『染みでる水』
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『染みでる水』
「ねえ、天井、濡れてない?」
その一言が、すべての始まりだった。
アパートの一室。築年数は古いが、立地と家賃の安さが魅力で、俺は一人暮らしを始めて数年が経つ。
最上階、四階の角部屋。隣人もほとんど顔を見せないこの部屋で、淡々と日々を過ごしていた。
異変に気づいたのは、梅雨入りを目前にした、あるじめじめとした夜のことだった。
部屋の隅――照明の真上あたりの天井に、ぽつり、と黒っぽい染みができていた。
最初は水漏れかと思った。
上の階は空き部屋のはずだし、雨も降っていない。
でも、染みは日に日に広がっていく。まるで“中から滲み出ている”ように。
気味が悪くなり、管理会社に電話を入れるも、
「ああ、その部屋……前も同じ苦情がありましたね。業者呼びますけど、天井裏は空洞で何もないんですよ」
――何もない?
その夜、染みの下で寝ていた俺は、“水音”で目を覚ました。
ぴちゃん……ぴちゃん……
水滴が床に落ちるような、いや、それとは違う、“ゆっくりと這うような”音。
照明のスイッチを入れようと立ち上がると、
足元が、じわりと冷たかった。
水だ。床が、濡れている。寝る前は何もなかったのに。
慌てて灯りを点けた俺は、言葉を失った。
天井の染みから、真っ黒な“何か”が、ゆっくりと染み出ていたのだ。
それは水ではない。ねっとりとした質感、鉄のような臭い――
血?
いや、それよりも不快な、“何か”の液体。
見上げると、天井の染みの中心に、“目”があった。
ぼんやりと、でも確かに、目が、開いていた。
ぎょろりと動いたその瞬間、俺の中の何かが崩れた。
あの部屋には、何かがいる。
ずっと、天井の中で、誰かが……いや、“何か”が、こちらを見ている。
そして、それは少しずつ、染み出てきている。
俺の部屋に。
俺の日常に。
俺の体の中に。
ぴちゃん……ぴちゃん……
今も、染みは音を立てて広がり続けている。
染みでる水の正体は、もう分かっているはずだ。
これは、ただの水じゃない。
あれは――
「ねえ、今、あなたの部屋……濡れてない?」
スマホの通知に表示されたその一文を最後に、俺は部屋を出ることができなくなった。
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あとがき
“日常に染み出す異常”をテーマに描いた短編ホラーです。
湿気、染み、水音……身近でありながら、どこか不気味なもの。
あなたの部屋の天井に、染み……できてませんか?