虹色の君
ここは色のない世界。
なんとなく生きている、そんな言葉がしっくりとくる毎日。自分のしていることが何かの役に立っているなんて到底思えない。何ひとつ色彩のない世界で、私はただ生きている。
そんな日々から抜け出そうとする努力は、とうの昔に放棄した。
そのくせ心の奥底では、このモノクロの世界から連れ出してくれる誰かを待ち続けている。
*****
午前六時。今日も味気ない電子音とともに、私の一日が始まる。叩きつけるようにして止めた目覚まし時計が急に大人しくなって、部屋に静けさが訪れた。
「さっきまで、あんなに自己主張してたくせに」
目覚まし時計にさえ悪態をついてしまうのは、いつものことだ。子どもの頃から短気だと言われていたけれど、二十五歳になっても変わっていない。
「はぁ」
大きな溜め息をついて、薄暗い部屋の中に立つ。
私の部屋には光が届かない。いや、部屋だけじゃない。天気予報が晴れを告げていても、夏の最中でも、私の世界は光のないモノクロでできている。そんな面白みのない一日の始まりに気が滅入るのは、仕方のないことだろう。
それでも私は、代わり映えしない日常を繰り返すのだ。いつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じ電車に乗る。そしていつもと同じ仕事へ向かう私の目に映るのは、窓の外を流れるモノクロの景色。これが私の日常だ。私みたいに特技も才能もないやつは、特別な日々なんて送れるはずないのだから。
薄暗がりの中、幼い頃に撮った家族写真が目に留まった。まだ私が、自分に夢を見ていた頃のものだ。あの頃の私は希望に胸を弾ませ、輝かしい未来を信じていた。
写真に写る屈託ない笑顔が痛々しくて、自嘲するような薄笑いを浮かべた私は、自分の過去を憐れんだ。
私が生まれたのは、北陸地方の海辺の町だ。
「お前が生まれた日の夕方、お父さんが病院へ行く途中だったな。夕日が海に沈んでいくのを見たんだ。それが泣きそうになるほど綺麗で、お前の人生があの日の光景のように輝くものでありますように。いつもそう願っているんだよ」
父は何度もそう話し、その度に私は自分が特別な存在だと感じた。未来は希望に満ち溢れていると、信じて疑わなかった。
だからその頃の私は夢も持てた。今考えるとなんて大層な夢だったのかと恥ずかしくなるけれど、水泳選手になってオリンピックに出場すること、それが私の最初の夢だった。習い事に消極的だった両親を説得してスイミングスクールに通い始めたのが小学二年生。そこで知った水の中の世界に、私は泳ぐことに夢中になった。昨日できなかったことが今日はできる。前回の大会よりもタイムが速くなる。小さな自信の積み重ねによって、体に優しくまとわりつく青い水は私の味方だとさえ感じていた。
けれど限界はやって来る。中学生になった頃、同じスイミングスクールに通っていた友人が県の水泳大会で入賞するようになった。私よりも二年遅く水泳を始めた子だった。経験が長くても、同じ練習をしていても、私には手の届かないところに手が届く人間がいる。それを才能と呼ぶのだと、私は気づいてしまった。青い水は味方ではなく、私を劣等感に包む存在に変わり、私はスイミングスクールをやめた。
中学三年生になった春、我が家に犬と猫がやってきた。知り合いの家で生まれた引き取り手の見つからなかった犬と、我が家の車庫で生まれた野良猫だ。犬を引き取ることは決まっていたから今さら断ることはできない。だからと言って、生まれたばかりの子猫も放っておけない。動物好きだった両親は、犬と猫どちらも引き受けることを決めた。
両親にとって予想外だったのは、私が犬猫を溺愛したことだ。怪我をすると真っ先に動物病院へ連れて行こうと主張する私に、家族から「過保護すぎる」とからかわれたことも一度や二度ではない。それでも心配症だった私が押し切る形で、動物病院を受診した。
そして私は次の夢を見つけた。獣医だ。
動物病院で見る獣医は、とても格好良かった。何しろ言葉の話せない動物相手に的確な判断を下していくのだから。あんなふうに動物を助けたいと、大人になった自分を夢見た。
けれどその夢は、高校受験であっさりと消えた。目指していた理数科の偏差値には到底届かず、自分の頭が文系向きだと思い知らされたからだ。担任教師からも理数科ではない学科への進学を勧められ、私は素直に進路を変えた。
高校時代にも、まだどうにか将来の夢を持つことができた。憧れたのは、通訳と教師。そしてその都度、自分の能力のなさに辟易し、ひとつずつ自分を諦めていった。
