妹
沙也加の住まいは、最寄り駅から徒歩10分ほどにある寺の庫裏だ。水卜家は代々そこの住職を務めている。
父親の水卜岩丈の子供は沙也加と未悠だけなので、幼いころから婿を取るように言い含められて育った。子供のころは父親の言うことを真に受けていた。僧侶の婿を取るか、自分が尼になるか、選択肢は二つだけだった。
しかし、大人になるにつれて、世の中には寺のあとを取るより面白いことややりがいのあることがあると知って迷った。自分の生きがいを追求してみたいし、父親の期待にもこたえてやりたい。
沙也加が高校3年、未悠が中学2年生の時だった。母親に似て自分より美人に育った妹が、婿を取って寺のあとを継ぐと言い出した。彼女は美しいだけでなく社交的で、男性だけでなく女友達にも人気があった。当然、檀家からの評判も悪くない。婿取りとして完璧な資質を有していた。おかげで沙也加は父親の呪縛から解放された。
沙也加の分析では、未悠は受験や就職活動から逃げているのだ。それで進学先に努力が不要な高校や大学を選び、今では学外のサークル活動に参加して婿にふさわしい男性を物色している。
正直、妹の安直さには不安を覚えている。今は跡を継ぐと言っているけれど、いつ何時、好きになった男性と一緒になると言って寺を飛び出していきかねないからだ。とはいえ彼女の婿取りが、自分が自由になる近道だ。彼女を刺激してヘソを曲げることがないように静かに見守っている。
しかし、だ。今回の行為を見逃すつもりはなかった。血を分けた家族の、それも雑誌を借り、うっかり返すのを忘れていた程度の小さな罪を告発して命を脅かすなど、人間としてどうかということだ。
――カツカツカツ――
境内に続く石段を駆け上がる。車が通る道よりそこが近道だった。
本堂の隣に10年ほど前に建て替えた庫裏がある。新築当初から寺の一部のような伝統的な木造建築だ。引戸を開けると広い玄関があり、正面には来客用の和室がある。
「ただいまぁ」
靴を脱いで薄暗い廊下を進む。
台所から母、恵登がつくる煮物の香りがした。彼女は伊豆にある寺の娘で、この時代には珍しく父と見合い結婚した。名前の漢字は仏教臭いけれど、ケイトという西洋風の読みにしたのは、彼女が仏教と関わりのない生活をするかもしれないと考えた祖父の配慮だったのだろう。
「おかえり、すぐに夕食にするから未悠を呼んでちょうだい」
煮物の香りに混じって声が届いた。
「未悠、いるのよね?」
「いるわよ。ちょっと様子がおかしいの。ずっと部屋に引きこもっているわ」
「へー」
自分にした悪戯がばれたと思って怯えているのかしら?……一瞬、殊勝な妹だと思ったが、いやいや、と改めた。彼女はそんなに純粋な人間じゃない。社交的で人付き合いはそつなくこなすけれど、それは演技だ。その本性は強欲でひがみっぽい。他人が持っているものを何でも欲しがり、手に入らないと思うと拗ねるか、最悪、壊してしまう。叱られる前から殊勝な態度をとるはずがないのだ。部屋に引きこもっているのだって、沙也加を困らせて陰で笑っているのか、SNSで誰かの話題に夢中になって時間を忘れているだけかもしれない。
階段に向かうと、上るより先に未悠の部屋のドアが開いた。
「お姉ちゃーん……!」
スマホを手にした未悠が、悲鳴にも似た声をあげながら階段を駆け下りてきた。そうして、がばっと抱き着いてくる。
「お姉ちゃん」
未悠が鼻にかかった甘ったれた声で言った。
「な、なによ……」
沙也加は戸惑った。
「大変なのよ」
叱られる前に懐柔しようとしているのだろう。よくあることだ。……沙也加はそう察した。
「未悠、自分が何をしたかわかっているの?」
「私は悪くない」
「えっ?」
彼女のあまりの自信に、自分の方が間違っているのかと思ってしまう。
「私、死にたくない!」
沙也加を見つめる目が充血していた。
「エッ!……どういうこと?」
未悠が私を殺そうとしていたんじゃない!……言いたいことを呑みこんだのは姉としての責任感だった。
「シヴァよ。私の悪徳ポイントが3000を超えているの」
からかわれている。そんな気がした。
