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「アポロンなら黙って席を立つ」  ~ハーメルンの笛吹きが、無人島に建国するような事態~  作者: したむら てつ
第五章 アポロン無双編 (続編 本編)
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第二十二話 お金がなくても生きて行ける世界

 首相就任後、アポロンはいきなり政府内の組織を大改編し、次々と新制度を打ち出して行った。


 急速に増えゆくアポロン信奉者たちは、もはや何のうたがいもなく改革にしたがい、能動的に変化に対応して行った。

 一方、反対派の政治家たちはアポロンのカリスマ的な求心力に対し、その危険性を方々に訴えたが、まだ始まったばかりの改革の中で何の落ち度もないのにこれを引きずり落とす理由をつくりだすことは困難だった。





 一般に、改革は急速に行いすぎると、ひとびとがついてこれずに頓挫するものだと言われている。

 しかしアポロンはおそるべき迅速さでもって、この改革をおしすすめた。


 すでに腐敗した政治を斬り捨て、新たな常識を打ち出そうと言う改革である。

 かれの脳裏にある設計図にしたがってあらゆる改造を迅速に行わなければ、逆に不備が生じる。


 なにしろ、ひとびとはすでに窮状にあるのだ。

 保身のために今救える命を救えなかったでは済まされない。


「急げ。ひとりでも多くの人生と、その時間を救え!」


 それが、アポロンが新たな官僚たちに下した命令であった。





 アポロンは真っ先に、国際貿易や投資活動に使用されていたこれまでの通貨とは別に国民の生活のための「国内通貨」を発行し、毎月均一の額を国民全員に配るようにした。

 新生児から老人まで、富める者も貧しき者も、優れた才能に恵まれた者も、いまだ才能を眠らせる者も、働き者もそうでない者も、すべて均一である。


 それが「最低限生活保障制度」

 すなわち、ベーシックインカムである。


 これによってアポロンは全国民に対し、タルタロス王国政府による「無条件生活保障」を宣言した。

 つまり、国民でさえあれば、働く働かないに関わらず、すべての国民の生活を保障するということである。

 これは今でこそ当たり前のことのようではあるが、これまでの経済競争至上主義であったタルタロス王国の国民にとっては衝撃的なことであった。





 ベーシックインカムが始まると同時に、経済市場において労働者の賃金単価が急速に低下して行った。

 生活費が保障されているのだから、賃金は安くていいだろうという理屈である。


 これは当然と言えば当然であり、また、アポロンの思惑としても理にかなうところであった。

 賃金単価が低下することにより、商品価格から人件費率が極端に削減されて行ったのである。


 あらゆる商品が安くなり、これまで無意味に高価だった物が安値となって一気に市場にあふれた。

 そしてそれをひとびとがベーシックインカムで気兼ねなく買う。

 もう購買にあせることはない。

 必要なものはいつでも必要なだけ手に入るのだ。





 生きるために雇用に甘んじる必要はない。

 もうからなくていい。

 世の中の役に立つことに意味がある。

 好きなことを「やってみる」ということに意味がある。

 どんなにひとが馬鹿にするようなことでも、つまらないと思えるようなことでも、「やってみて」いいのだ。

 それが、文化だ。





 人件費が安価となり、ひとびとが気兼ねなく買い物をするようになったことで多大な利益を得る者たちもいた。

 だがしかし、それは一時的なことであった。

 アポロンは間髪入れずに所得税の累進課税制度を改正し、それまで最大四十パーセント程度だった税率を、百パーセントに引き上げたのである。


 つまり、一定額以上の所得に上限がもうけられたのだ。


 ひとが平等であるならば、ひとが一時間働いて得る賃金は、その内容に因らず均一でなければならない。

 ギルドの高官であろうと医者であろうと法律家であろうと、ちまたの労働者と一時間働いて得る賃金単価は同じであるということである。


 この「賃金単価均一制度」によって、雇用されて働く者たちの間に「職に貴賤なし」という信念が浸透していった。

 ひとは一日二十四時間、一年三百六十五日以上働くことは出来ない。

 ならば物理的計算の上で、そこに上限があるのは当然である。


 この理屈も、同じようにひとびとの間に理解されて行った。





 これら「所得上限制度」と「賃金単価均一制度」は、多くの富裕層に打撃を与えた。


 抵抗も激しかったが、富裕層と貧困層との人口的な比率が大きすぎた。

 かれら富裕層がだれかれかまわず利益を吸い上げて行った結果、かき集めた財力はとてつもない金額にのぼったわけだが、そのぶんおびただしい数の貧困層、不満層をつくり出していたのである。

 そして、教育制度によって常識化していた資本主義的感覚が、その危険な状態に対し無頓着にさせていたのだった。





 多くの反対派の者たちは、

「アポロン首相は、なまけ者の国をつくろうとしているのか」

 と批判した。


 しかしこれに対しアポロンは、

「なまけて何が悪い?」

 と笑う。


「そもそも何のために働くのか知りもしない者が、嫌々あくせく働いたところで、文明の害悪にしかならん」


 このコメントはそれなりの反感をあおったが、国民、とくに若者たちにとっては希望の風となった。

 これまで抱えて来た茫洋たる不安がかき消えたのである。


 無理に既存社会に馴染まなくても良い。

 自分の感性に従って、やりたいことをやれば良い。

 お金を稼ぐために奴隷のように働かなくとも良い。

 好きなように好きなだけ生きて良いのだ。

 好きな人たちと一緒に暮らして良いのだ!


 アポロンはベーシックインカムの制度を説明するにあたって、こう言った。


「ひとびとよ。間違って認識してはいけない。

 このベーシックインカムは、諸君らへのほどこしなどではない! 報酬でもない!

