シュレディンガーの子猫
「シュレディンガーの子猫だ!」
塀と塀の間を覗き込んだマリはそう言った。
僕も同じように塀の縁に顔を押し当てて覗くと、わずか20センチほどの隙間に、茶色い毛並みの子猫の背中が見えた。地面に丸くなったまま、じっとしている。
「ほんとだ……」
驚く僕をマリは気にも留めず、子猫に触れようと隙間に手を突っ込んだ。
「やめときなって。驚いてもっと奥に行っちゃったらどうするの?」
その先は川になっているため、僕らが反対側にまわり込むことはできない。猫なら塀を伝って川沿いを進んで行けるだろうが。
「もうちょっと、もうちょっとなんだけど……」
マリの手はなんども宙を掻いている。自分に都合の悪いことを聞こえないフリをするのは、彼女のよくない癖だ。
「ちょっと、そこの木の枝持ってきてくれない?」
マリの伸ばしているほうとは反対の手が、道ばたに落ちている小枝を指さした。
「あんなのでつついたら、かわいそうだよ」
「そんなひどいことしないって!ちょっとこっちを向いて欲しいだけ」
確かに、子猫はお尻をこっちに向けているので僕らは顔を見ていない。茶色の子猫だということと、このタイミングで見つけたということだけで、勝手にそうだと決めつけていた。
仕方なく小枝を拾ってマリに渡した。
「ほら、こっちだよー。こっち向いて」
僕のいまの位置からは子猫の様子が見えない。しかし、シャーッと威嚇の声がする。
「ほら、怒ってんじゃん」
とうとう、マリはなにも言わなくなった。もぞもぞと身体を動かし、必死に小枝を伸ばしている。
彼女をここまで必死にさせているのは、僕にも原因がある。というか、ほぼ僕のせいだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「シュレディンガーの猫?」
そう聞かれて僕が顔を上げると、マリの色素の薄い茶色の瞳がまっすぐこちらを見つめていた。
「そう、シュレディンガーの猫」
「猫の本?歩って猫、好きだっけ?」
「そういうことじゃなくって、オーストリアの物理学者が提唱した思考実験のことだよ。この本にその内容が取り入れられてるんだ」
僕はそう言って、机のSF小説の本を閉じた。
「ああ、そういう……」
マリの上まぶたが、重たげに下がった。話題に興味がないときの顔だ。彼女は感情がすぐに顔に出る。
「どんな本って聞いてきたから、答えたんだけど」
「うん、いいと思う」
自分から聞いておきながら、ずいぶんと適当な返事だ。これ以上の会話は無意味だろうが、あえて話を続けてやろう。ちょっとくらい仕返ししても、バチは当たらないだろうし。
「この実験は、目に見えない量子の世界では、目に見える世界の常識が通用しなくなることを説明してるんだよ」
マリは表情を変えずに、僕の顔だけをじっと見ている。一応、話には付き合ってくれるようだ。
「まあ、簡単に説明すると__ここに蓋つきの箱があるとする。この机、ちょうどの大きさの箱ね」
僕は両手のジェスチャーで、机の上に正方形の箱を描いた。
「うん」
「この中に猫を一匹入れて、蓋をします」
「なんで?かわいそうじゃん」
「だから、思考実験だって。頭の中での話」
「えー……それにしたって、なんで猫なの?」
「いいから集中!__思い描けた?」
「ちょっと待って」マリは目を閉じた。
しばらく黙っているマリに、痺れを切らした僕は言った。
「そんな難しく考えなくていいよ、ざっくりでいい」
「……はい。できた」
「進めるね。この箱にはパイプが通っていて、毒ガスを発生させる装置とつながってる」
「うん」
かわいそうとか言っておきながら、そういうところはすんなり受け入れるんだ……と思ったが、とりあえず先に進めよう。
「その装置を起動させるスイッチはいま、君の手の中にある」
マリの膝の上の両手が、スイッチを握る動きをした。彼女の目は閉じたままだ。そのほうがイメージしやすいのだろう。
「スイッチを入れると、二分の一の確率で装置が起動して毒ガスが発生する。つまり二分の一の確率で猫は死ぬ。でも、なにも起こらずに助かるかもしれない」
「うん」
「じゃあ、そのスイッチを押して」
マリは躊躇せず、両方の親指でスイッチを押した。さっきはあんなに時間をかけた割に、急に淡々と作業をこなすようになった。本当にちゃんとイメージしているのだろうか?
