平民だなんて聞いてません!
立ち並ぶアパートの隙間。細い路地を抜けた先にその店はある。
エレナのサンドイッチとおやつの店。その名の通りサンドイッチとちょっとした焼き菓子を売っている小さな店だ。店は朝七時に開店して、昼の三時に閉店する。定休日は日曜と水曜。ちなみに店の一番人気はハムサンドだ。
「いらっしゃいませ!」
燃えるような赤毛にアンバーの瞳をした女性が笑顔で明るい声を出す。
それに店の前に立っていたスリーピースのスーツ姿の老紳士が笑みを浮かべ、朗々とした声で挨拶を返す。
「おはよう、エレナ」
「おはようございます、アルバーノさん。今日もいつものでよろしいですか?」
「ああ、よろしく頼むよ」
「はい!」
ハキハキと受け答えをしたエレナと呼ばれた女性がショーケースから取り出したハムサンドを包む。おまけにクッキーを添えて、アルバーノと呼んだ老紳士へと手渡した。
「ハムサンドがお一つで銅貨四枚です」
エレナの言葉にアルバーノはトレーに銅貨を四枚載せる。それをしっかり数えてエレナは銅貨をレジにしまう。それからアルバーノにぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。いってらっしゃい、お気をつけて!」
「ありがとう。いってくるよ」
エレナに軽く手をあげてアルバーノは去っていく。
大通りから外れた店だが、こうした常連の人たちに支えられてエレナはなんとか店を続けられていた。二十歳のときからこの店を始めたから、もう五年が経つだろうか。
「よし、今日もがんばろう」
今は朝の七時。これからの一時間が通勤途中で店に寄ってくれる人たちで混み合う時間だった。
気合いを入れたエレナのひとつにまとめた赤毛がぴょこんと跳ねる。朝日に照らされてアンバーの瞳が輝いた。
「いらっしゃいませ!」
そうして次のお客さんにエレナは明るく声をかけるのだった。
八時半。朝のピークが少し去った時間にその人はやって来る。
白地に金の刺繍がされたローブを着た男性だ。名前は知らないのでエレナは心の中でローブさんと呼んでいる。声や手の感じから同年代だと思うのだが、はっきりしたことはわからなかった。
「いらっしゃいませ!」
そうして今日も彼はやって来た。今日も今日とて目立つローブを着ている。
彼はエレナに軽く頭を下げると、ぼそぼそと注文を口にした。
「……ハムサンドと今日のおすすめをお願いします」
声は小さいけれど、爽やかで耳馴染みのいい声だ。その声がいつも通りの注文をする。
エレナはにっこり笑ってそれに頷いた。
「ハムサンドと照り焼きチキンサンドですね! 少々お待ちください」
そう言ってエレナはショーケースから取り出したサンドイッチを包みながら彼をちらりと見た。黒く長い前髪の隙間からエメラルドの瞳が輝いていた。
エレナと目が合うと彼はそっと俯いた。その美しい瞳が隠れてしまったことを残念に思いながら、サンドイッチとおまけのクッキーを彼に手渡す。
「ハムサンドがお一つと照り焼きチキンサンドがお一つで、銅貨九枚になります」
彼の薄く骨張った手がトレーに銅貨を九枚置く。九枚しっかりと数えてエレナはレジに銅貨をしまう。それから彼にぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。いってらっしゃい、お気をつけて!」
「……ありがとうございます」
ほろりと彼が口元をほころばせる。まばたきの間に消えてしまうような小さな笑みだ。けれど、春の陽だまりのような柔らかな笑みだった。
その笑みにエレナは胸を高鳴らせながら、去っていく彼の後ろ姿を見つめる。
エレナは三年前から店に通ってくれている名も知らぬ美しいエメラルドの瞳をした彼に恋をしていた。
「そんなもんさっさと告白でもしなさいよ」
そう言い切ってダフネが赤ワインを呷る。
ダフネはプラチナブロンドに空色の瞳をした迫力のある美人である。商業ギルドの職員で、エレナが店舗を構える際にお世話になった人でもあった。
「それでお店に来てくれなくなったら嫌じゃないですか!」
エレナはちびちびと赤ワインを飲みながらダフネに反論する。けれどダフネはエレナのそんな言葉を鼻で笑った。
「バカね、それで三年も拗らせてんでしょ。当たって砕けなさいよ。相手は宮廷魔導士のお貴族様なんだから……そもそもお貴族様が平民の店に来るのだって気まぐれだろうし、いつ来なくなるかわからないわよ」