「未悠、学校では人気者じゃない。あなたを告発する人なんていないでしょ?」
「そうだと思っていたけど」
未悠がシヴァを開いて見せた。彼女の悪徳ポイントは3666。
「あー、また増えてる。どうして?……家から出なかったのにぃ」
彼女の目尻に涙がにじんだ。
「どうしたの? ごはんよ」
茶の間から母親の顔がのぞいている。
未悠の裏の顔を母親に見せるのは忍びない。
「はーい。着替えてくるわ」
そう応じて未悠に向く。
「貸して。未悠は茶の間で待っていて」
彼女のスマホを取る。
「お父さんとお母さんには……」
「わかってる。内緒にするわ」
階段を上がりながら告発記録の写真を確認した。
写真のほとんどは未悠と男性が並んでいるものだった。カフェで語らうだけのものもあれば手をつないでいるものもある。中にはラブホテルの入り口で撮られたものもあった。相手の男性は複数だが、痴漢事件にあったように、ひとつの現場を複数の者が撮ってアップしたものが多かった。コメントは【恋人略奪女】【不倫女】【パパ活、喝!】【売春疑惑】【恋愛サギ】といったSNSの炎上のようなものばかり。
未悠が知人の恋人を略奪する可能性は……。少し考えて、ある、と思った。彼女は《《他人のモノ》》が欲しくなるのだから。とはいえ交際は、男性あっての結果のようなものだ。一概に未悠だけを責めるわけにはいかない。一方、売春や結婚詐欺は犯罪だし、パパ活もそれに近い。そうした文字にはドキッとするが、未悠がお金に困っているはずはなく、お金のために男性と仲良くすることはないと断言できる。ただ、親しくした男性が高価なプレゼントを貢ぐ可能性は否定できないので、それが周囲の反感を集め、売春やパパ活と誤解させているのかもしれない。貢いだ男性が袖にされ、結婚詐欺にでもあったようだと憎む可能性もあるだろう。
「これって……」
そこにあったのは沙也加がパンを口にくわえた姿だった。数日前に寝坊し、パンを食べながら出勤の準備をした時のものだ。「お姉ちゃん、行儀が悪いわよ」あの時の未悠の声が蘇る。コメントも【食べ歩き厳禁】とあった。
どうやらシヴァにとって、食べ歩きは不徳的行為ではないということだ。そしてそれを告発すると、悪徳ポイントは告発者に付与される。
「人を呪わば穴二つ、かぁ……」
意外とよくできているじゃない。……変なところで感心してしまった。
とにもかくにも、写真や動画が多すぎて短時間では確認しきれなかった。それには呆れたが、リベンジポルノ的な写真がアップされていないので安堵してもいた。自分を告発するような妹だが、やっぱり守ってやりたい。
それにしても、この程度のことで3000ポイントを超えるのか……。いや、むしろ犯罪として訴えられない程度のことだからこそ、告発する側も気楽に投稿できるのかもしれない。
思いのほか、シヴァの制裁は身近なところにあるようだ。恋人を奪われた女の恨みも恐ろしい。……沙也加は分析しながら着替えて茶の間に向かった。
「お姉ちゃん、助けて」
夕食後、沙也加に向かって未悠が両手をあわせた。
「うーん。……写真を投稿しそうな人に下手に頼んだら、逆に恐喝されたとか言い出しかねないわよね……」
沙也加は首をひねった。拝まれたところで仏様でも神様でもない。妹を助ける良い術が浮かぶはずもなかった。
「うん。それにお姉ちゃんと違って友達が沢山いるのよ。全員に頼み込むのは無理!……それにしてもひどいわ。友達を売るなんて……」
彼女が憎らしい答え方をした。
「もう……」姉を売ったのは誰だ!……思わずムッとする。
「それなら、やられる前にやる《殺す》? お姉ちゃんも写真を撮るの手伝って」
未悠の瞳が光った。
殺し合いゲームが始まったんだ。……大無の声が脳裏を過る。人生はゲームじゃない。……自分の中で別の誰かが声をあげた。
「やめなさいよ。そんな程度の低いこと。品格が疑われるわ」
「生きるか死ぬかなのよ。品位だの品格がどうのと言っていられないわ」
彼女が怒りをあらわにする。その矛先は沙也加に向いていた。そんなだから友達に売られるのだ!
