痛ではない。すべて自分のせいだ。親に逆らうこともせず、自分に嘘をつき続けていた、本当の気持ちを押し殺し続けていた自分のせいだ。全身に受ける風、流れる汗、重たく感じる脚、それらすべてが今は非常に心地よい。
ぜいぜいと肩で息をしながら、拓也は自宅の前で立ち止まった。目を閉じて、息を整える。そして心は決まった。もう迷いはない。この選択の結果がどうなろうとも、後悔はしない。
「まあ拓也、あなた塾はどうしたの? お腹でも痛くなったの?」
台所にいた美里が慌てたように話しかける。偶然その日が休みだった知治も、テレビをみていた顔をあげる。
「父さん、母さん、俺ずっと考えてた。このまま勉強し続けて、大学に入って、父さんみたいに医者になることも素晴らしいと思う。だけど俺……、今はサッカーがやりたいんだ。やりたくて、やりたくてしょうがないんだ。いつも考えてる。最後の試合のとき、こうしてたら、ああしてたらって……。こういう練習をしてれば、って……。今サッカーやらなきゃ、俺これから先ずっと後悔すると思う。だから……」
美里は顔を厳しくさせる。
「あなた自分が何を言ってるのか分かってるの? やっと部活も終わって、これから勉強に専念するって言ったばかりじゃない! それなのに……」
「美里、もういいだろ……」
じっと聞いていた知治が、静かな、しかしいつもより大きな声を出す。
「サッカーがやりたいなら、やればいい。止めはしない」
「あなた!」
美里が目つきを鋭くして夫をみる。
「医学科に入ることなんて、いつでもできる。来年だろうが、再来年だろうが、十年後だろうが……。でも、高校サッカーというものは、今しかできないものだろう? それならやればいい。どちらにせよ、そんな中途半端な気持ちで勉強しても、受かるはずがない」
この言葉に美里もやっとあきらめたように、視線を床に落とした。
「ありがとう、父さん、母さん……」
「だが拓也、約束しろ。決して中途半端にやるんじゃないぞ」
拓也はじっと父の顔を見つめ返しながら、深く頷いた。
「……約束するよ、父さん……」