龍の花嫁は、それでも龍を信じたい
あとがき部分に、イラストがあります。
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「ようやく会えた」
私以外誰もいないはずのこの場所で、唐突に声をかけられた。思わず悲鳴をあげかけて、必死で息を飲み込む。恐る恐る振り返れば、どこから入り込んだのか、美しい青年がひとり、目をきらめかせながら微笑んでいた。
ここは山深く、閉ざされた花畑。周囲は険しく警備もまた厳重で、外から入り込むことも、逆に外へ出ることも叶わない。彼がここにいること自体が、神さまのいたずらのようなもの。周囲を警備している兵たちの目をどうやってかいくぐってきたものやら。
「何をそんなに驚くことがある」
にもかかわらず、悠然とこともなげに問うその姿。世事に疎い私にさえ、彼が高貴な身の上であろうことが簡単に想像できた。くらくらとめまいがする。こんな時にどうすればよいのかなど皆目見当もつかず、不安だけが押し寄せた。
相手が自身の問いに答えることを疑ってすらいないその姿。
柔らかな、けれど見た目にそぐわないどこか老成した言葉遣い。
外套を羽織っただけの簡素な格好とは対照的に、手荒れや日焼けとは無縁のなめらかな肌。
おそらく彼は、多くの人間にかしずかれる立場にいるのだろう。禁足地に気まぐれに足を踏み入れることを許される身分。口に出すことさえはばかられるそれを想像し血の気が引く。殺されることはあるまいとわかっていても、体の震えが止まらない。
「ここでの生活に不自由はないか?」
青年の問いに、答えるべき言葉を私は持っていない。彼の足元に這いつくばるようにひざまずき、一輪の花を差し出した。この地を埋め尽くす、血のように赤い花を。
これを見れば、彼も思い出すだろう。忌まわしいと言われる花を手にする私の役割を。物珍しさなど吹き飛び、もう二度とこの花畑へ来ることもないはずだ。
ここは聖地という名の牢獄。そして私は、花守の咎びとなのだから。
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この国は、龍との契約によって恵みをもたらされたのだと伝えられている。かつては、草木も生えぬ不毛の地だったのだとか。
あるとき、日々の貧しさを嘆いた娘の前に、一匹の龍が現れたのだという。龍は娘を憐れみ、一粒の涙を流したそうだ。涙は大きな湖になり、川になり、土地を潤した。
それだけにとどまらず、龍は娘とともに土を耕した。はじめの頃はあまりの固さゆえに、龍の爪でさえ剥げてしまうほどだったらしい。龍がその手を痛めた場所には、赤い花――龍爪花――が咲くようになり、やがて肥沃な土地として発達していったという。
ところがあろうことかその娘は、龍と夫婦になることを嫌がり、龍の宝玉を持って逃げ出したのだそうだ。許しを乞う娘を殺め、宝玉を粉砕し、それでも怒り狂う龍を静めるため、この国の王はこれからも娘の罪をあがなうことを約束した。
宝玉の欠片をその身に宿して生まれた子どもは娘の生まれ変わり。その者は罪を灌ぐために、かつて龍が涙と血とを流した始まりの場所で、花守をしなければならないのだと決められている。たったひとり死ぬまで辺境の土地で過ごす。それがこの地で千年も続く古くからの習わし。
死後に残った宝玉の欠片は王家に保管され、完全な形を取り戻した時、再び龍がこの地に舞い降りるのだという。その時ようやく、娘、ひいてはこの国の民が背負った罪が許されるのだとか。
そして私の背には、龍の宝玉の欠片がある……らしい。らしいというのは、私は自分でその宝玉とやらを見たことがないからだ。鏡は王族だけに許された貴重品。私のような穢れた者が触れることは許されないのだという。揺れる水面には、私の姿さえはっきりとは映らない。
物心ついた時には、既に神殿で暮らしていた。暴力を受けることはなかったけれど、それは宝玉に傷がつけばこの国に災いがもたらされると言われているから。あの温度のない眼差しを見れば、いかに自分が厭われているかなど容易く理解できた。
涙を流すことなかれ。
感情を出すことなかれ。
言葉を発することなかれ。
戒めを破ればたちどころに私は息絶え、宝玉の欠片もまた失われるのだという。よもや国に迷惑をかけることはあるまいな。そう脅されれば、自死さえできない。
当たり前のことすら許されず、果たして私が生きている意味はあるのか。それすら私にはわからない。生まれてこのかた、すべてを否定され続けていれば、いつの間にか考えることすら億劫になってしまった。
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どうしてこんなことになってしまったのだろう。
困惑する私の横で、今日もまたさも当然のようにのんびりと過ごす高貴なひと。彼は、誰もが敬い同時に恐れる龍爪花をなぎ倒し、昼寝にちょうど良い場所を確保して悠々と寛いでいる。一度きりの気まぐれかと思いきや、青年は毎日のようにここを訪れるようになってしまった。
「こんなもの、ただの花でしかあるまい。一体何を神聖視しているのやら」
肩をすくめて笑う彼は、屈託のない子どものようにも、年を重ねた老人のようにも見えた。ひらひらと赤い花びらが空に舞う。
客人をもてなそうにもここにはまともな椅子ひとつないのだが、それもとりたてて気にならないらしい。私とともに沢の水を飲み、木の実を食べ、畑を耕す。時にはどうやったのか兎や鴨などを捕まえてきてくれる。彼と過ごす中で、誰かとともにする食事の美味しさを私は知った。
花守といえど、この花畑でやることは実はほとんどない。龍爪花は、特別な手入れなどせずともよく育つ。だから花守という仕事はきっと、穢れである私を閉じ込めるためのていの良いこじつけに過ぎないのだ。