未悠のスマホの着信が鳴る。【明日、デートしないか】メッセージがあった。
「誰から?」
「元彼……」
それまでの未悠の勢いが溶けて消える。彼女の気持ちが手に取るようにわかった。
「断ったら?」
「騙されたとか、言い出しかねない奴よ」
「断れないと思って言ってきたのね。……ちょっと待って。その人に未悠のポイントの状況がわかるの?」
「シヴァで視ればわかるわ。こうやって……」
彼女は検索のタグを開き、沙也加の氏名と住所を入力した。氏名は必須で、他に生年月日や住所、出生地、マイナンバーなどを入れる項目があった。項目を増やすほど調べたい相手を特定できる仕組みだ。
表示が切り替わり沙也加のプロフィールが表示された。悪徳ポイントは12。沙也加はホッと胸をなでおろした。
「これって、スマホを持たない人は影響を受けないのよね?」
「どうかなぁ?」
未悠が検索ページに戻り、【水卜岩丈】と入力した。父親の岩丈はスマホを持たない。以前は携帯電話を利用していたのだけれど、数年前、そのサービスが打ち切られるのにあわせて携帯端末を持つのをやめた。父親が言うには、電波に縛られるのは身体に埋め込まれたチップで十分だ、ということだった。
未悠のスマホの画面が変わる。岩丈のプロフィールと顔写真が表示された。マイナンバーチップに登録されているものだ。
「日本人はすべからくシヴァから逃げられないということね」
「お姉ちゃん、これ!」
未悠が示したのは岩丈の悪徳ポイントだった。それが500ポイントを超えていた。
「未悠、まさか……」
彼女の顔に目をやる。姉ばかりか父親まで餌食にしようとしていたのかしら?
「私じゃないわよ」
未悠がプルプルと首を振って告発記録のボタンを押した。
表示された写真のほとんどは、岩丈が高校の体育館で生徒相手に講演をする姿だった。
【この坊さん、嘘つきデース】【努力したって報われないって】【私たちに明るい未来なんてありません。嘘はやめてください】【仏さんなんているはずないじゃん】【大人は無責任だね】
写真にはそんなコメントがついていた。
「なるほどねぇ。正論や希望は、取りようによっては嘘だということね」
覚めた高校生の意見とストレートな行動に胸をえぐられる。彼らにすればシヴァに告発するのはゲームに過ぎないのだろう。その結果、何が起きるのか。……胸の内を絶望の風が吹いた。
「毎週のように高校や中学で公演しているでしょ。こんなことじゃ、お父さん、すぐに死んじゃうわ……」
自分の悪徳ポイントと父親のそれが重なって見えるのだろう。未悠の目尻に再び涙がにじむ。
「……お姉ちゃん、官僚なんでしょ。シヴァ、何とかしてよ」
「無理を言わないでよ。政府だって……」
政府は、ただ見守っているだけだ。中国政府がどうやってシヴァを導入し、上手くコントロールしたのかさえわかっていない。おそらくシヴァではなく、国民の方をコントロールしたのだろう、というのが沙也加の推理だった。
「……まだ、シヴァがどんな仕組みで命を奪うのか、まだわかっていないのよ。ただの偶然だという人がいるくらいなんだもの」
未悠の手を取る。熱い手だった。その左手首にマイナンバーチップが埋まっている。それを取ってしまえば助けられるに違いない。……チップが埋め込まれた場所を見つめて考えた。それを取りだすには裁判所の許可がいる。
「私、死にたくない。まだやりたいことがたくさんある」
「私に任せて。何とかする」
そう言って励まして見たものの、沙也加には何をどうしたらいいのか、皆目見当がつかなかった。
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