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痴漢が死んだ

――Life is a duty, complete it. Life is a game, play it.(人生は任務です。それをやり遂げなさい。人生はゲームです、それを楽しみなさい)――

     Mother Teresa(マザー・テレサ 1997年9月5日没 享年87歳)


 ――ムン――


 蒸した空気が臭う通勤電車内、水卜沙也加みうらさやかの脇の下を汗が流れた。総務省に入庁して2年目、まだ鮨詰めの通勤には慣れない。


 なんとかならないの?……車両の中ほどの吊革にしがみつきながら、背後からの圧力と激しい揺れに必至に耐えた。


アッ!……目の隅に、もじもじしているロリ顔の女子高校生が映った。出入口の近くだ。


 痴漢に違いない。助けてあげたい。でも声をかけるには遠すぎる。


『まもなく新宿……』


 スピーカからデジタル音声が流れ、減速する通勤電車。


 良かった。彼女は解放される。……沙也加は胸をなでおろした。


 電車が止まり、ドアが開く。


「この人痴漢です!」


 ロリ顔の女子高校生が中年サラリーマンの手を高々と掲げていた。もじもじしていた顔が覚悟をもったそれに変わっていた。


 やったわね!……沙也加は心中、彼女を称賛しょうさん喝采かっさいした。


 ロリ顔の彼女と手を握られたサラリーマンがホームに押し出されていく。


 乗り換えのために大半の乗客がホームに向かい、その内の半数が彼女とサラリーマンを取り囲んでスマホのレンズを2人に向けていた。


「嘘だ。私はやってない!」


 痴漢が反論した。


「駅員さん! 痴漢です!」


 声を上げたのは彼女ではなく、他の乗客たちだった。


 ――カシャ、カシャ、カシャ――


 無機質なシャッター音が鳴る。


 ホームの中ほどにいた駅員がぎごちない動きで駆けてくる。顔は人間だが、動きは明らかにアンドロイドだ。技術の発展によって人型のアンドロイドが普及した。今では駅員の7割がアンドロイドだ。


 ロボットやAIが仕事の多くを担い、社会を支える時代になった。それでも日本人が労働から解放されたわけではない。生活がぜいたくになったのと人口が減ったためだ。沙也加の職場も同じで、事務労働は減ったが職員の数も減らされた。なのに、国会議員のための議会用の想定問答資料は減らない。AIは人間以上に優れた資料を用意してくれるのに、議員側にデータを読み解く能力がない。それで職員が作った資料を要求してくる。議論に負けた際、彼らが文句をつけられるのはAIではなく人間だからだ。もっとも、ぺいぺいの沙也加が想定問答資料を作ることはない。沙也加など、省の中ではシステムのデバイス端末に過ぎない。


 ――カシャ、カシャ、カシャ――


 残酷なシャッター音は鳴り止まない。ある者は真顔で、ある者はニヤニヤしながら事件現場を撮影していた。……そして撮影する野次馬を撮影する者が現れる。


 沙也加は、スマホこそ取り出さないけれど、好奇心から英雄的な女子高校生と顔を歪ませた痴漢を見守っていた。


 ――ウゲッ――


 突然の音は痴漢の喉が発したものだった。それはあまりにも唐突で、ロリ顔の女子高校生も野次馬たちも、何が起きたのかわからなかった。


 痴漢の顔から血の気が引いていた。彼はビジネスバックを手放し、胸に手を当てると上半身を〝く〟の字に折った。彼の腕を握っていた女子高校生に体重がかかり、その腕を軸に半回転する。


 白目をむいた彼の顔に彼女が驚いて手を離した。


 痴漢は膝から落ちるように横向きに倒れた。


 ホームに横たわった肉体が小さく痙攣けいれんしている。


 野次馬の半分は驚いて、あるいはやましさを覚えてスマホをしまったが、残りの半分は撮影を続けた。


 ――カシャ、カシャ、カシャ――


 非情な音が鳴り続ける。


「お医者様はおられませんか?」


 アンドロイドの駅員が声を上げながら野次馬を見渡した。彼が搭載したAIには、知識はあっても診察する資格や権利がない。


「撮影はおやめください。プライバシーの侵害です」


 駅員が指摘して初めて、野次馬たちは自分の罪に気づいた。慌ててスマホをしまう者、その場を離れる者。反応は様々だ。


「通してください。私が診ましょう。外科ですが、医師です」


 人垣をかき分けて若い男性が現れた。


心筋梗塞しんきんこうそくが疑われます」


 駅員が言った。


 医師が脈を取り、少し慌てた様子で「AEDを」と駅員に告げた。


「死んだのか?」「まさか?」「シヴァ?」「本当に?」


 野次馬たちの中をざわめきが走る。


「シヴァだ」


 沙也加の頭の上で懐かしい声がした。そこに目を向けると有無大無うぶたいむの顔があった。高校の同級生だ。天才といわれていたのに、何故か影の薄い人物だった。6年ぶりに見る顔は昔のままで穏やかな表情をしている。ただ、肌に血の気がない。まるでゾンビの様に……。ゾンビを見たことなどないけれど、そんな気がした。あのころより身長はずいぶん伸びたようだ。沙也加より頭一つ分背が高かった。


