サクラサクまで、君の逃避行
『お兄ちゃん、こっちにおいで。彩菜を抱きしめていいよ。今日一日お兄ちゃんは頑張ったんだから、疲れを全部癒してあげる。なでなでもしてあげる。だから……ね?』
あぁ、なんて健気な子なのだろうか。あまりの包容力に涙が出てしまった。
ティッシュで拭かないとな。ここが俺の家でよかった。こんな姿、誰かに見られたら恥ずかしいなんてもんじゃない。
でも、泣いてしまうのは仕方ない。彩菜ちゃんの包容力はそれほど素晴らしいのだから。どんなことがあっても温かな笑顔で支えてくれる。まさに俺が理想とする女性だ。今すぐにでもその胸に飛び込みたいが……残念なことに住んでいる次元が違う。2次元に行く方法、誰か見つけてくれないかな。
クーラーの効いた部屋でそんなことを思いつつ彩菜ちゃんのよしよしシーンをこれでもかと堪能した後、俺は彼女が表紙に描かれている本を閉じた。
年下でありながら年上のように落ち着いていて、神様のような慈愛の心を持っている女性。いいなぁ、俺もその腕の中で——
「ちょっと祐介、何やってんのよ! あんた、浪人中でしょ!?」
突然の大声で俺の妄想は一瞬にして吹き飛んだ。しかし、妙だ。ここは俺が1人暮らしをしている家。誰かが入ってくるなんてありえない。
つまり、外で誰かが揉めているのだろう。
(しかし、祐介か。俺と同じ名前の人がいるんだな。それに浪人中って。全部一緒じゃないか)
奇跡としか思えない一致に俺——石見祐介の口角が上がる。
まぁ、そんなことはどうでもいい。彩菜ちゃんのよしよしシーン、もう1周だけするか。
再び本を広げようとして——
「話聞けっての!」
——奪われた。
本を連れ去った犯人を見ると、そこには廣谷奈々の姿があった。
彼女は光を受けて美しく輝く長い金髪が特徴的な俺の幼馴染。社長令嬢と一般市民という格差があるのに仲良くしてくれる、幼稚園の頃からの女友達だ。
「彩菜ちゃん! 行かないで!」
「何言ってんの。こんな妹なんているわけないでしょ?」
「彩菜ちゃんは妹じゃない、幼馴染だ。俺にもこんな幼馴染がいたらな……」
「あら、私じゃ不満ってわけ? こんなにお淑やかで可愛い幼馴染なのに、ずいぶんと良い度胸しているわね。その喧嘩、言い値で買うわよ」
本を片手に指を鳴らす奈々。暴力反対。やめてください。怖いから。
それに、本当にお淑やかで可愛かったらそんなことしないと思う。
言ったら速攻で拳が飛んでくることが容易に想像できるので、口が裂けても言わないけど。
「ごめん、奈々に不満はないんだ。ただ、もうちょっと……ね? 彩菜ちゃんみたいになれないかなって」
「無理」
「無理かー……」
2文字で返されてしまった。断固たる意志を感じる。
「だって、その彩菜ちゃんは負けヒロインなんでしょ? 創作物から学ぶのが嫌っていう訳じゃないけど、負けた人から学ぶ必要はないわ。私、負けたくないし」
「いや、彩菜ちゃんはまだ負けてない! 確かに刊が進むにつれ出番は少なくなって、最新刊ではお兄ちゃんに後輩の彼女ができたけど! それでも負けてない!」
「負けているわよ、それ。大敗北じゃないの」
「まだわからないぞ。俺が何度も読めば、いつか彩菜ちゃんが勝つルートも——」
「絶対にないから。読み返すと内容が変わる漫画って何よ、ホラーの一種じゃないの」
奈々が本棚に漫画を戻しに行く。
さらば、彩菜ちゃん。また夜に会おう。
「それで……なんでここにいるんだ?」
彩菜ちゃんの喪失から立ち上がり、ふと気づいたことを聞いてみた。
よく考えれば、ここに奈々がいるなんて意味不明すぎる。
「え? あー……その、ね」
「なんだよ、さっきまでの威勢の良さはどうした」
「……わかった。じゃあ、はっきり言ってあげるわ。私、今日からここに住むから」
——は?
今日からここに住むって言ったか?