「それは、そうなんですけど」
彼の着ている白地に金の刺繍がされたローブは宮廷魔導士の制服であった。そうして宮廷魔導士のその殆どは貴族である。
つまりローブさんはおそらく貴族だった。
「いいじゃない、宮廷魔導士。高給取りだし、アンタくらい可愛ければ、正妻にはなれなくてもうまくいけばお貴族様の愛人にはなれるわよ」
「……愛人じゃ嫌です」
「ワガママねぇ」
唇を尖らせるエレナにダフネは困ったように眉を下げる。そうしてチーズをフォークに刺すと、エレナの口元に差し出した。
ぱくり、とエレナが差し出されたチーズを食べる。
「エレナ、平民がお貴族様と結ばれるだなんて物語の中だけの話よ」
「……わかってますよ」
チーズを咀嚼して飲み込んだエレナは赤ワインを呷る。アルコールで喉が焼けそうだった。目の奥が熱くなる。
それを見たダフネは笑って追加の赤ワインを注文した。
「今日はいい飲みっぷりねぇ」
「明日はお店が休みなので!」
エレナはそう叫ぶように言った。けれどエレナのその声は飲み屋の喧騒の中に混じって消えていった。
しかし、そんなことは気にせずにエレナは新たにワインが注がれたグラスを掲げる。
「ダフネさん、今日はとことん飲みましょうね!」
「私はほどほどにするわよ」
「……ダフネさん冷たい」
そう言って唇を尖らせるエレナにダフネは声を上げて笑った。
たしかにダフネの言う通りエレナは拗らせている。三年も無駄な思いを募らせて、無謀な恋をしている。
しかし、彼の柔らかな笑みを見るたびにエレナは恋に落ちるのだ。これはもうエレナ自身にもどうしようもないことだった。
飲み屋の前で旦那さんが迎えに来たダフネと別れ、エレナはふわふわとした足取りで大通りを歩いていた。早めに解散となったおかげで人通りは多い。
エレナと同じくアルコールが入っているのか、道行く人たちはどこか楽しそうだった。
「……あれは、ローブさん?」
ふと、路地に入っていく宮廷魔導士のローブが見えた。なんとなく彼のような気がして、エレナはふらふらと路地に近づいていく。
エレナが路地に近づくと男性の大きな声が聞こえた。そろりと路地を覗く。
「貴様のような者がいると宮廷魔導士の品位が疑われる!」
ウェーブのかかった金髪の美しい男性が黒髪の男性を詰めていた。その金髪の男性も宮廷魔導士のローブを着ているので、彼も宮廷魔導士なのだろう。
そして、詰められている宮廷魔導士はやはりローブさんだった。
エレナからは後ろ姿しか見えないが、この三年間に何度も恋しく見つめた後ろ姿だ。間違えるわけがない。
そう思っている間も金髪の男性はローブさんを責めている。ローブさんは何も言い返していないが、俯いて小さくなっているようだった。
「あっ見つけました!」
エレナは路地に飛び込んでそう言った。金髪の男性がまばたく。ローブさんも振り返って、戸惑ったようにエレナのことを見ていた。
じわり、と手のひらに汗が滲む。けれどエレナは路地を進みローブさんの腕を掴んだ。
「魔導士様、私との約束を忘れてましたね? 申し訳ありません、美しい魔導士様。この人は先約を忘れてしまっていたようで」
「あ、ああ……そうなのかい、お嬢さん」
「はい。ですので、私たちはこれで失礼いたします!」
ぺこりと金髪の宮廷魔導士に頭を下げて、ローブさんの腕を引く。後ろから戸惑うような声がしたが、エレナは聞こえない振りをして別の路地へと飛び込んだ。
そして掴んでいた腕を放すと後ろを向いて勢いよく頭を下げた。
「すみません! 困ってたみたいだったので、つい」
「いや、あの……俺は大丈夫です」
その声におずおずとエレナが顔を上げると眉を下げ、困ったように笑うローブさんがいた。
月光に照らされてエメラルドの瞳がきらきらと輝いている。それに見惚れていると、ローブさんがそろりと口を開いた。
「でも、アルカンジェロ……さっきの金髪のヤツは単純だから、あなたのおだてにも乗ったけれど、他のヤツというか、そもそも男の諍いに女性のあなたが割って入るのはやめた方がいいと、思います」
こんなに長くローブさんの声を聞いたのは初めてだった。思わずエレナはまばたく。
それを見たローブさんは慌てたように言葉を続けた。
「あの、すみません、あなたに助けてもらったのに偉そうで……でも、普通に危ないので、やめてください。ほんとに心臓に悪い……えっと、あの? 聞いてますか、エレナさん」
