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夏のはじまり

「二対一で風白(かざしろ)高校の勝ち、では……、礼!」

 六月にしてはかつてない程の照りつける太陽のもと、審判の毅然とした声が鳴り響き、小野拓也(おのたくや)の最後の高校総体が終わりを迎えた。高校一年生の四月からサッカー部に入り、二年以上も部活を続けていた者たちとも、もう共に公式戦のピッチ上で戦うことはできなくなるのだ。拓也は国立大学の医学部医学科を目指すため、負けた瞬間から勉強に励まなくてはならなかった。それが親との約束である。

 おそらく人生でこれほど泣いたことはないというほどに拓也は泣き続けた。試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、全身から力が抜け落ち、その場に崩れる様に膝をついた。すでに眼からは大量の涙が流れ落ちている。悲しいとか、悔しいという感情はすでに通り越し、自分がなぜ今泣いているのか分からなくなる程に泣きじゃくっていた。

 二年間、それは本当に長いようで短い期間だった。誰よりも早くグラウンドに来て、誰よりも早くボールを蹴り始める、これを拓也は欠かさなかった。公立高校というハンデがあっても、部活に力を入れている私立高校に勝ちたいと思い、朝練も欠かした日はなかった。

「県でベスト十六か……。三年生は、数人を除いて選手権に残ってくれるそうだが、残念だ。勝ちたかったな……。勝たせたかった……」

 白髪頭の少し太った監督、山根は、皆が少し落ち着いたと思う頃に口を開き始めた。拓也が一年生の頃からお世話になっている恩師である。

 ベンチから移動し荷物を置いている場所まで来ても、選手たちは皆その場に座り込み、泣き続けていた。何も試合に出ていた者たちだけではない。拓也の部活の総人数は五十四人、そのうち三年生は十八人だが、この中にはベンチ入りすらしていない者もいる。厳しいようではあるが、これが高校サッカーの現実である。彼らもまた、悔しいやら情けないやら、泣き続けていた。

 拓也は膝を抱えながら顔を膝につけていた。涙はもう、あまり流れない。何も考えられなかった。その中で、監督の一言一言が胸に突き刺さるようだった。

「お前たちは俺が今までみてきた中で、最高のチームだ……。誰よりも練習し、誰よりもサッカーを好きな様に見えた。俺が新しい練習を取り入れようとすると、お前たちは必ず皆で話し合い、その練習をさらにレベルアップさせていったな。俺はものすごく嬉しかった。負けても勝っても、それを無駄にはせず、さらに強くなっていくお前たちを、俺は誇りに思っていた……。俺はお前たちのサッカーが大好きだ。自由で、激しくて、それでとても楽しそうにするお前たちのサッカーが大好きだ。……今日負けてしまったのは俺のせいだ。許してくれ」

 山根はそういうと、まるで目上の者にするように、最大の謝罪の気持ちをもって深々と頭を下げた。部員たちのしゃくり上げる声が、彼らをさらに悲しくさせた。


 部員たちがぽつぽつと着替え始め、バスに乗り込んで拓也たちの通っている高校、星野高校に帰ったのは、もう空が赤く染まり始めた頃だった。試合は昼過ぎに終わったが、なかなか誰もその場から動こうとしなかったのである。バスの中でも部員は誰も、一言もしゃべろうとはしなかった。

 校舎の前の駐車場にバスは停まり、部員は肩を落としながらぞろぞろとバスから降りていく。最後にバスを降りたのは拓也だった。眼の周りは赤くなったままだが、もう涙は流れてはいない。

 最後に部員全員で円陣を組むことにした、試合前にいつもやっていたことだが、このメンバーでやることは最後なのだと、すべての部員が理解していた。皆流れてくる涙を拭う腕はない。その腕は、今は仲間とがっちりと繋がり合うために使っているからだ。キャプテンの拓也は、嗚咽を必死に抑えながら、息を肺いっぱいに吸い込む。

「ホシコー! ファイッ!」

「オシ!」

 拓也のかけ声とともに、部員全員の声が一斉に並ぶ。正真正銘、最後のチームプレイだった。

(ああ、これで本当に終わったんだな……)

 奇妙な安堵感が拓也の心を覆った。これからは少なくとも受験が終わるまでは、もうサッカーを忘れなければならない。拓也の成績は学校内では上の方だが、それでも決して非常に良いと言える程ではない。塾にも通い始めるだろうし、家でもみっちりと勉強をしなければならない。現役で国立の医学部を狙うということは、そうしなければならないと親からはよく言われ続けていた。

 学校からの帰り道、自転車に乗っていた拓也は、家の近くの小学校の校庭でサッカーをしている小学生たちを見かけ、ペダルをこぐ脚を止め、その光景に見入っていた。五人の小学生が、額に流れる汗を拭くのも忘れ、笑顔でボールで蹴り合っている。おそらく本当にサッカーが好きなのだろう。その笑顔が絶えることはことはない。たとえ自分がボールを持っていなくても、その顔は非常に嬉しそうである。

(俺も、あの子たちみたいにサッカーを楽しめていたんだろうか……)

 しばらくぼうっとその光景を見続けた後、横にずり下がってきたエナメルバッグを荷台に載せると、再び拓也はペダルをこぐ脚に力を込めた。


「ただいま……」

 そういいながらリビングに入ってくる拓也を複雑な表情で迎えるのは、拓也の母である美里である。

「おかえり。……惜しかったわね……」

 美里は夫の知治(ともはる)と共に今日の試合を見に行っていた。彼女からすれば、悲しい反面嬉しいといったところなのである。そもそも拓也の医学部合格を望んでいるのは、医者である知治というよりもむしろ彼女だった。彼女の本心からすれば、部活など早めに切り上げて勉強に専念して欲しかったが、これまで我慢してきたのだった。

「うん……。腹減った。今日のメシ、なに?」

「何度かお前の試合を見に行ったが……」

 低い声で拓也の言葉を遮ったのは、ソファーに座りながら新聞を読んでいた知治だった。新聞から少し顔を上げて眼鏡を外し、拓也のさらに向こうを見つめるようにしながら言葉を続ける。

「今日の試合は素晴らしかったな。俺にはサッカーのことは未だによく分からんが、それでも何となく、上手くは説明できないが、良い試合だったと思う」

 そんな言葉とは裏腹に、知治はにこりともせずに淡々と言い続けた。別に怒っているわけではなく、彼はただ感情を表に出さない人物なのである。もちろんそれは一緒に暮らしてきた拓也には分かっていたし、むしろ彼がこんなことを言うのは初めてのことだった。だから拓也は素直に嬉しく思った。もう枯れる程泣いたはずだが、少し涙が滲んだ。

 こうして拓也の高校サッカーは、一旦終わりとなった。

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