「押した」
「とりあえず、ちょっと待とうか」
「どのくらい?」
「ええと、じゃあ30分」
「そんなに!?」
「頭の中なんだから、そこはスキップして」
「うーん……」
マリは腑に落ちないような声を漏らした。案外、設定にこだわるタイプなのかもしれない。
「……はい、経ったよ」
「まだ蓋は開けちゃだめだよ」
「うん」
「じゃあ、もう目を開けようか」
マリはゆっくりと目を開けた。
「さて、箱の中の猫は生きてる?死んでる?」
「……死んでる」
「結構すぐ答えたね、確率は半々なのに」
「だって、私そういうの引いちゃうから」
「そういうの?」
「嫌な気配がすると、その通りになっちゃうの。初詣のおみくじだって、引く前に嫌な感じがすると大体悪いの引いちゃうし。今年なんて、朝起きたときから胸騒ぎがして……それで、本当に大凶だったんだよ」
「それは……ちょっとキツいね」
「猫を箱に入れるって聞いたときから、嫌な感じがしていたから……」
なるほど、マリは経験則で答えたわけだ。そういう発想も嫌いじゃない。
「まだ子猫だったのに、かわいそう……」
「えっ、なんで子猫?」
「大人の猫って指定はなかったでしょ?」
「まあ、そうだけど。シュレディンガーの“子猫”を想像する人は、珍しいと思う」
ここではっとする。
そう、これは思考実験だ。子猫の死を悲しむ話がしたいわけではない。
「そういう話じゃなくて、とにかく君は猫はもう死んじゃったと考えるわけだね」
「そう。だから、蓋は開けたくない」
「わかった、開けなくていい。この思考実験が言いたいのは、生きてるか死んでるかを当てることじゃなくて、蓋を開けなくても“すでに結果が出ている”と考えるのが目に見える世界の常識なんだ」
「そりゃあ、そうでしょ」
「でも、量子力学的にはそうは考えない。蓋を開けてその目で見るまでは、猫は“生きてもいるし、死んでもいる”んだ。ふたつの状態が重ね合わさっていると考えるんだよ。これが目には見えないけれど、僕たちの世界を構成する量子の世界で起こっていることなんだ」
僕は熱を込めて最後を締めくくった。我ながら、うまく話せたと思う。小学生相手にでも、うまく説明できそうだ。想像力が豊かなマリになら、なおさら響いただろう。
しかし、彼女の反応はそっけないものだった。
「ふーん、そうなんだ。じゃあ生きてるんだね、よかった」
「いや、そういうことじゃ……まあ、いいか」
僕は気分転換に散歩に行こうとマリを誘って、ふたりで僕の部屋を出た。
まだ10月下旬の昼間だというのに、今日は随分と肌寒い。お互い口を開かず、身を縮こませるようにして歩いた。平日なので、どこを通っても人通りはほとんどない。
並木道まで出た。両脇のイチョウの木で、道は綺麗な黄色に染められている。
「この通り、すごく味があるねー」寒いからとはいえ、これ以上の無言に耐えかねた僕はそう言った。
「うん」マリは頷いた。そして少し間を開け、唐突に言った。
「生きてた子猫はどこに行っちゃうの?」
「……え?」
「私が蓋を開けて死んだ子猫を見ちゃったら、生きてたほうの子猫はどこ?消えちゃうの?」
「さっきの話……?てっきり、興味ないんだと思ってた」
「子猫がどこに行くのか知りたいの」
「えっと、これは多世界解釈的な見方になるけど__生きてる状態と死んでる状態の重ね合わせは、観測された瞬間に、つまり君に見られた瞬間に異なる世界に分岐したということになる」
「世界がふたつに分かれたの?」
「そう。生きてる子猫を見た世界と、死んでる子猫を見た世界のふたつにね。いまの君は、後者の世界にいるということだね」
マリは黙り込んだ。落ち葉を踏む、ふたりの乾いた足音だけがあたりに響いている。
「もう、この話はやめようよ。多世界解釈だって、あくまでひとつの考えだし」
「……てない」ぽつりと、マリがつぶやいた。
「なにか言った?」
「私、まだ蓋を開けてない」
「ああ、そういえばそうだったね」