「……名前」
「えっあ、うわ、すみません……急に名前呼ぶとか気持ち悪いですよね。というか、そもそも間違ってましたか。店の名前がそうだから、そうだとばかり」
「いえ、合ってます。それに、その、名前で呼んでいただいても大丈夫です」
むしろ積極的に呼んでほしい。
想像よりもずっとおしゃべりさんだったローブさん。その新たな一面にときめきながらエレナは頷く。ローブさんは安心したように息を吐いた。
「……あの、あなたのお名前は?」
そうしてエレナは三年間ずっと聞きたかったことを口にした。エレナにとっては大きな一歩だった。
エレナの言葉にローブさんはまばたく。まばたいて、そろりと口を開いた。
「うわ、名乗ってもないのにベラベラと非常識すぎる。これだから俺は……じゃなくて、その、ルカです。俺の名前」
「ルカ様」
「様とかいいです。宮廷魔導士と言っても俺は下っ端なので」
「ルカさん」
「はい」
二人の間に沈黙が落ちる。
ローブさん改めてルカさんは眦を少し赤く染めながらエレナのことを見ていた。きゅうっとエレナの胸は締めつけられる。
名前に新しい一面に、たくさんの言葉。急激にルカとの距離が縮まっている気がした。
ふと、ルカが口を開いた。
「あの、送っていきます。俺なんかに家を知られたくなかったら、近くの通りまででいいので……それも嫌だったら、その、大通りまでとかでもいいですけれど」
「家はあの、店の二階なので大丈夫なんですけれど、送ってもらうのはルカさんに申し訳ないです」
「いえ、あなたをひとりで帰すのは心配なんで、送らせてください」
「……はい」
エレナが頷くとルカはほろりと笑った。
月光の下で見るその儚い笑みにエレナはまた胸をときめかせる。そしてルカの一挙手一投足を目に焼き付けるようにして、大切にまばたいた。
家に送ってもらうまでの時間。それはエレナにとってまさに夢のような時間で、あっという間に家に着いてしまったのだった。
ぽつりぽつりと交わした会話は、大事に大事に心のメモ帳に全てメモをした。
今日の照り焼きチキンサンドがおいしかったこと、ハムサンドが一番好きなこと、おまけのお菓子を嬉しく思っていること。宮廷魔導士の仕事は忙しく、エレナのサンドイッチを食べる昼休みが楽しみであること。
どれもエレナにとって嬉しいことばかりだったし、宮廷魔導士というのは大変な仕事なのだと思った。それを頑張っているルカはすごい。
「ルカさん、ここまで送ってくれてありがとうございました」
そんなことを思いながら店の前でルカに頭を下げる。ルカは眉根を寄せて頭を振った。
「いえ、あの、すみません、俺は愚痴ばかりで……仕事を押しつけられるとか、あなたのサンドイッチとお菓子しか楽しみがないとか。俺は暗いことばかり言うから、嫌になったでしょう。だから、あまり喋らないようにしていたのに……最悪だ」
そう言ってルカは俯く。少しパサついた黒髪がルカの顔を覆って表情を隠してしまう。
エレナはひょいっと下からルカの顔を覗いた。ルカが驚いたようにエメラルドの瞳を見開いて勢いよく仰け反る。いや、勢いがよすぎて転んでいた。
「な、なんっはあ? えっ、なにしてるんですか」
尻餅をついたままエレナを見上げるルカを見る。
転んだ表紙に顔を覆う髪は払われていて、美しいエメラルドの瞳がまん丸になっているのがよく見えた。
目線を合わせるようにエレナもしゃがむ。ふと、ダフネの言葉が甦った。
「私、ルカさんが好きです」
エレナがあっと思う前に口から言葉が出ていた。
ルカはまばたくと、その意味を咀嚼したのか顔どころか耳まで赤く染めていた。釣られるようにエレナの頰も熱くなる。
けれど、と思う。エレナも拗らせているけれど、このルカという男もなかなかに拗らせている人なのではないだろうか。二人並んで歩いた帰り道でエレナはそう感じていた。
「好きだから、どんなあなたも好きです」
「……言ってることめちゃくちゃな自覚、ありますか」
「あります。でも、好きです」
ルカが薄く骨張った手で口元を覆う。
この数十分の会話でわかったが、ルカは異様に自己評価が低い。宮廷魔導士なのだから平民であるエレナにもっと偉ぶってもいいのに、全くそれがなかったのだ。
自己評価が低くて、自己嫌悪がひどくて、けれどエレナにはたくさん気を使ってくれて優しくしてくれるルカ。たしかに思っていた人とは違ったけれど、それでもやはりエレナはルカが好きだった。
