第二十五話 アポロン暗殺計画 (最終話)
タルタロス王都、官公区の奥、うらさびれた石造りの街並みの中に古めかしい建物がある。
古いホテルを改築したハデスの邸宅である。
石橋のくずれたどぶ河を渡し船で渡り、入ればもはや二度と引き返せないかのような荘厳な門をくぐる。
護衛の男たちと、その足下にうずくまる獰猛な犬たちの間を抜け、いくつもの回廊を渡り、いよいよ応接室にたどりつく。
秘書官に通されて、室内に入る。
「お久しゅうございます。ハデスさま」
「おう・・・ミダスか」
ハデスは、窓辺のソファでくつろいでいた。
ハデスは既に老境に差し掛かってはいたが、いまだ頑健で、その眼光は一片の曇りも見せていなかった。
そしてハデスは、いそいそとやって来たミダスに対して、ゆっくりと、こう語ったのである。
「いや・・・もういいのだ」と。
一気にミダスの血の気が引いた。
「ミダスよ。お前は・・・思い起こすことはないか?
たしかに我らには・・・世界に対する怨恨がある。
しかしそもそも我々はギルド創設当時においても・・・
この世界のため・・・
いや・・・世界の優等生・・・になるために、活動して来たのではなかったのかね。
あの頃は・・・がむしゃらだった。
あれは・・・決して私利私欲の為だけでは出来ないことだった・・・」
ミダスは、ハデスの語り口に絶望を禁じえなかった。
「あ、あきらめるのですか。あんな若造にいいようにされて・・・!」
「なあ・・・ミダスよ。
今後も多くの既得権益が失われ・・・富裕層の者たちもみるみる足場を失って行くだろう。
商人ギルドも、もう当初の役割を・・・終えているのだ」
「な・・・! 何をおっしゃいます」
「俺たちの時代は・・・そう・・・支配の時代だった。
支配にあらがい立ち向かうためには、力が・・・必要だった。
だから俺は戦い・・・そして勝ちぬいた・・・。
そして俺は、なおも・・・戦いつづけているつもりだった。
しかしそれは結局・・・俺たちが挑みつづけていた支配というものに、俺たち自身が・・・取って代わっただけだった。
俺たちは何の進歩もせず・・・ただ支配者の後継者となっただけだった。
しかしヤツはちがう。
あれは・・・あれこそが・・・俺のやりたかったことかも知れぬ。
ヤツは・・・形骸となった王位を捨て、そして・・・世界を・・・変えたのだ」
「し、しかし、我々商人ギルドは・・・!」
「お前は・・・商人ギルドをつづけたいのか?」
ハデスは、やや憐れむようにミダスを見た。
ミダスはそれに対する回答ではなく、ただ己に向けられた憐みに対し、かなしげに首を振った。
「わ、我々はあなたの功績を崇拝し、商人ギルドのメンバーであることを誇りに半生を生きて来たのです。そんな、今さら・・・」
「お前の人生が求めているものは・・・何だ、ミダスよ。
もはや・・・富と名声の時代は終わる。
自由と・・・幸福の時代が来るのだ。
お前が商人ギルドのメンバーとして誇りに思うのは・・・しいたげられたひとびとから、心にもない追従を受けることなのか?