「じゃあ、生きてる子猫を見ればいいんだ」
「え?いや、この話は好きなほうを選べるってことじゃないんだよ。ただ、観測されるまでは状態が重ね合わせにあるっていうだけで__」
「じゃあ、もし生きてるシュレディンガーの子猫を見つけたらどうする?」マリは僕の話を遮るように言った。その目は少し挑発的なものを含んでいる。
「じゃあ……ランチ奢るよ」
「よしっ。私が見たのは、茶色のふわふわの毛並みの子猫ね。帰るまでに見つけたら私の勝ち」
「ちょっと待ってよ。それじゃあ、どこにでもいる子猫じゃないか。その子猫だって言い切れる特徴はないの?他の猫にないような特徴」
「んー……あ、そういえば。全身茶色なんだけど、顎のところにだけ白い丸模様がある!正面から顔をよく見れば、わかるはずだよ」
「なるほど、それなら確かに他と被ることはないね」
「じゃあ、探そう。よーい、スタート!」マリはそう言うと、早歩きで僕の前を進み始めた。
僕はマリの背中を見ながら、しめしめと思った。彼女が設定にこだわるのはさっき確認したから、軽く言いがかりをつけてやればきっと乗っかるだろうと思ったが、うまくいったようだ。家に帰るまでに茶色の子猫を見つけるだけでも、十分ハードルは高かったというのに。
ふたりであたりを慎重に見回しながら、15分ほど歩いた。子猫はおろか、散歩する犬すら見当たらない。
「残念だけど、これ以上先に行っても帰りが大変なだけだよ。そろそろ、引き返そう」
僕の提案を渋々飲んだマリは、くるりと回れ右をして来た道を戻り始めた。
「……いま猫の鳴き声しなかった?」マリがそう言ったのは、戻り始めてすぐのことだ。
「え?なにも聞こえなかったけど」
マリは耳に手を当てて集中している。
「……ほら、また聞こえた。子猫の声だ!」
そう言うなり、マリは駆け出し、家と家の間の狭い路地へ入っていった。僕も仕方なく後を追った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
__そして現在。
「こっち向いた?」
マリの格闘にそろそろ飽きてきた僕は、彼女の後ろから雑に質問を投げた。
「……まだ。威嚇はするくせに、なんでこっちを向いてくれないの?」その声には、苛立ちが混じっている。
「もう帰ろう。僕の負けでいいから」
「勝ち負けなんかどうでもいいの。私はシュレディンガーの子猫だって証明したいの」
「そんなのは、シュレディンガーも望んでないと思うよ」
「私が望んでるの!」
一度こうなったら、マリはもう手がつけられない。多分、日が暮れても続けるだろう。いや、真面目な話。
「わかった。じゃあ、ちょっとそのまま続けてて」
マリはようやくこちらに顔を向けた。「え、まさか帰る気?」
「ちがう、ちがう。こうなったら餌で釣ろう。コンビニでなにか買ってくる」
近くのコンビニに入ると、焼き芋のいい匂いが店内に漂っていた。
急に腹が鳴った。そういえば、昼食がまだだった。
「子猫の餌より、僕たちの飯が欲しいよ」
そうぼやきながら店内を見渡すと、品出し中の店員がいた。近づいて声をかける。
「すみません、子猫にあげる餌みたいなのって売ってたりします?」
「ああ、そこの棚にありますよ」
店員の指さした棚へ行くと、あった。ちゃんとしたキャットフードが。
「でも、こんな大きいのはいらないよな」
なにか、ほかに食べさせてもよさそうなものはないか。
焼き芋の匂いに、また腹がなる。
吸い込まれるようにレジまで歩き、焼き芋のケースの前に立つ。ケース下のヒーター部分に巻かれた商品広告には、黄金に輝く芋の断面の写真が載っている。
「うまそう……」そうつぶやき、ごくりと唾を飲み込んだ。
「何本お取りしましょう?」レジの店員が察して近づいてきた。
「あの……焼き芋って猫にあげていいんでしょうか?」僕はケースの中を指さして言った。
「ちょっとだったら大丈夫ですよ。でも猫ちゃんは消化の力が人間より弱いから、皮の部分は与えないほうがいいですねー」