 これは諸君が当然に受ける権利である。

 これを受けてくれなければ国家は立ち行かないのである。

 諸君らが豊かに暮らし、自由にやりたいことをやってくれなければ国家は成り立たぬのだ!

 水は天から落ち、食料は大地から自然に生まれる。

 諸君らを支配するものはそもそも何もなかった!

 ただ共に生き、共に楽しむために良心と思慮があるのみである!」


 改革は、アポロンの首相就任からわずか二週間のあいだに為された。

 それは、またたく間に国民のすみずみまで周知され、あらたな社会システムとして正常に機能して行った。


 そして、その効果は、タルタロス王国のいたるところにあらわれた。


 あらゆる無駄な労働が消え去った。

 その余剰は、ひとびとの自由な才能の開花に費やされはじめた。


 老いたもの、患うもの、ひとびとは個々人の間の優劣を気にすることなく自由な未来をめざして力を合わせ、助け合うようになった。


 家族は家族とともに行動し、つねにともに日々の人生を暮らすようになった。


 生活圏と都市圏は融合され、治安のかたよりはなくなった。


 さまざまな物資とサービス、そして文化が、経済状態にかかわらず潤滑に供給され、ひとびとの生活をゆたかにした。





 財政の破たんは起きなかった。

 多くの財政界の大物たちがアポロンの改革に賛同し、通貨切替による膨大な国債の清算に協力したのである。

 これはヘリオス王の威光によるものも大きかったと言える。


 だが、何よりも、知恵ある老人たちが、次の時代に向けて善意を残したかったのである。

 アポロンの真っすぐな改革には、ウラが見えなかった。

 ならば、何の懸念もない。

 ここが投資どきというものであった。


 借債による負担さえなければ、あとの財政運営は簡単なものである。

 大自然からの恵みを国民に分配し、その流通と供給を保証すればよいだけだ。

 公共事業の必要があれば、必要なだけ通貨を発行すればよい。

 通貨の発行を抑えさせたい資本家がいるのならば、事業の手伝いをしてくれればよいのだ。


 どんな場合でも、必要なのは金ではない。

 ひとの手である。





 そして、人類と自然はおのずと融合する。


 すると、じつに不思議なことに・・・いや、当たり前のことではあるが・・・疫病、害虫、日照り、洪水、土砂災害など、さまざまな災厄が消滅して行ったのである。





 そして、学校もなくなった。

 教育制度は廃止されたのである。

 これは、国務大臣たちが、さまざまな分野の内政を見渡したうえで献策したことであった。

 学校教育というシステムが、国内の進歩と体力をはげしくむしばんでいるという結論であった。


 教職員結社や教育関連の事業者たちは激しく反対したが、ベーシックインカムの成立している世の中では、利益のための抗弁というものは物の役に立たない。

 もはや金もうけは正義ではないのだ。


 もう、子どもたちは朝早く起きて、怒られるために重い荷物を背負って坂道を駆けあがらなくても良くなったのだ。

 宿題も試験も給食も制服もない。

 日曜日に、ゆううつな明日を憂える必要もなくなった。

 好きな時に好きなことをする。

 自由なる人生の青春期に、自分のやりたいこと、出来る事を模索するのだ。


 学校であった建物は残った。

 だがそれはもはや、いわゆる学校ではなくなった。

 アテナの言うところの「自由大学」となったのである。


 自由大学は、子どもたちに教育をする場ではない。

 ひとびとは自ら学ぶことを楽しむために、自由大学を「利用」する。

 自由大学はすぐれた独学施設であり、あらゆる知識と情報の供給源でしかない。


 ひとは尊敬する者から学ぶ。

 ひとが尊敬する者とは、自らが学を楽しむ者である。

 日常的に、自分の人生の一部として学を楽しむ者でなくて、誰がそれを尊敬できるというのであろう。

 生活のため、名声のために学に人生を削り取られているような者たちに、誰が尊敬を向けるものか。

 あのものたちはむしろ、学を憎んでいたのではないか。


 ならば、自由大学に集う教授・・・「プロフェッサー」とは、特殊な才能を持った技能者であるといえる。

 彼ら自身が学を楽しむ研究者であり、難解な学問や技術について、わかりやすく面白く説明し、伝えることのできるエンターテイナーである。

 それはまさに特殊な技能であり、誰にでも出来るものではない。


 プロフェッサーは自由大学を訪れるひとびとの質問に対し、日々調査研究をおこない、簡潔に分かりやすく説明をする。

 だからこそ、選ぶのは学ぶ側である。


 ひとは、自分の分かり易いと思うプロフェッサーを選んで、質問をしに行く。

 プロフェッサーはそれに対し、自分の研究成果、自分の見解でもって答える。

 それを、その場に来ていたみんなで聞く。

 ただそれだけである。

 教師とは、生徒の上に立つ支配者ではない。

 学ぶ者たちにとっての便利な道具でなければならないのだ。


 この変化により、もはや義務教育の制度とはもともと強制すべきものではなかったということが白日のもとに立証されたのである。

 かれらはもう「先生」とは呼ばれない。

 「先生」と呼ばれる教師たちは、この国から消えた。





 そしてその一方で、十段階の検定試験が毎月行われることとなった。

 受験は任意であり、合格による特権はない。

 ただ級別のライセンスが発行されるだけである。

 ライセンスに意味はない。

 しかしひとびとは、ただ純粋な向上心から上位を目指して励んだ。


 学は楽しみなり。

 誰もがそう言える時代が到来したのである。





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