それとも・・・商人ギルドが商人ギルドとして・・・世の中に貢献すること・・・そのものなのか?」
「ハ、ハデスさま・・・」
「こうもなってしまえば・・・もはやギルドの悪行を隠すすべはない。
時代が変わる時・・・あらゆる秘密がもれる。
ふふ・・・やられたよ。
隠蔽も裏工作も・・・時代が変わってしまえば何の役にも立たん。
フフ・・・恥をかく偉人も多かろう。
俺の悪事も・・・巷の噂にまぎれるような過去のものとなる。
そしてギルドは・・・ひとびとの信頼をうしない・・・放っておいても・・・瓦解する。
・・・だが、お前たちが・・・それでも商人ギルドをつづけたいと願うのなら・・・手段は・・・ひとつしかない」
すでに蒼白となって震えているミダスに対し、ハデスは冷酷にそれを告げた。
「せめて・・・ひとびとの役に立つことだ」
「・・・っ!」
ミダスは嘆息とも感嘆ともつかない声をのどからしぼり出し、がくりと頭をさげた。
激昂を己の内に封じて脂汗を流すミダスを見て、ハデスはふと溜息をもらす。
・・・わからぬものにはわからぬ。
ハデスは真理の一端がこの男に少しでも届くことを願って、ともかく笑った。
「まあ・・・俺も、これからは一市民として巷に暮らすつもりだ。新たな時代を・・・ただの老人として生きてみたいからな」
「なんと・・・そのようなこと」
ミダスは理解できぬとばかりに、こうべを垂れたままちいさく首を振った。
「肩書きでも・・・功績でもない。
何が出来るか・・・出来ないかでもない。
ただそこに暮らす老人として・・・好きなことをして暮らしてみたいのさ。
そしてそこから、もう一度・・・世界の意味を問うてみたい」
ハデスの楽し気な声を聞きながら、ミダスは絞り出すように最後の望みを賭けて、最後の毒を放った。
「・・・しかし、あの・・・アポロンめに関してだけは、落とし前をつけなければ」
かすかに冷えた空気が流れ、ハデスの気配が静まった。
「・・・ふうむ」
「・・・?」
死のような一瞬の沈黙があり、ミダスは混乱した。
何も間違ってはいない。
ギルドの祖ハデスは組織の不利を考え、一時的にアポロンの動向に合わせようとしているだけに違いない。
ならば、せめて我々に逆らったアポロンだけでも見せしめにすべきではないか。
そうでなければ今までの活動は、商人ギルドに身をささげた者たちの半生は何の意味を持つのだ?
・・・フゥー。
ハデスの口から吐息の音が聞こえた。それは、あきらかに嘆息であった。
・・・わかっていないのだな。
「・・・ハデスさま?」
「昨日・・・国会で、なにが話し合われていたか・・・知っているか?」
「たしか・・・次年度の予算計画についてということだったかと」
「よく考えてもみよ・・・。
もはやいま・・・政府はベーシックインカム一本で・・・国民の生活のほとんどを保障できている。
細かなことはまったく・・・不要になったのだ。
あとは政府が牽引する公共事業的なことやサービスだろうが・・・こんなものはいくらでも政府紙幣を発行すれば可能だし・・・担当者レベルで進めた方が確実だ。
つまり・・・事務レベルの問題だということだ。・・・ヤツのやるべきことではない」
「では・・・?」
「表向きの議題は次年度予算の計画だったろうが・・・そんなものは、ものの数刻で片付いたはず。
しかしそのあと・・・国会の討議は、深夜におよんだらしいぞ」
「・・・いえ、それは、存じ上げておりませんでした」
「アポロン派の議員の中にな・・・俺と親しい者がいるのだ。そこで手に入れた情報なのだがな・・・」
「はい」
「今朝がた、新たな法案が可決した。・・・なんだと思う」
「・・・」
ミダスには、まったく予想が立たなかった。
もとより、アポロンのやってきたことは、ことごとくミダスの考えの範疇を越えていた。
物事の考え方・・・つまり目的がちがうということである。
ミダスらは、つねに、組織および個々の利益を考えた。
利益なくして体制の維持は成り立たないし、目標への目安もみきわめられない。
だが、アポロンはちがう。
まったくちがう目的をもっている。それはなにか?
それは・・・次世代社会の幸福である。
かれは体制の永続など求めてはいない。
体制など、その時代に応じて、その時代の者が都合に応じて用意すればいいもの。
むしろ、それが旧態依然として維持されることで、社会は腐敗する。
いま、アポロンがやっているさまざまなことは、改革的制度の押しつけではない。
ただの、提案なのだ。
あらたなルールでプレイしてみて、具合が良ければそれで行く。
駄目なら、また変える。
しかし、前にやってみたルールの良さが思い起こされるかも知れない。
そのときは、それを改良して流用するという考えもある。
混乱もあるかも知れない。
しかし、旧態依然としたルールを後生大事に維持して、延々と社会を腐らせ続けるより、ずっと良い。
ただそれだけのことを、実践して見せているだけなのだ。
アポロンは、最終的にはそれを示したいのだ。
なら、かれが最後におこなうべきことは何か?