けれど彼は、こんなところで油を売っていてもよいのだろうか。それとも高貴な方には息抜きも必要なのだろうか。天上人のことはよくわからない。いずれにせよ、私には彼に問いかけるための手段すらないのだから考えるだけ無駄なのだけれど。難しいことを考えていれば頭が痛み始める。私はそっとこめかみに手を当てた。
そんな私のことをどう思ったのか、青年が私の頭を撫でた。じんわりとてのひらの熱が広がっていく。自身の顔に笑みが浮かんでいたことに気づき、慌てて唇を噛んだ。ああ、戒めを破ってはいけない。
初めて感じるひとの温もり。私という存在を認めてもらう心地よさ。戒律を破ることの恐ろしさと、不思議なほどの高揚感。
彼の訪いは、私にとって好ましいものだった。たったひとつ、彼が私を外へ連れ出そうとすることを除いては。
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「まだ行く気にならぬのか」
青年の言葉に私は下を向いた。正直なところ、私が龍を捨てて逃げた娘の生まれ変わりだという実感は今でもない。けれど、私は花守以外の生き方を知らない。
ここはとても寂しいところだけれど、ひとりぼっちというのは逆に言えば傷つかずにすむということでもある。誰かの視線に怯える必要もない。
「この国がそんなに心配か」
彼の言葉に私はひそかに眉を寄せる。この国のことなど、もはや私の頭にはなかった。神殿であれほど叩き込まれた花守の意味も、私にとってはどうでもよいものに成り下がっていたのだ。
彼とともにこの地を出たとしたら、しばらくは穏やかな生活を送ることができるのだろうか。けれど、いかに彼の身分が高かろうとも、私が宝玉持ちということが知られれば、多くのひとに恐れられるだろう。憎まれるだろう。そして、いつしか彼にさえ疎まれたとしたら……私は心の拠り所を失ってしまう。
「お前がほしい」
彼の言葉が、じわりと私に染み込んでいく。普段であればすぐに引き下がる彼。ところが、青年の細い指が私の首筋をなぞりあげる。くすぐったいような、ぞくぞくするような、何か不思議な感覚が広がり、身を委ねたくなった。
神殿で見知らぬひとびとに身体をまさぐられた時には吐き気しか催さなかったことを思い出す。私はいつの間にかすっかり彼に心を許してしまっていたようだ。
ああ、けれど。私が逃げ出せば、結局のところ彼に迷惑がかかるのではないか。生きていて、初めて怖いと思った。彼との繋がりを失いたくないと願ってしまった。
逡巡する私に向かって、それは艶やかに彼が微笑んだ。
「女子ひとり守れぬとでも?」
なんという傲慢さ。なんという言いぐさ。けれど、そのすべてが好ましかった。小指の先程も自信を持たぬ私からすれば、その高慢ささえ憧れだった。
私を欲しいと言ってくれるのなら。こんな私に、価値があるというのなら。たくさんのひとに憎まれ、恨まれてもかまわない。私に少しも優しくしてくれなかったこの国ではなく、あなたにすべてを捧げたい。
彼の前にひざまずき、その整った顔を見つめた。
「どうぞこれから先もあなたとともに」
戒めを破り発した言葉は、十数年ぶりに出したとは思えないほどよく響く。ゆっくりと触れられた彼の唇は、柔らかく清涼な水の香りがした。
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ぱりぱりと薄い氷を割るような音が聞こえた。
彼の内側から光があふれ、青年の姿がもろくも崩れていく。代わりに現れたのは、きらきらと輝く白銀の鱗だ。
どうやってそこに閉じ込められていたのかと不思議に思うほどの質量が、そこから飛び出してきた。長い間温められた卵から、鳥の雛が孵るように、彼は本来の姿を手にしたのだろう。
もともと恐ろしいほどに整っていた彼の姿は、人外になっても見惚れるほどに美しかった。美醜とは確かに種族の壁を越えるのだと実感するほどに。
「ああ、我が宝玉よ」
するりと、彼が私の身体に絡みついた。人間の姿とは異なるどこかひんやりとした感覚が心地よくて、自分から頬を寄せてみる。何度も繰り返してきたような気がする懐かしい感覚に、思わず笑みがこぼれた。
「神殿で聞いていた話とは違うのですね」
龍は私に優しい。いや、龍だけが私に優しい。私の言葉に、龍が喉を鳴らして笑った。
神殿は、この国の人間たちにとって都合が良いように書きかえた物語を伝えていたのだろうか。例えば、龍から奪いとった豊穣の力を隠すために。力を失うことは、この国がかつての荒れ果てた貧しい国へ逆戻りすることを意味するのだから。
孤独にさせたのは、情報を遮断させるため。
文字を知れば、疑いを持つかもしれないから。
真実を知れば、自由を求めるかもしれないから。
考えれば考えるほど、しっくりときた。頭を使うことは苦手だったはずなのに、なぜかとても納得できる。ああ、やはり人間を信用してはいけない。
「さあて、嘘つきは誰だか」
龍の瞳が、私をまっすぐに見つめている。溶けてしまいそうなその熱さ。差しのべられた大きなてのひら。あなたがいれば、私は他に何も要らない。
「さあ行こうか」
「ええ、ずっと一緒です」
私の言葉に、龍が満足そうに目を閉じた。この選択を後悔することなんてきっとない。彼が私を受け入れてくれるというのなら、どこまでも行こう。この空の彼方まで。
かつて隆盛を誇った王国が、一夜にして崩壊したという。まるで神の怒りに触れたかのように、唐突に水が干上がり、草木が枯れたのだそうだ。そこは、今では広大な砂漠となっている。通称、龍の嘆きと呼ばれる場所にあったかつての大国を知るものは、今はもういない。