恐らく聞き間違いだろう。ここは賃貸のアパート、いきなり2人暮らしするなんて契約上無理なんだから。
だから、今日のところは帰ってもらおう——
「ちなみに大家さんの許可はもう取ってあるから抵抗しても無駄よ」
大家さんは俺に味方しなかったらしい。
入居者本人が不在でどうやって許可を取ったんだ。無茶苦茶すぎる。
「俺の楽園が……」
「よかったわね。可愛い幼馴染のおかげでさらに楽園になったわよ」
「いや、ちょっと待て。1人暮らしをしているが、俺は浪人の身だぞ。勉強しなきゃいけないのに気が散ってしまう」
「さっきまで漫画読んでいた人が何言っているの? それに、勉強ならたっぷりと教えてあげるわよ。現役帝大生のこの私が」
言い返せねぇ……
帝大は俺の志望校だ。合格に近づくためにも奈々の力は借りたい……!
「それに、こうなっているのは祐介のせいでもあるんだから、協力しなさい」
「え、俺のせい?」
「そうよ。祐介が浪人してそばにいなくなったせいで、私は縁談を沢山持ちかけられたの。だからこうして逃げてきたのよ」
「奈々が逃げるほど……?」
奈々は強い。物理的にも、精神的にも。困難なことがあったって、いつも正面から打ち崩していた。
だから、彼女が逃げるなんて想像がつかない。
「えぇ、無理やり結婚させられそうになったこともあるわ。半年くらいならそれでも1人で抵抗できるけれど……祐介が合格するまでずっとは無理ね」
「そうなのか……」
そこまで結婚を急かされているのか……
社長令嬢とはいえ、あまりにも時代錯誤的だ。
そんなことを考えていた時、俺はふと先ほどの奈々の発言に違和感を覚えた。
「そういえばさ、俺がそばにいなくなったせいってどういう意味だ?」
「それは簡単よ。今まで私は縁談を断るのに祐介を利用していたの。彼がいるから無理ってね」
「はぁ!? 奈々、結婚を断るためとはいえ、好きでもない奴をよくそんな彼氏代わりに——」
「あら、私は祐介のこと好きよ? 気付いていなかった?」
奈々の顔はにこやかだが、その瞳は真剣そのもの。冗談を言っている感じではない。
幼馴染からの予想外の告白に身体の芯から熱が——クーラーの冷風でも冷ませない温かな熱が溢れだす。
暑いのに、熱いのに、嫌じゃない。
「……それ、本当か?」
「本当に決まっているでしょ? じゃなきゃ、いくら幼馴染とはいえ男の家に逃げ込むわけないわ」
奈々は俺の隣に来ると、
「だから……ね。私を守ってみせて、幼馴染くん」
砂糖すらも辛く感じられるほど甘い声色で囁いた。
いままで誰かと親密な関係になったことがなく、この甘さに免疫がない俺にできたのは頷くことだけだった。
♢
奈々がここに住んでから数ヶ月、暖房が手放せない季節になった。
予報ではそろそろ雪が降るらしい。寒いのは嫌いだが、やはり雪はテンションが上がるな。
俺の成績はというと、奈々のおかげでメキメキと上がっている。
今までC判定が最高だった模試も、平均でB判定、調子がいいときはA判定までいくようになった。このままいけば春は近い。本当にありがたい存在だ。
ただ、悩みがないわけではない。
その悩みは夜になってくる。
「祐介、好きよ……」
ほら、今日も来た。
最近気付いたのだが、俺は夜な夜な枕元で愛を囁かれている。この美少女幼馴染さんに。
顔が良いだけに威力が高い。
だから、俺の理性をぶち破って、この幼馴染の愛に応えたいという気持ちが湧き上がってくる。
何を隠そう、俺も奈々のことが好きなのだ。
今の2人での生活は安心と落ち着きがあり、とても心地よく時間が過ぎていく。
そうした時間に浸っていくうちに、奈々が好きだと気付いたのだ。
好きな人から毎晩こんなことをされて平静でいられる男なんていない……が、今は我慢するしかない。