それからは、夢と呼べるものは抱いていない。運転免許を取るとか、大学で単位を落とさないとか、そういった類の小さな目標はいくつかできたけれど、幼い頃のように夢は叶えるものと信じて突き進めるものは見つからなかったし、とにかく夢中になって情熱を向けられるようなことにも出会わなかった。
けれど、無味乾燥な高校、大学時代を不満に思っている訳ではない。人生はこんなものだと思えば心に波風を立てることはなかったし、幼い頃のように夢ばかり見ていられないと変に分かったふりをしている自分が、周りの友人たちよりも大人になった気でさえいた。
大学を卒業すると、私は地元を離れて就職した。あの海辺の町から離れようとしたのではなく、採用してくれる会社が地元にはなかったというだけのことだ。
就職した会社は、大企業からの下請けがほとんどの仕事を占めている中小企業で、私は経理事務員として採用された。
独り暮らしを始めた時には、夢と希望で満ち溢れた新天地での生活、なんてことは微塵も期待していなかったし、自分の未来に明るい何かが待っているとも思わなくなっていた。
*****
窓の外に広がるモノクロの景色を、ただぼんやりと眺めていた。ビジネス街にあるビルの一角を間借りするこの事務所からは、人々が蟻のように道を行き来している様子が見える。その様子を見て、さらに気を落とすのが日課だった。私はなぜこんな所にいるのだろう、と。
「これ、やっておいてくれる?」
突然机に大量の資料を置かれ、反射的に時計を見た。始業時間までまだ五分もある。相手に気づかれないように資料を睨みつけても、当然だけれど消えてはくれない。
私より十歳年上のこの女性社員は、仕事を押し付けることで有名だ。私は彼女が苦手だった。人数の少ないこの会社で、ひとり分の仕事を誰かが引き受けるということがどんな迷惑を与えているのか、そんなことはまったく考えていない。彼女の態度は私を苛つかせた。
私だって仕事が好きな訳ではない。やる気だって持ち合わせていない。責められたり怒られたりするのが嫌だから、いつも仕方なく仕事をしているだけだ。
そんな不満でいっぱいなくせに、私が自分から行動を起こすことはない。不満を表すこと、自分の要求を伝えることは、実はとても情熱がいることだ。私には波風を立ててまで何かを変えようとする情熱がなかった。仕事なんて、ただやり過ごせればいい。
資料をぺらぺらと捲っていると、机に置いてあるスマートフォンが震えた。
『ごはん、食べに行かない?』
友人の明奈からのメールだった。私はすぐに『よろしく』と返信した。
捌け口がなく溜まる一方の私の不満をいつも聞いてくれる明奈は、高校時代の同級生だ。地元の町にいる頃はそれほど親しくなかったけれど、就職した会社がたまたま近くだったことがきっかけで一気に距離が縮まった。友達が多い訳ではない私にとって、貴重な友人だ。
今日の愚痴は、この大量の資料と仕事を押し付けてきた女性社員だと心に決め、私は仕事に取りかかった。
*****
「よし、じゃあ気晴らしに映画でも観に行こう!」
仕事帰りに待ち合わせをして、軽い食事を取りながらいつものように愚痴を聞いてもらうと、明奈は突然そう告げた。
「今から?」
乗り気ではない私に、明奈は満面の笑みで答える。
「何も考えず笑える映画、見つけちゃったんだよね」
明奈は大のお笑い好きだ。もしかすると、好きな芸人が出演しているのかもしれない。愚痴を聞いてくれたお礼に今度は私が映画くらいは付き合おうと、急いで会計を済ませた。映画館へ行くためには、十五分ほど歩かなければならない。
何年かぶりに通る道は、私の記憶とはずいぶん変わっていた。
「あんな建物、前からあった?」
周囲とは雰囲気の違う建物を指差して尋ねる私に、明奈は「あんた、どれだけ情報に疎いのよ」と悪態をつきながらも説明をしてくれる。
「昔はクラシックコンサートや演劇の舞台として使っていた建物らしいんだけど、ビニールシートをかけられて長い間使われていなかったの。一年前に改築して、また文化会館として使われるようになったのよ」
そう言われると、確かに年季を感じる。外観全体が淡い茶色をしていて、シンプルでありながら荘厳さのある造りは、中世ヨーロッパの建築物を思い起こさせた。
「なんて偉そうに説明しておきながら、実は私も中に入ったことはないんだけどね。ちょうど何かやってるみたいだし、何事も経験! 入ってみようよ」
小走りで建物へ向かう明奈の後ろ姿を仕方なく追いかけ、二人でエントランスに並んだ。目の前には『入場料は無料です。お気軽にお立ち寄りください』の文字が書かれた看板が立てかけられている。この付近の音大が開催している、生徒の発表会らしい。看板を見た明奈は「やった! 無料だって」と嬉しそうにこちらを向き、エントランスをくぐっていく。「え? 聞いていくの?」という私の声は明奈には届かず、私も明奈に続いてロビーに足を踏み入れた。
