研究室
F先端技術大学情報工学部片岡研究室は六本木の高層ビル内にあった。その目的は基礎研究を超えた実用的な収益性の高い情報システム開発にある。
派遣社員の有無大無は、1年前からシステムエンジニアとしてそこで働き始めた。機密事項の多いシステム開発のために自宅での作業は許されていなかった。
大無が研究室に入ると片岡厚郎教授の声が轟いた。
「こんなこともできないのか!」
怒鳴り声と共にクッキーのブリキ缶が壁に当たり、ガンと鈍い音をたてた。それはすぐに床に落ちてカラカラと床を転がった。
大無は転がる缶に目を落とした。その中にあるのは怒りか、空虚か……。
「すみません」
二宮翔が詫びた。情報工学部で一番のイケメンと噂の4年生だ。
「こんなもので結果が出せるか。アイコにどんな指示を出したんだ!」
アイコは研究室専用のAIの愛称だ。プログラムはアイコが書くが、ハードを運用するためのアイディアには、まだ人間の発想力が必要だった。動作検証も人間が行う。
片岡は優れた研究者だが、仕事のできない助手、理解力のない学生に対しては平気でハラスメントをする。怒鳴るだけでなく制裁的な仕事を増やしたり、意味のないプログラムを書かせたり、あるいは無駄なレポートを書かせたり……。時には、物理的、肉体的なサービスを要求したりする。地位や名誉、権力と女が好きなうえに、思いやりというものがない。教育者としては、いや人間として、性格に問題があるというのが大無の片岡観だ。
一方、二宮翔は見た目だけでなく性格もいい。派遣社員の大無を、他の研究者に対するのと同じように扱ってくれる。だからか、研究室内だけでなく情報工学部の女子大生にも人気があり、秋山里琴という恋人がいる。彼女もまた片岡研究室の一員だ。
片岡が二宮に厳しいのは、彼の人気に対するひがみかもしれない。あえて片岡の弁護をするとすれば、二宮には情報システムに関するセンスがないことだ。だから失敗も多い。片岡が怒るのも当然といえた。
「お前の頭は何のためについているんだ? 中にはないがつまっているんだ! まさか、クッキーじゃないだろうなぁ」
片岡のパワハラは続いた。
聞き苦しい。……大無はむかつきを覚えた。二宮に代わってやろうか、と思った。パワハラを引き受けるのではない。彼の仕事を代わってやるということだ。
名乗りをあげかけ、待てよ、と思った。その仕事は、片岡が教育のために与えた課題かもしれない。それなら、自分がやるのは無意味だ。
「こんなものも作れないなら、大学なんてやめちまえ」
片岡が足元の缶を蹴る。鋭い反響音に、研究室内の緊張が倍加した。
「しょうがない。有無、お前やっておけ」
彼がさらりと言った。まるで既定路線のようだ。
「……わかりました」
もともと手を挙げても良いと思っていたのだから否やはない。まして先に学生に与えられた仕事だ。難しくはないだろう。そんな軽い気持ちで応じた。仕事があるということは、悪いことではない。
片岡が、二宮の隣で立ちすくんでいた里琴の身体を乱暴に押しのけ、ドアを蹴破るような勢いで研究室を出ていった。
「仕方がないわよ、翔……」
里琴が二宮を慰める。
大無は見守ってやりたかったが、派遣社員に他人の恋愛模様を見守る余裕はなかった。
「二宮君、仕様書をください」
大無は片岡が彼に要求した仕事の引き継ぎを求めた。そうして内容を確認して驚いた。
【日本人の価値観を世界水準に導くためのプログラム】
片岡の指示は、途方もないものだった。価値観といった抽象的なものを言語化するだけでも難しい。それを世界と日本とで比較するだけでも厄介なのに、世界水準に導くという〝作業〟まで要求されている。学生の二宮にできる代物ではなかった。
いや、自分だってできるかどうかわからない。……胸の中に暗いものが満ちた。
里琴が口を開く。
「そんなもの、誰もできるはずがないのよ。片岡教授だって、自分じゃできないから翔をだしにして有無さんにやらせようとしているのよ」
彼女の意見に、なるほど、と思った。とはいえ、自分にだってこんなシステムが組めるとは思えない。そもそも、他人の価値観を変えるなんて、どうしたらいいというのだ?