「ルカさんが好きです」
もうダフネが言うように愛人でもいいと思うくらいには、ルカのことがもっと好きになっていた。いや、本当の本当は愛人だなんて嫌だけれど、それくらいにルカへの思いが深まったのだ。
じっとエメラルドの瞳を見る。潤んだルカの瞳にエレナが映っていた。その瞳がゆっくりと細められる。
「……俺は、あなたにすくってもらってばかりで、ほんとに情けない」
「えっ」
ぽつりとこぼしたルカの言葉にエレナはまばたく。
すくう。助けるということだろうか。首を傾げながらルカを見れば、苦く笑うルカがいた。
「あなは覚えてないと思うけれど、七年前、あなたはそこの大通りで俺の大事な落とし物を拾って、渡してくれたんです」
たしかに七年前はエレナが店舗を構える前で、そこの大通りでよくサンドイッチの立ち売りをしていた。
しかし、大通りというのは人通りもある分、落とし物もよくある。誰かが落としたものを拾ってあげる、なんてことは日常茶飯事でエレナはピンと来なかった。
「……すみません、覚えてなくて」
「大丈夫です。俺の大事な思い出なだけなので……まあ、それは宮廷魔導士試験の受験票だったんですけれど、エレナさんはそれを拾ってくれて、売れ残ってたお菓子を渡してくれて、受験頑張ってくださいって言ってくれたんです」
思ったよりも人生がかかっている落とし物だった。しかし、それでなんとなく思い出したことがある。
たしかにフードを目深に被った人にそんなことを言った記憶があったが、まさかそれがルカだとは思わなかった。フードで髪も瞳も隠れていたから繋がらなかったのだ。
「ルカさん、あのときのフードの人だったんですね」
「はい……エレナさんのおかげで無事に試験が受けられて、宮廷魔導士になれて……まあ実際なると給料以外クソな仕事だったんですけど」
そこでようやく立ち上がったルカがエレナに手を差し伸べる。その手に掴まってエレナも立ち上がった。
猫背だから気がつかなかったが、近くに立つと思ったよりもルカは背が高い。エレナはその顔を見上げた。
「その後、お礼を言おうと思ってたんですけど俺のことなんて忘れてるだろうし、ずっと言えずにいて、でも店ができたって聞いて、悩んだんですけど、我慢できずに通うようになって……そこでもずっとあなたに励まされてました」
エメラルドの瞳がエレナを捉える。
どこか覚悟を決めたようなルカの真剣な顔から視線を逸らすことができなかった。
「どんなに毎日仕事に行くのが嫌でも、あなたのいってらっしゃいの声に励まされてたんです。ずっと、ずっと俺の方があなたに支えられていて、すくわれていて、今日だって助けてもらって……情けないけれど、でも、エレナさんがずっと好きでした」
立ち上がるために掴んだままの手をぎゅっと握られる。
言いようのない幸福感がエレナの胸いっぱいに広がっていた。
「エレナさん」
「はい」
ゆらゆらと揺らめくエメラルドの瞳をじっと見つめる。たとえ愛人になって欲しいと言われてもエレナは頷く覚悟だった。
繋がれた手がひどく熱かった。
「俺と……俺と結婚してください!」
「はい……はい?」
ルカの言葉にまばたく。結婚とはエレナの知っている結婚と同じものだろうか。
首を傾げてルカを見る。ルカはなぜか絶望した顔をしていた。
「そっなん、えっ好きって言ってたのに振られた……いや、いきなり求婚するヤツとか普通に気持ち悪いよな。これだから俺はダメなんだ」
「あ、いや、好きですけど! 愛人の間違いじゃないですか?」
「愛じっ……えっえ? なんで、ですか?」
「だってルカさん宮廷魔導士ってことは、お貴族様なんですよね?」
エレナの言葉にルカは膝から崩れ落ちた。石畳の道なのでエレナはルカの膝が少し心配になった。なんだかとても痛そうだ。
しかし、ルカはそんなこと気にも止めずに口を開いた。
「……ほんと宮廷魔導士ってクソ」
「いやいや立派なお仕事ですよ」
「……エレナさん」
四つん這いになったルカが顔を上げてエレナを見る。その格好のままなのはいいのかなと思いつつ、エレナはルカの呼びかけに頷いた。
「俺は、平民枠で入った宮廷魔導士なので平民です」
そんなルカの言葉を咀嚼して理解する。そしてエレナも膝から崩れ落ちた。
えっじゃあこの三年間の葛藤はなんだったのか。
思わずエレナは叫んだ。
「平民だなんて聞いてません!」