俺は浪人生、ただでさえこれ以上受験に失敗するわけにはいかないのだ。それにもかかわらず、幼馴染と恋人になったので勉強に集中できなくて落ちちゃいました、なんてなってみろ。どれだけ怒られても文句は言えない。
それに……浪人生じゃ責任も取れないし。
「祐介は彩菜ちゃんが好きなのよね。包容力のある女性が好きなのかしら……包容力……こうかしら?」
柔らかな指が俺の頭に触れる。慈しむかのように、愛でるかのように、彼女の手のひらは行き来している。
幼少期に経験した先生や両親に撫でられるのとは違う、これはとんでもなく気持ちいい。
どうしてなんだ、お兄ちゃんよ。彩菜ちゃんのナデナデだってこれくらいの威力はあっただろう。なぜ幼馴染を選ばない。幼馴染こそ至高じゃないか。
(だめだ、漫画のことを考えても頭に神経が集中してしまう)
このままでは暴走してしまいそうなので漫画のことを考えて気をそらそうとしたが、効果は一切ない。
こうなったからには仕方ない。今すぐにでも抱きしめたいという欲望を抑え、固く目を閉じる。今の俺の精神力は巨岩にも匹敵するだろう。
「祐介は私……奈々が好き。祐介は奈々が好き。祐介は奈々が好き——」
なんか呪文のように唱え始めた。
睡眠学習みたいな感じで深層心理にすり込もうとしているのか!? 怖すぎるだろ。
ただ、実は起きている俺にそんな攻撃は効かない。
それに、もう好きだし。寝ていたとしても無効化できる。
そうとも知らずに延々と唱え続ける奈々は……うん、可愛い。可愛いという言葉しか出てこない。
「おやすみ、祐介」
永遠にも感じられた夜がついに終わる。
彼女のベッドからはすぐに寝息が聞こえてきた。
こっちは寝られないというのに。俺の頭には、まだ優しい感触が残っているというのに。なんて奴だ。
そんな夜を過ごした翌日、俺は当然勉強に身が入らない——なんてことはない。
本番も近いのだ。教えてくれている奈々のためにも、奈々の誘惑は振り払わねばならない。
……どっちも奈々じゃねぇか。
「ちょっと、ここ間違えているわ。こんな初歩で間違えるなんて珍しいわね」
「本当だ。こんな単純な計算ミスを……」
「集中できてないんじゃない? 入試本番が近づいて不安なのはよくわかるけれど、ちゃんとしなきゃ実力が発揮できないわよ」
誰のせいだと思っているんだ。
しかし、自分では集中できていると思っていたがそんなことなかったらしい。
……これはダメだ。触れないでおこうとも思ったが、解決しておかなきゃいけないよな。
「奈々、聞いてもいいか?」
「なに? わからないところでもあるの?」
「そうじゃなくて……最近気付いたんだけどさ、夜に何かしてないか?」
俺の言葉を聞いた瞬間、みるみるうちに奈々の顔が赤く腫れていく。
額にキラリと光るもの——汗が出てきた。冬だし、暖房の温度もそこまで上げていないのに。
「あまりにもわかりやすすぎるだろ」
「……うるさい」
「俺に告白するだけならまだしも、昨日はすごかったな。撫でたり、睡眠学習させようとしたり……」
「う、うるさいっ! 好きな人に好きになってほしいって思うのは普通でしょ!? 私は悪くない!」
ハチャメチャに開き直りやがった。
長く美しい金髪をくるくるといじりながらこちらを睨みつけてくる。
でも、その瞳には少し涙がたまっている。そのせいで睨まれているのに威圧感はない。
「……なによ。文句あるの?」
「いや、可愛いところもあるんだなって思ってな」
「か、可愛い——! あんたねぇ、そういうところよ。これ以上私の心をつかんでどうするつもり? 浪人生のくせにふざけないでくれる?」
褒めたはずなのに怒られてしまった。理不尽すぎる。
「でも、バレてしまったからにはしょうがないわ。これから覚悟しておくように」
「覚悟って……俺、何されるんだ?」
「そうねぇ、例えば添い寝とか。もちろん睡眠学習付きで」
ふざけないでくれるか?