「有無君?」


「うん、久しぶり」


 卒業後の彼の進路が思い出せない。同級生たちはみんな受験に汲々としていて、お互いをライバル視していた。彼がどこに進学したのか、話題にならなかったはずがないのだけれど。……無意識のうちに、彼の進路を必死に思い出そうとしていた。


「これが、シヴァの仕業だというの?」


「知らないのかい?」


 その声は馬鹿にしているように聞こえた。つい、ムキになって応じる。


「知っているわよ。シヴァはインドで開発されたスマホアプリよ。とはいっても作成者不詳だけど。……誰かが罪を犯した現場を写真や動画にとってアップすることで、違反者に制裁を加えることができる。その制裁は〝死〟のみ。撮影者から贈られる悪徳ポイントが1万を超えると死に至る。一方、無実の罪で制裁を課そうとしたものは、そのポイントが自分に跳ね返ってくる。悪徳はインドの法律や倫理に準拠しており、GPSによる位置情報も明確なためにインド国外では作用しない」


「へー、詳しいんだね。IT関係の仕事をしているのかい?」


「いいえ。総務省よ」


「官僚なんだ」


 見おろしてくる彼の視線が痛い。


「世界一の人工を誇るインドは、強盗殺人、レイプ、汚職と、犯罪で混沌としているでしょ? それらを正すために誰かがアプリを開発したのだろうということは容易に想像できる。でも、アプリの仕様やプログラムソースが非公開なために人々の理解はすすまず、インド国内では普及しなかった。……ところが、中国政府がその機能に着目し、中国国内の治安維持と不正行為の摘発、治安維持費用削減のためにシヴァを採用した」


「ああ、その先ならボクにもわかる。中国では、凶悪犯罪者や反政府主義者だけでなく、ブラック企業の経営者や悪徳商店主、売春婦にいたるまで数千万人という国民が葬られた。シヴァによる制裁を恐れた人々は委縮いしゅくし、少なくとも人目につく場所では品行方正を装う。政府の目的は達成され、万々歳。日本政府は羨ましいと思っているんじゃないかな?」


 彼の口調に、日本政府に対する否定的なものを感じた。


「まあ、そうね。中国がシヴァを公式アプリにした時、世界中の国々が注目していたわ。治安維持とその費用の削減は全ての国家にとって関心の的だもの。もちろん、日本政府にとってもね」


 昨年、沙也加が属する自治行政局国民情報管理課でも他の省庁同様、シヴァの有効性やリスクについて議論が持たれた。結果、日本政府がその導入に踏み切れず議論自体がうやむやになったのは、シヴァのシステムそのものが理解できなかったからだ。中国政府のように、理屈はわからなくても結果が出ればいいということにはならなかった。そうしたことは彼には話さなかった。


「中国の状況からシヴァの有効性は証明された。すでに数十の国家がシヴァを導入しているね」


「ええ、でも日本では導入していないわよ」


 沙也加は思わず左手首を右手で抑えた。そこにマイナンバーチップが埋め込まれている。日本人は皆、産まれるとすぐにチップを埋め込まれ、所在地から健康状態、学業成績、資産に至るまで、様々な面で管理されていた。多くの国民にとっても有益なシステムだ。シヴァは、そうした人体に埋め込まれたマイクロチップに何らかの作用を及ぼして人間を殺害すると推測されていた。


「そうかな……」大無が目を細める。「……それなら、アプリを見るといい。彼の名前がリストに上がっているはずだ」


「まさか!……日本版はないはずよ」


 半信半疑でスマホを手に取った。シヴァの検討に際し、省内の大多数がオリジナルのインド版をダウンロードしていた。当然、ダウンロードしてみただけで、一度も使ったことはない。


「エッ……」息をのんだ。


 シヴァの表示内容が日本語化していた。


「……日本語バージョン。……日本政府は、運用を開始していないわよ。私、総務省にいるから間違いない」


「日本政府が導入しなくても、シヴァは動いた」


 彼が、倒れた痴漢を目で指した。そこには懸命に処置を施す医師の姿があった。AEDはアンドロイド駅員に内蔵されているものが使われていた。


 しかし、あの痴漢はピクリとも動かない。完全にこと切れていた。


お読みいただき、ありがとうございます。

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