店員はすらすらと答えた。
「うちの猫ちゃんたちにも、ときどきおやつであげてるんですけど、結構よろこんで食べますよー」
「そうなんですね、じゃあ2本ください」
熱々の焼き芋の入った紙袋を手に現場に戻ると、マリがスマホをいじりながら僕の帰りを待っていた。
「子猫、どうなった?」
「同じ。全然こっち向いてくれない」
「でも、まだいるんだね」
「こんなに頑固に動かないなんて。実は猫じゃないのかも」
頑固さならマリもいい勝負だと思うけどな。とは、口が裂けても言えない。
「ところで、ずっと焼き芋の匂いがしてるんだけど」
「そう。買ってきたから」紙袋をマリのほうへ突き出した。
「それが餌?」
「うん。ちょっとだったら、あげても大丈夫らしい」
「ふーん……」
「どうしたの?」
「なんでもない。それより、ちゃんと冷ましてね。猫舌なんだから」
「え、僕がやるの?」
「だって、歩が買ってきたんでしょう」
僕は胸がきゅっとして、一歩後ずさった。「……あのさ。実は、猫苦手なんだよね」
「えー!そうだったの?枝でつついたらかわいそうとか、さんざん言っといて?」
「……あれは、つついた勢いで飛び出してきたら嫌だなって思って。子どものころ、近所の猫に引っ掻かれて。それからダメなんだ」
__あと、棒でつついたらっていうのは、一回しか言っていない。マリにとっては、どっちでもいいんだろうけど。
「わかった、袋こっちに向けて」マリはこちらに手を伸ばした。
「熱いよ、気をつけて」
そう言いながら、僕は紙袋を開いた状態でマリへ向けた。彼女は片方の焼き芋の先を手でつまむ。が、すぐにその手を引っ込める。
「大丈夫?」
「うん。想像以上に熱くて、ちょっと驚いただけ」
マリは着ているカーディガンの袖口を伸ばし、軍手代わりにして焼き芋の先を小さくちぎった。すると、湯気につつまれて黄金の断面が現れ、甘い匂いがあたりに漂った。
「すごく美味しそう」
「うん、絶対うまいと思う。僕らもあとで食べよう」
そしてマリは口をすぼめ、なんども断面に息を吹きかけた。息に押された湯気が空中でゆらめくのを、僕はなんとなくぼーっと見つめていた。
「よし、もう大丈夫」
「あ、皮はあげないほうがいいってさ」
マリは小さく頷いて焼き芋の皮を剥くと、塀の隙間の前で膝立ちになった。
「ほら、シュレディンガーの子猫ちゃん。美味しいお芋ですよー」
僕もマリの頭の上から隙間を覗く。匂いに釣られたのか、顔を上げてきょろきょろしている子猫の後頭部が見える。
「お、いい感じ。このままこっち向くんじゃない?」
「ほらー、こっち向いてー」マリは腕を伸ばして、焼き芋のかけらを子猫へ近づけた。
しかし、子猫はなかなかこちらに顔を向けてくれない。まるで、僕たちの意図を察してからかっているようだ。
「もう、じれったい!近くに投げてみる!」そう言ってすぐに、マリはかけらを下から放り投げた。
かけらは弧を描いて、子猫の尻尾のあたりに落ちた。
すると、子猫の背筋がぴんと伸びる。
「あ、振り向くかも」マリは言った。
その直後、子猫はくるりと時計回りに身体を回して地面の芋を咥えた。その瞬間、一度だけこちらへ目を向ける。その上目遣いの顔は、なんというか……むちゃくちゃ可愛い。触れないことが悔やまれるくらいに。
「こっちおいで」僕は思わず口に出していた。
マリは驚いて僕を見上げた。「え、どっちよ!?」
しかし僕の願いも届かず、子猫は焼き芋のかけらを咥えたまま背を向け、反対側へと走り去ってしまった。
「あー……行っちゃった」マリは肩を落とした。
「子猫、可愛かったね」
立ち上がって膝の土を払うマリに僕は言った。
「苦手とか言っておいてね__それより」
マリは僕に顔をぐっと近づけた。「どうだった?シュレディンガーの子猫だった?」
「え……?見てないの?」
「歩が『こっちおいで』とか変なこと言い出すから、気を取られちゃって。で、どうだった?」