「・・・まさか」
「まさか・・・と思うだろう?」
ハデスはニヤッと笑った。愉快でならないらしい。
「リコール制度だよ。・・・大臣や議員を、随時リコールできる・・・国民投票の制度さ」
「・・・」
ミダスは、まるで得体のしれないものを見るような顔をした。
呆然自失して、声が出ない。
リコール、つまり解職請求・・・。
これはもともと地方の代官などについて、汚職や不祥事のあった場合に、不満を持った地域民たちがその解職を請求して抗議する制度である。
現地政策のためには、地域住民の留飲を下げるためにこのような制度もある。
しかし、実効的支配者である国会議員、ひいては内閣における大臣までもがその対象になってしまえば、容易に国政を混乱させることも出来るだろう。
だから議員や大臣には、数々の特権や措置があり、その地位を保守されているのだ。
その特権を無視し、あまつさえ、国民投票による随時リコールを制度化するなど・・・。
「国民は・・・議員および大臣の就任直後から・・・いつでもそれに対してリコール投票をおこなうことが出来る。
そしてそれが一定票集まれば・・・直近の議会にて暫定解任。
すみやかに・・・補欠選挙が開始される。
次が決まれば引継ぎが始まり・・・その後、正式に解任となる」
「まさか・・・っ」
ミダスは首を振った。
在り得ない。
自ら、自らの地盤を崩すべく制度を用意するなど・・・在り得ない。
「議会も大混乱だったらしい・・・フフフ、面白いな、あれは。・・・すました顔で言ったそうだ。あー・・・なんと言ったかな。そうそう・・・古今東西の歴史の中で・・・完璧を誇る社会制度はない。為政者が失敗するなら・・・国民も失敗する。ならば・・・なんどでも・・・失敗するがいい・・・とな?」
議会の席でアポロンが朗々と語る姿が目に浮かぶ。
「ただし、欲得は抜きにしてもらおう!
このベーシックインカムという制度から、ひとびとは欲得など何の意味もないことを知る。
欲得の根源は、不安から来る飢餓感である。
この繁栄した大地に、繁茂する人類。
ひとびとが欲得をわすれ、次世代の幸福を思うなら、もはやそこに不安などの入り込む余地はない。
ならば、未来のために施策を為せ。
そして、なんどでも失敗するがいい。
試しに、面白半分に私をリコールするというのもアリだ!
その結果、なにが起こり、なにが為されるか、経験することも大切なことだ!
政府の混乱など気にするな。
国は国民がおのおのしっかり生きてさえいれば、それで成り立つ。
政府など、国民の武器に過ぎん。
国防も外交も、あらゆる突発事項も、政府なくとも何とかなる。
政府があったからと言って、改善したような事態がいくつあろうか。
むしろ、多くの事態が、政府によって混乱せしめられたのではなかったか?
聞け、国民よ!
わが愛する、タルタロスの民族よ!
政府は、おのおのの心の内にあり!
ひとりひとりが政府となって、ものごとを考え、世界と対抗せよ!
いついかなるときでも、きみたちは父であり、母であり、友である。
子を、愛する者を、ともがらを守る盾なのである。
おのが欲得のために、未来を損ねるな。
不安や飢餓にだまされるな!
危ないと思ったら、自分たちが野生の命であることを思い出せ。
きみたちは自由だ!
そして、幸福になることが使命だ!
政府や組織のために生きてはならない!
