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のろまな政府

「すみません、乗ります」


 水卜沙也加が庁舎のエレベーターに飛び乗ると十数名の顔の中に江東陽介えとうようすけのそれがあった。同じ係の3年先輩だ。


「おはようございます……」彼の隣に立ち、声を潜める。「……大変なことになりました」


「ん?」


 彼が瞳を光らせた。


「シヴァです。アプリの」


「シヴァ!」


 彼の声が大きかった。周囲の視線が彼に集まる。他の部署でもシヴァに注目している。だからといって、教えてくれと頭を下げる者はなかった。素知らぬ素振りで耳をそばだてている。


「どういうこと?」


 江東が顔を寄せ、声のトーンを落とした。話を後回しにしなかったのは、周囲の者にも聞かせる前提だろう。


「新宿駅で人が死にました。シヴァで殺されたんです」


 教えると、彼が目を点にした。驚いているのではなく、疑っているのだ。


 背後の50代の職員の喉がクククとなった。笑ったのに違いない。他の職員の多くが、期待外れの吐息を漏らした。


「朝から趣味の悪い冗談はやめてくれ。ここは中国でもインドでもない」


 周囲の目を意識したのだろう。江東が言った時にエレベーターが止まり、2人は他の幾人かと共に降りた。


「冗談なんかじゃありません。自分のスマホ見てください。シヴァを削除していないなら、それが勝手に日本語版になっています。そこに新宿で死んだ壇多なんとかというおじさんの名前があるはずです」


 抗議しながら事務室に向かう。自分のスマホでシヴァを見せるつもりはなかった。何分、悪徳ポイントが入っている。知られたくなかった。


「ホントかよ?」


 彼が口をとがらせてスマホを手にした。


「お、……お、……本当だ!」


 彼が事実を認識するのと、沙也加が部署のドアを開けるのが同時だった。


「おはようございます」


 視線が合った係長の彩川雛乃あやかわひなのに向かって頭を下げた。


「どうしたの、大きな声を出して?」


 雛乃が江東に向いて眉をよせた。


「これです。これ、シヴァです……」


 彼がアワアワ言いながらスマホを示し、シヴァが日本語版になっていることと、それに沙也加が気づいたことを説明した。


「……これで人が死んだらしいです。今朝、新宿で。……おい水卜、係長に説明しろよ」


 彼に求められ、沙也加は彼のスマホのシヴァを開いてメニューから〝被制裁者リスト〟を開いて見せた。そこで、言葉を失った。


「どういうこと?」


 雛乃の視線がスマホから沙也加の硬直した顔に移った。


「2人目が死んでいます……」


 沙也加は〝被制裁者リスト〟を指した。1行目に壇多怜治の名前があり、2行目にも倉熊等くまくらひとしという名前があった。


「……この壇多というのが新宿で亡くなった人です。痴漢が見つかって、乗客たちにめっちゃ写真をとられたのです。さっきまで、リストには壇多さん1人でしたが……」


 2行目の熊倉の名前をタップする。プロフィールの住所は大阪だった。ページの最後の〝告発記録〟をタップする。


 最初に表示されたのは路上に寝ている彼の姿だった。伸び放題の髪と髭、汚れたコート姿で、傷だらけの布袋を握りしめている。コメントに【歩道で寝るな。通行の邪魔、死ね】とあった。


「彼はホームレスのようですね」


「それだけの理由で?」


 雛乃の疑問に応じ、次々と写真を開いてみる。昨夜、彼が飲食店を訪れ、食べ物をねだる動画があった。彼は自分の不潔さを利用して飲食店を訪ね、食料や金銭を要求して生きていたらしい。結果、【脅迫】【業務妨害】といった悪徳ポイントが店員や多くの客によって加えられていた。


「なるほどなぁ」


 江東が納得の声を上げた。これで日本の治安も良くなりそうだ、と言いたげだ。シヴァによって町場に潜む特殊サギグループや違法な客引き、チンピラを一掃できるのは中国が証明している。


「それにしても、数日前からシヴァが動いていたということね。それに私たちは気づかなかった。いったい誰がシヴァの日本語バージョンを?」


 深刻な声を発した雛乃が自分のスマホのシヴァを開き、江東のものと同じ状態であることを確認した。


「さあ?」


 沙也加と江東が顔を見合わせる。


「法律は六法全書や判例集を読ませればなんとかなるとして、日本人の倫理観を覚え込ませるのは簡単ではないでしょ?……言語化されたものなんてないのだし……。あら……」


 アプリを確認しているそばから被制裁者リストに新たな名前が増えた。女性の名前だった。


「大変だわ。こうしちゃいられない」


 雛乃が跳ねるように席を立ち、ちょうど出勤した自治行政局国民情報管理課長のもとに向かった。


「どうなるの?」


 沙也加は係長を見送り、江東に尋ねた。


「さあな」


 彼にも見当がつかないらしい。それも当然だった。課長にさえ判断がつきかねるようで、係長を伴い局長室に向かった。シヴァ問題は、下っ端の沙也加や江東などには想像も及ばない場所で対処されることになったのだ。