「えっ……と」
「顎に白い丸模様だよ。あった?」
「ごめん、可愛いのに気を取られて確認するの忘れてた」
「えー!見てないの!?」
「ご、ごめん」
マリは深く息を吐いた。
「まあ、仕方ないね。私は一瞬しか見れなかったけど、確かにすっごく可愛かったし。顔が見れただけでもよしとするかー」
僕たちは、イチョウの木のある並木道まで戻ってきた。
「あ、そういえば。焼き芋食べる?少し冷めてるかもしれないけど」
僕は横を歩くマリに言った。
「うん」
先がもがれていないほうの焼き芋を取ってマリに渡そうとすると、彼女は言った。
「私はさっきのほうでいいよ。歩は新しいほう食べて。いろいろと付き合ってもらったし」
「じゃあ遠慮なく」
ふたりで焼き芋を頬張りながらイチョウの葉に染められた道を歩いていると、マリは唐突に聞いてきた。
「なんでシュレディンガーの子猫にこだわったか、聞きたい?」
「あ、うん。聞いていいなら」
「あの特徴はね、昔うちで飼ってた猫のなの。名前はちゃみ。まだ幼かった私が名付けたの。茶色でみゃーみゃー鳴くから」
「……え、どういう意味?」
「だから、“ちゃいろ”で“みゃー”と鳴くから“ちゃみ”なんだって。子どもの考えることなんだから、別にいいでしょう?」
「そ、そうだね。ちゃみ、いい名前だよ」
「とにかく、ちゃみの特徴なの」
「あ、もしかして……ちゃみは子猫のときに死んじゃった……とか?」
「失礼ね、ちゃんと元気に生きたわよ。2年前に寿命で死んじゃったけど」
「そう……え、ちょっとまって。じゃあ、ちゃみを箱に入れたの!?毒ガス装置とつながった箱に!?」
「入れたくてそうしたわけじゃないわよ!……でも、頭に子猫のちゃみが浮かんじゃったの」
マリは視線を下げて話を続けた。
「私、小さいころはちゃみとよく遊んでたの。でもある日、私がふざけてちゃみをおもちゃの箱の中に閉じ込めちゃって。すぐ出してあげたんだけど、すごく怖がらせちゃったみたいで……。それ以降、家族の中で、私にだけ懐かなくなっちゃった。なんども打ち解けようとしたんだけどダメで、そのまま天国に行っちゃった……」
「そうなんだ……」
「あのときのことは、いまも後悔してる。だから話を聞いたときに、ちゃみが浮かんじゃったんだと思う。しかも、そのあと本当に茶色の子猫を見つけちゃって……もしかすると、“ちゃみと仲良くやってる世界線”に触れてみたいって、頭の片隅で思ったのかもね」
「……ごめん、辛いこと思い出させて」
マリは首を振った。
「ううん、むしろ感謝してる。この話、家族以外にはしたことがなかったから。歩に話せて、なんだかすっきりした」
マリは顔を上げると、僕に顔を向けた。
「私のほうからも聞いていい?」
「なに?」
「餌買ってくるって言って、なんで焼き芋買ってきたの?」
僕は頭を掻いた。「いやー、匂いに釣られて……」
「ぷっ……ははっ」突然、マリは吹き出して笑った。
「どうしたの?」
「焼き芋はちゃみの好物だったんだよ。まさか、それを買ってくるとは思わなかった」
「そうなんだ!すごい偶然だ」
「ちなみに、私の好物でもある」
「……知らなかった」
「今日は、私のことたくさん知れたね」
「そうだね」
僕はそう言って、足元を見た。イチョウの落ち葉が積み重なり、まるで黄色い絨毯のようだ。
この道は、ずっとまっすぐ続いている。でも、もしかすると本当は、どこかでふたつに分かれるのかもしれない。目には見えないところで。
横のマリは、満足そうに焼き芋を頬張っている。
僕は自分の焼き芋の先を小さくちぎって、空へ向けた。
「なにしてるの?」
「ちゃみが食べるかなって」
「そうだね」マリも同じように小さくちぎって、空へ向ける。
ちゃみへ向けた焼き芋が、ふたつの月のように昼の空に浮かんでいる。
その黄金色の断面は、通りに生えるイチョウの黄色と相まって、さらに輝いて見えた。
おしまい