きみたちがつくる政府は、きみたちが利便とする道具としてつくるのだ!」
「馬鹿な・・・馬鹿げている」
ミダスは頭をふり続けている。
「あの男は、馬鹿なのですかっ・・・? 特権なくして、どうして為政者たり得るのです!」
「その特権を要らぬと言うのだ・・・あの男は」
「だれもかれもが、かれのようにすぐれた英雄ではない!
英雄不在の時代だってある!
そんな時代に、どうやって国を守るのですかっ?
特権なしに、無能なる凡人が人の上に立つことなど出来はしない!」
「なら・・・それでいいのではないか?」
「はっ?」
「俺はこう思うよ、ミダス・・・。
無能も有能も・・・ないのではないかとな。
ただ、その・・・場面場面に、活躍する才能がある・・・たまたま、な?
それだけでは・・・ないのか?
ひとに上下など・・・じつは、ないのではないか?
誰が無能で・・・誰が有能か。
誰が凡人で・・・誰が英雄か。
そうやって切り分けて見てしまう目こそ・・・次元が低いのではないか?」
「そもそも、英雄など・・・いなかったのだ、と」
「そうさ・・・そして誰ひとりとして・・・凡人などではないとな」
「・・・しかし、しかし・・・」
ミダスは聞いていた。ハデスの笑う声を。
「ミダス。俺は・・・ヤツに感謝しているのだよ。
なにしろ・・・俺が生きている間に・・・こんな改革を成し遂げてくれたんだからな。
俺のような悪人にも・・・巷の幸せが許されるような・・・な?」
「それは、いったい・・・どういう?」
ミダスには、ハデスの笑顔が理解できない。
しかしハデスはとがめない。ただ老人らしく微笑むだけである。
「いずれ分かる。ミダスよ、お前は俺の認めた・・・ギルドマスターなのだからな。富と名声をつかむ才能があるのなら・・・幸福をつかむことも・・・たやすいはずだ」
「こ・・・幸福・・・私が?」
「そうさ、幸福さ」
たぶんこれで、話は終わった。
ミダスはこれまで積み重ねてきたものと、今ここにある哲学との間に大きなズレがあることを感じた。
しかしミダスには分からない。
ただとにかく、もはやどうにもならないことなのだということだけはわかった。
これまでの経験上、これ以上の無知をさらすことは危険だとも感じられた。
もはやそんな価値観すら過去のものであるということをハデスは言っているのだが、そんなことがミダスに分かるはずもなかった。
「い、いえ・・・承知いたしました。では、私めはこれで」
ミダスは一礼すると、そのまま退室した。
その間、ハデスと目が合い、互いになにか交わすべき言葉をさぐりながらも、結局、そのまま退室した。
うつろな心持ちで廊下を歩く。
もうどうしようもないと分かっても、それでもミダスの脳は回転をつづけていた。
もう、アポロン暗殺の手筈は整っている。
あとは、指示を出すだけなのだ。
このまま、指示を誤ったとして、暗殺計画を遂行してしまっても良い。
そうすべきか。
よくある話ではないか。
しかし・・・
それはまさに、ミダスがハデスの信頼を裏切ること。
今度こそほんとうに、ハデスの失望をかうことになるということである。
・・・そこまでする意味はあるか?
これはおれ自身の意地ではないのか?
いったい、ひとは、なんのために陰謀をめぐらし、ひとの人生を奪い、自らの魂を穢すのだ?