浪人生の夜を何だと思っているんだ。
受験対策には睡眠も大切。その質を落とすわけには——
「その代わり、私を抱き枕代わりにしていいわ。温かいし、快適な睡眠のサポートになれるわよ」
思わず喉が鳴ってしまう。人肌恋しい冬にピッタリの提案だ。
「な、なかなか面白そうじゃないか」
「でしょう? 私は祐介に抱きしめられて嬉しいし、得しかない——」
奈々が熱弁していたその時、玄関のチャイムが鳴った。
せっかく良い話をしていたのに、水を差しやがって。
「俺が出るよ」
「いいわ、私が出る。祐介はその問題でも解いておいて」
「……わかった」
奈々が玄関へと歩いていく。
その後ろ姿を見つつ、さっき間違えた問題を解きなおす。
改めて計算しなおすと、今度は正解にたどり着けた。
「ちょっと、どういうつもりよ!」
正解の余韻に浸るまでもなく、玄関から奈々の怒号が聞こえた。
慌てて俺も玄関のほうへ向かう。
すると、奈々はスーツ姿の大人に囲まれていた。
「なに? セールスとか宗教勧誘とかか?」
「私の家の使用人よ。まさかここを嗅ぎつけるなんてね」
「……まぁ、どっちにしろ奈々は返してもらうぞ。人の家にこんな大人数で押し掛けるな。文句があるなら俺に言ってこい」
使用人達に一言言い放った後、奈々を部屋に引っ張り、ドアを閉める。
近くに奈々が来たからか、淡いシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
同じものを使っているはずなのに、数ヶ月一緒に暮らしてもう慣れたはずなのに。
それでも心はいつまでも揺さぶられる。
……それにしてもとんでもない客だ。まさか使用人だなんて。
「思わず助けちゃったけど……良かったのか? 何か大事なこととか……」
「いいの、ありがとう。どうせ要件なんて結婚のことしかないから」
結婚、か……
彼女がこの家に逃げてきた理由でもある。
人の家のことだからあまり聞かないようにしてきたが、俺の家に押しかけてきてしまっているのだから俺にも聞く資格はあるだろう。
「なぁ、なんでそんなに結婚させたがっているんだ? 正直、奈々のお父さんが常識外れな人とは思わなかったぞ」
幼馴染ということもあり、奈々のお父さんには何度も会ってきた。
仕事ができる優しそうなおじさんという印象が強く、子供のことを考えない横暴な人とは思えない。
「将来が不安なのよ、お父さんは」
「将来が……? いや、奈々が会社を継ぐんだから不安なんていらないだろ」
「そうね、そこは少しも心配していないと思うわ。問題は私の次、よ」
「奈々の次……」
奈々は1人っ子であり、その次となると当然それは奈々の子供だ。
「さすがにそれを考えるのは早すぎないか? 何十年もあとのことだろ?」
「だけど、お父さんは心配しているのよ。自分がまだまだ元気なうちに直接色々教えたいのでしょうね。その気持ちはわからないでもないわ」
「……じゃあ、結婚するのか?」
むくれた顔の奈々に、肘で軽く小突かれた。
「それとこれとは話が別。好きでもない男と結婚するなんてごめんよ」
「すまん。だとしたらこうして逃げてきてないわけだしな」
「そうよ、全く。私が結婚したいのは1人しかいないの」
奈々がじっと見つめてくる。
今すぐ抱きしめたい衝動に襲われるが、ぐっとこらえる。
「でも、そろそろ潮時ね」
「潮時……どういう意味だ?」
「……勉強、続けるわよ」
潮時。その発言の意味を奈々は教えてくれない。
……今は勉強に集中するか。
シャーペンの音と共に時間が過ぎ去っていく。
その日の夜、昼間にあれだけ言っていた添い寝はなかった。
それどころか、毎夜の恒例となっていた告白すらない。
不思議に思って寝返りのふりをして奈々を見てみると、荷物を整理している彼女の姿がそこにあった。
(潮時って、こういうことか……)
部屋から出ていく奈々をこっそり見送ることしかできない。守るから安心して、と手を伸ばせなかった。
だって、浪人生という身分だから。止めたところで責任をとれないから。浪人さえしていなければこんなことには……!
涙が流れ落ち、枕が濡れる。
そうしていくうちに、夜が明けた。
奈々がいなくなった部屋には、「このままじゃ私は邪魔になる。合格発表の日、帝大で待ってる」という置き手紙が残されていた。
道は決まった。この悔しさを晴らす方法は1つしかない。
奈々は彩菜ちゃんじゃない。俺が動かなきゃ、永遠に彼女を失ってしまう。
そんなの嫌だ。合格して、責任をもって奈々と向き合う。そのためにも、俺は勉強に全てを捧げよう。
歯を食いしばりながら、俺は静かな部屋で問題集を開いた。
♢
奈々がいなくなってから数ヶ月。俺は今、帝大の掲示板前にいる。
例年より早く咲いた桜が、俺とライバルたちを包む。
時間になり、掲示板にかけられていた布が剥がされる。
(頼む……! 今年こそ、今年こそは……!)