「シヴァ、……ヒンドゥー教の破壊神だったよな」


 係長たちが局長室に向かう様子を見ながら江東がつぶやいた。


 沙也加の脳裏を悪夢が過った。中国政府がシヴァを導入した3年前の様相だ。あのころの中国は、知人同士が告発される前に告発して相手を消し去ろうとする地獄のような世界だった。そんな状況が日本にもやってくるのかもしれない。


「破壊と再生を司る神様です。アプリが神様だなんて馬鹿げてますよね」


 シヴァそのものではなく、それを神の様に利用した中国政府を批判したつもりだ。


「神様は金だけで十分だけどな」


 江東の顔がゆがんだ。


 打ち合わせを終えた雛乃が席に戻ったのは昼になろうという頃だった。


「係長、シヴァの件はどうなったのでしょうか?」


 沙也加は念のために訊いた。シヴァの被制裁者リストには、すでに20を超える名前が並んでいる。SNSではシヴァによって死者が出ていると話題になっており、シヴァがどんな仕組みで犯罪者に死の鉄槌をくらわせているのか、様々な憶測が飛び交っている。総務省が管理している国民情報との関連が話題に上るのも時間の問題だろう。


「まだ結論は出てないわ。でも、夕方には官房長官がメッセージをだします」


「どのようなものですか?」


 江東が話に加わった。ベテランの職員たちは何食わぬ顔で自分の仕事を進めている。


「シヴァが人間を殺している事実はない。それを使って他人を誹謗中傷することがないように。そんなものだと思うわ」


「そんなぁ。中国では、治安維持のためにそれが使われていると、国民はみんな知っています。今日の死者とシヴァが無関係だと声明を発したところで、誰も信じませんよ」


「中国だって、国民の死とシヴァが関連していると合理的な説明はしていない。たまたまシヴァで写真を撮られた者が、たまたま死んだというだけなのよ。合理的な説明ができない以上、政府としてそれを認めるわけにはいかないわ」


「それって、データ上で数量的な相関関係があっても、科学的な因果関係が説明できなければ、因果関係はない、ということですよね。おかしくありませんか?」


 江東に代わって沙也加が訊いた。


「江藤君も水卜さんも若いわね。はやく組織に馴染んでちょうだい。上の決定は絶対なのよ」


 雛乃は厳しい口調で部下の口を封じた。


 沙也加は言葉をのみ込んだものの納得したわけではない。こんなことだから日本の官僚組織も国家自体も衰退していくんだ、とヒラメ顔の係長の横顔を見ながら、その日の仕事を粛々と進めた。


 結局、その日はシヴァに関して何の判断も示されず業務が終了した。夕方の官房長官談話も雛乃が言ったような形式的なもので、記者の質問も当たり障りのないものばかり。深堀りすることはなく、ゆるゆるだった。


 とはいえシヴァの被制裁者リストやネット情報を信じれば、シヴァによる死者は増えるばかり。その数は三桁に乗っていた。


 SNSでは様々な推測や憶測、噂が飛び交っていたが、テレビや新聞といったマスメディアはダンマリを決め込んでいた。彼らは十数年も前から想像力や分析力を放棄しており、政府の公式見解や権威者の意見がなければ何も報じない。独自の見解を報じて「エビデンスを示せ!」と追及されるのが煩わしいのか、怖いのか……。そんなメディアが、アプリのシヴァが人を殺している、などと報じられるはずがなかった。


 日常業務を終わらせた沙也加は飛ぶように帰宅した。未悠に釘を刺さなければ若い身空で棺桶に横たわることになる。そうなったら、妹も後味が悪いだろう。


 帰宅時の電車内には微妙な空気が満ちていた。多くの乗客が、朝の電車で痴漢を働いた男性がシヴァの制裁を受けて死んだことを知っている。痴漢をしないのは当然のこと、誰もが他の乗客の目に留まらないよう、置物にでもなったように気配を殺していた。そうして身を縮めながらスマホを片手にしているのは、自分の悪徳ポイントが気になるのか、誰かの犯罪や不道徳の現場を撮影しようと虎視眈々とチャンスをうかがっているのか?……中国はずいぶん前からこんな風なのだろうと思うと胃がキリキリ痛んだ。


 沙也加はシヴァを開いた。自分の悪徳ポイントを確認する。


 12ポイントか。……朝と変わってないのを知って、ホッと胸をなでおろす。クンと血がひく感覚がある。電車が減速していた。


読んでいただき、ありがとうございます。

私、ブックマークとお★さまが好物です。

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