「有無さん、申し訳ありません」
二宮が頭を下げていた。
「いいえ。僕なら大丈夫です」
そうは言ったものの、何の根拠も自信もない。
大無は、二宮の憂いに満ちた瞳に彼の人柄の良さを感じながら自分の端末の前に座った。おもむろに作業途中のシステムの検証シミュレーションにとりかかった。
大無が全自動医療ロボットのシステムに取り組んでいると、背後に片岡の第1助手の円谷が立った。
「有無さんはすごいね。1人でカテーテル手術をフルオートで行うロボットシステムを完成させるんだから……」
モニターを覗き込み感嘆の声をあげる彼を大無は無視した。繊細な作業なのだ。たとえ人間関係が壊れても、目の前の作業に集中したい。
「でも、大丈夫なの。プログラムにミスがあったら、人の命に係わるでしょ?」
人の良い二宮が、患者の命ではなく、責任を負うことになるかもしれない大無の身を案じた。だからか、その声は大無の感情をゆすぶった。
フゥー、……作業を中断して長い息を吐いた。
「ハードだけを見れば、天才医師並みの手術を行えるアームもセンサーもそろっています。後は、それをコントロールするソフトだけ。……これが完成すれば、無医村でも動脈瘤や静脈瘤の手術が可能になり、たくさんの命を救うことができるようになります」
大無は、モニターに映る制御誤差率0.001%という数字を見つめながら応じた。
「それはそうだが、そんなロボットを買う金は、無医村にはないぞ」
円谷が言った。
「実用化には、技術だけじゃなく運用も大切だ。法律上の問題もある。たとえロボットが瘤の位置を判別したり、ステント手術を行う装備を供えたりしたとしても、厚生省は認可を出さないだろう」
第2助手の加藤が言った。
「そのためのロボットです。大型の救急車に搭載することも可能でしょうし、手術後の自己診断やメンテの機能を供えれば、連続運用が可能です。法律の方は、政治家と医師会に任せましょう。……治療は、データとロボットによる治療案を医師に送り、AIの判断を追認してもらうようにするのです。医師の見立てで問題があると思われたなら、その時、止めてもらえればいい」
「そこまで考えているなんて、有無さん、すごいわ」
里琴がモニターを覗きこんだ。
「メンテシステムまで作るつもりなのか?」
円谷が不安げな声を上げる。
「時間はかかりますが、そこまでしないと全自動とは言えないと思います」
「片岡教授は知っているのか?」
「いいえ。まだ話していません」
「メーカーやハードとの関係もある。早く話したほうがいいな。誰か呼んできてくれ」
円谷が頼んでも、誰も立とうとしなかった。
いつも通りとはいえ、怒るようにして出て行った片岡は近寄り難い。
「あ……、ダメかもしれない」
加藤がスマホを見ていた。
「なら、俺が呼びに行く」
円谷が歩き出す。
「だから、円谷さん、ダメですよ。片岡教授は死んだみたいです」
加藤がスマホを差し出した。
シヴァの被制裁者リストに片岡厚朗の名前があった。
「なんてことだ……」
円谷が研究室内の助手や学生たちの顔を見回した。
「僕らじゃないですよ……」
二宮が、学生を代表するように首を振った。実際、誰もスマホを手にはしていない。
大無はカバンからスマホを取ってシヴァを開いた。
片岡厚朗の名前を探し、投稿された写真を確認する。他の助手や学生たちも、同じようにスマホを手にした。
「古い写真みたいですね」
直近に投稿された写真は、ここ数年間の間に片岡が抱いた女子大生や取引先の女子社員と一緒に写ったものだった。それらの中には、裸の写真もある。告発理由は不倫だったりアカハラだったり、ひどいものはレイプだった。
「嫌だ……」
里琴が声をあげ、誰よりも忙しくページをスクロールした。それは目的の何かを探しているような仕草だった。
「どうするよ……」
加藤が狼狽えていた。
「まさか、加藤……」
円谷が疑うように目を細める。
「俺じゃないよ。それは、ちょっと反省させてやろうと何度か投稿したけど、こんなに沢山は送っちゃいない。教授が死んだら、俺だって無職になる可能性があるんだからな」
「こんな写真をまとめて持っているとしたら、本人でしょう。ものにした女性の痴態写真が多いです」
学生の十倉が写真を一枚一枚、丹念にチェックしながら言った。
「自分でシヴァにアップするかな?」
「片岡教授が、自殺をするような人間に見えますか?」
二宮は加藤に質問を返した。
「教授のパソコンがハッキングされたのだろうな。それで画像をごっそりと盗まれたんだ」
円谷がスリープ状態の片岡のパソコンに目をやる。
「研究室に、そんなヤバイファイルを置くか?」
加藤は懐疑的だった。
「なら、誰か、そのパソコンに触れたことがあるか?」
円谷が親指で片岡のパソコンを指し、研究室内の人間の顔に目をやった。
研究室には3人の助手と4人の学生、そして大無の8人がいた。学生に比べ、助手たちは真剣だ。それはそうだ。教授が亡くなった今、彼らの立場は風前の灯火、失業しかねない。大無の場合は契約先が大学なので、すぐに失業というわけではないが、やはり宙ぶらりんな立場に追い込まれたことになる。
「どうなんだ?」
円谷が回答を催促した。
「もしも教授のPCに触ったとわかったら、何をされるかわからない。そんなことは研究室の者ならみんなわかっている。誰もそれの中を覗いたりしないさ」
加藤が全員の意見を代弁した。
「だからだ。教授も、加藤のように考えていたはずだ。秘密にしたいファイルを置くなら、そこほど安全な場所はない」
円谷が肩を落とす。
「……でも少しほっとした」
里琴がささやく。二宮が小さくうなずき返した。
「おい、お前ら。教授が死んだんだぞ。それはないだろう」
円谷が声を荒げた。
たとえ悪人でも、その死を笑うなということか。……大無は3年前に冥界に落ちた時のことを思い出した。そして胸中、笑った。笑ったのが円谷のことか、片岡教授のことか、それとも生き返った自分のことか、シヴァが人を殺すという喜劇のことか、……それは不明だ。
脳裏を、エキゾチックな美貌のヤミーと巨体の閻魔大王の顔が過る。今になってみれば夢のような出来事だった。
読んでいただき、ありがとうございます。
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