まだミダスが若かった頃、ハデスに言われたことがある。
「どんなにつまらぬことだと思っても、役に立たないことだと思っても、ひたすら考えるのだ。答えなどなくて良い。ただキリキリと頭が痛むまで考えろ。・・・その時、何かが来る。必ずだ」
どんな逆境にあっても、そうやってニヤリと笑ってみせるハデスを、ミダスは心から尊敬していた。
かくあらんと思っていた。
しかし今ミダスは、そのハデスの庇護から突き放されてしまったのだ。
あのアポロンのせいか。
いや、ちがう。
これは、もっと何か大きなもの。
そう、時代の変化というものが訪れたせいなのだ。
時代の変化。
それを自分は、感じ取ることが出来るだろうか。
ミダスは考えつづけた。
そもそもこのような大きなものごとは、個人ひとりの怨念や欲望だけでは微動だにすることはない。
今、いくらミダスがひとりで騒ぎ、画策したところで誰も動きはしない。
ミダスは知っていた。
実際、すでに各界の大物既得権益者たちもハデス同様、アポロンの改革に対し、なべて賛同の意志を表明していたのである。
時代が変わることは、すでに分かり切ったことであった。
なにしろギルドの意志そのものとも言うべきハデスが、この流れを良しとしているのだ。
むしろハデスには、待ちかねていた気配すらある。
なら、我々はハデスにだまされていたのか。いや、そうではない。
支配者ハデスの理念を理解しえなかっただけだ。
欲に目がくらんで、狡猾な道を選びすぎただけだ。
しかし! しかし、しかし!
ミダスは考えつづけた。
なにかあるはずだ。まだなにか・・・。
しかし、結論はどうしても最終的には残酷な結果を導き出す。
もはや打つ手はない、と。
いまさら、アポロンを討って何になる。
もはや物理的にそうなると決まっている結末に、あらがいようはないではないか。
そもそもわれわれは何をしようとして来たのだ?
ひとは幸福を望む。
ひとは自由を望む。
いくらだまし、しつけたところで、ひとの知性は進歩する。
いつしかひとは、この世の欺瞞をすべて知り、ちいさな利己を捨て、未来に目を向けるようになる。
その日が来た。
ただ、それだけのことではないか。
世界はすでに変わり始めているのだ。
居並ぶ石造りの建物の間を、よどんだ風にのって、かすかにパンの焼ける香りがする。
ミダスはギルドホールのバルコニーに出て、タルタロス王国の市街を見おろした。
目の前に広がるのは、陰気な路地裏ばかりである。
しかし、はるか彼方を見渡せば、晴れ渡る空があった。
・・・口惜しいではないか。
あの空の下には、つまらない意地など気にもとめずに、面白おかしく人生を謳歌している若者たちがいるのだ。
かれらは一日中愛する家族と暮らし、文化をひらき、生きる実感を得ているのだ。
かつては見くだしていたあの者たちこそが、じつは時代の主役であったのだ。
ミダスも馬鹿ではない。
ミダス自身、すでに世の中の流れが変わって来ていることに気がついていないわけではなかった。
ただ、仕事だから、できるだけ卒なくそれらのことをこなそうとしていただけなのだ。
しかし、そこには何のビジョンもありはしなかった。
かれらはいつも、ただの真面目すぎる優等生でしかなかった。
・・・なんと我が人生の馬鹿馬鹿しいことか。
ミダスは、一市民となって新たな時代を生きてみたいと言った老人の、あのワクワクとした瞳と口調を思い出した。
あの老人は分岐した原点に戻って、自分のいまひとつあった可能性を取り戻したかったのではないか。
そんなことができるのか?
そんなことが今さら許されるのか?
いや出来るだろう・・・それは。
なにしろ、時代が変わるのだから・・・。
なにか、つまらないことの一つでもやってみようかという気にもなる。
絵でも描いてみるか。
旅に出るのもいい。
ああ、いい香りだ。
腹が減った。
あれは、焼けたパンの香りだな。
そうだ、妻に教えてもらってパンを焼いてみるのはどうだ?
おれにもできるかな。
あのパンはうまかった。
なんと言う名のパンであったか。
ふふ、おれはそんなことも知らぬのだな。
ミダスは仏頂面のまま、空を見上げた。
妙なうっぷんが渦巻いて、のどもとまで出掛かっている。
「ハッ!」
ミダスは辺りに誰もいないのをいいことに、その思いを口に出して言ってみた。
「なんと! 我が人生の、馬鹿馬鹿しいことかーッ!」
ミダスはあまりいい笑顔ではなかったが、自然に笑った。
たしかに、ワクワクして来たのである。
〈了〉