俺の受験番号はそこに——あった。
思わずガッツポーズをとってしまう。
鼓動が早まり、今にも空へ舞い上がりそうな気分だ。
しかし、俺は地に繋ぎ止められた。後ろから抱き着かれて。
「誰だ……って、奈々しかいないよな」
「うん、私だよ。合格、おめでとう」
「ちょっと人が多いし、離れるか」
奈々と一緒に掲示板から離れ、人気の少ない場所に歩いて行った。
「久しぶりだな、元気にしてたか?」
「もちろん。今日この日を待ち望んでいたら病気なんてかかっている暇なかったわ」
「お父さんとはどうだ……?」
「安心して。結婚はしてない。お見合い攻勢からも逃げきってやったわよ」
良かった。俺は軽く息をついた。
もし結婚していたら、今から言うことは無意味になってしまう。
「改めて、合格おめでとう。私が途中でいなくなったのに、よく頑張ったわ」
「いなくなって悲しかったが……合格しないと伝えられないこともあったからな」
「伝えられないこと……それって?」
首を少し傾げた奈々だが、恐らく、俺が何を言うかはもうわかっているはずだ。
その証拠に瞳は輝き、頬は緩んでいる。
「奈々、俺と——結婚してください」
だけど、それじゃ面白くない。
俺は奈々の予想を超えてやる。その余裕を崩してやる。
「結、婚……結婚!?」
「そう。結婚を前提に付き合って、とかじゃない。俺と生涯を共に歩んでほしい」
「祐介……!」
輝く瞳から涙がとめどなく溢れ、桜の花びらと一緒に落ちていく。
「返事はいつでも待っているからな。俺たちは大学生、本来なら焦って結婚する歳でもないんだし」
「返事なんて決まっているわ。待つ必要なんてない」
そう言うと、奈々は再び抱き着いてきた。今度は正面から。
懐かしい香りが脳の奥まで支配する。
シャンプーはもう違うのにどうして、と思ったが……ようやく答えが出た。
(シャンプーじゃなくて奈々の匂いだったんだな)
あの夜の手の感触のような心地よさが身体の隅々に広がっていく。
この匂いをいつまでも嗅いでいたいと心の底から思った。
「私の答えはこれよ」
「……そうか、ありがとう。でも、言葉でも聞きたい」
「あのねぇ、言葉が恥ずかしいからこうしているんでしょうが! 乙女心を理解しないとモテないわよ!」
「奈々以外にモテても意味ないから別にそれでいいよ。奈々さえ一緒にいてくれたら俺は満足だ」
これは良いカウンターが決まった——
——痛い痛い痛い!
奈々の恥ずかしさがピークに達したのか、力いっぱい俺を締め付けてきた。
まさか攻撃されると思っておらず、油断しきっていた俺の身体にクリティカルヒットだ。
「……祐介、好きよ。ずっと私の隣にいてほしい」
「死ぬまで——いや、死んでも奈々のそばに居続けるよ」
「私のほうこそ、結婚……してくれますか?」
「もちろん。俺に人生の責任を取らせてくれ」
言葉だけではない。仕返しとばかりに奈々を強く抱き返し、行動でも示す。
この感触はすごく良い。漫画で——彩菜ちゃんで何度も夢想したよりもさらに。この癒しにずっと身を任せたいくらいだ。
「お父さんにも挨拶しないとな」
「なんて言われるか考えてみる?」
「……今はやめとく。せっかく良い感じなんだし」
「それもそうね。今はこの気分に浸っていたいわ」
その時、一陣の風が吹いた。
地に落ちた桜の花びらが舞い上がり、花吹雪となって自由に遠くへ飛んでいく。
奈々の頭に落ちた一輪の花びらを除いて。
「これからもよろしく、祐介。絶対私を離さないでよね!」
奈々の花びら付きの笑顔は、幼い頃からこれまで見てきたどんな表情よりも美しく、可憐だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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