ロビーはドレスやタキシードを着た学生たちでいっぱいだった。場違いな気がして、ガラスに映る自分たちを確認していると、「演奏途中での出入りはできません」という声が聞こえ、ホールへと繋がる扉が開いた。明奈は「行こう」と私に腕を絡め、ホールへ入る人の流れに当然のように紛れた。私はもはや、諦めの境地だ。
ホールの中は案外広かったけれど、学生やその家族と思われる観客であらかた席は埋まっていた。後方に二つ並んで空いている席を探し出し、私たちはそそくさと席についた。
程なく、会場の照明が一段落とされた。一人の男性がステージの左袖から現れ、中央で深々と頭を下げた。顔はよく見えないけれど、明るすぎない茶色の髪の、細身の男性だった。
男性はおもむろにピアノの前に座ると、ひとつ大きく息を吸ってから鍵盤を叩いた。
突如響く、澄み切った音。ホール内に音の雨粒が降り注ぎ、周囲の空気がピアノの音に侵食されていく。
私の五感は、彼のピアノへ強力に引き寄せられた。目を離せない。食い入るように見つめる私の視線の先で、男性は七色に輝く光をその体に纏い始めた。
どこかで耳にしたことのある曲なのに、初めて聴いたように心が震え、気がつくと私は泣いていた。感動の涙は綺麗な涙だと、誰かが言っていたのを思い出す。私の目から綺麗な涙が流れるのは、何年ぶりのことだろう。
私のモノクロの世界で、ステージに立つ彼を囲む空気だけがきらきらと光っている。赤、青、黄色、緑……次々に色を変えて光る空気がとても綺麗で、涙を流しながら、久々に感じる清々しさに嬉しくなった。
演奏が終わって、彼が再びステージの中央で頭を下げても、私の感覚は現実に戻って来なかった。ステージに誰もいなくなっても、私は呆然と彼の残像を見つめていた。
「学生の割に良かったわね」
明菜に話しかけられ、はっと我に返る。満足そうに感想を口にする明奈に、私は何も言えなかった。胸がいっぱいで、感想を言える余裕なんてない。ただ心地よい胸の高鳴りを感じるだけで、まるで夢の中にいる気分。
「次の演奏が始まる前に出ましょう」
明奈に急かされ、私は何とか立ち上がった。ロビーに出る頃にはようやく頭が動き始め、明奈が私の異変に気づかなかったことに胸をなでおろした。「どうしてそんなに動揺してるの?」なんて聞かれても、自分でも答えが見つけられそうになかった。
文化会館を出た私たちは、予定どおり映画を観に行った。明奈お勧めの映画に、私は自分でも驚くほど笑った。何年ぶりか思い出せないほど久しぶりの大笑いだった。
きっと彼のピアノが色彩を見せてくれたから、だから私は笑うことができたのだ。
駅前で明奈と別れひとり電車に乗ってからも、真っ黒な中でひとり色を纏う彼の姿が、目に焼きついて離れない。
なぜだろう。車窓から見える景色は相変わらずモノクロの世界なのに、少しだけ心が軽かった。くたびれた雰囲気が嫌だった夜の電車も、今日はいつもより落ち込まずに乗れた気がする。
自宅近くの駅で降りて、無人の改札を通り抜ける。
「えっ?」
小さな駅舎を出たところで思わず立ち尽くしてしまったのは、そこに猫がいたからだ。
『ミャァー』
か細い声で鳴く猫は、なぜか虹色に光っている。光の出処は体全体を覆っているフサフサの白い毛ではなく、体の中心から溢れ出ているようだ。
モノクロの中で唯一色と光を持つその様子は、まるでさっき見た彼のようだった。
*****
目を開けると、身に覚えのない場所にいた。どうやってここまで来たのか、まったく思い出せない。
そもそも、ここはどこなのだろう。何か手がかりはないかと辺りを見渡しても、見えるのは黒一色だけ。これまで見たこともないほど、深く濃厚な黒だ。
どうしたものかと途方に暮れていると、遠くで何かが光っているのを見つけた。小さな点……もしかすると出口?
唯一の手がかりかもしれない光へ向かって、暗闇の中を歩く。少しずつ光が大きくなるにつれ、小さな点は形を変えた。今や点でも丸でもなく、出口でもなかった。その正体は、駅の改札で見た虹色に輝く猫だった。
虹色の猫はこちらを振り返りながらゆっくりと歩いて行く。まるで『ついておいで』と言っているように。私は猫について行くことを決め、同じ速度で歩き出した。
しばらく歩いても、周りには暗闇と猫以外何も見えない。頼りになるのは、目の前を歩く一匹の猫だけ。それなのに、猫は急に立ち止まり動かなくなった。思わず「どうしたの?」と猫に話しかけようとしたその時、猫は辺り一面に響き渡る大きな声で『ミャァー』と鳴いた。驚く私の目の前で、猫の声に呼応するかのように虹色の光はどんどん激しくなり、とうとう私を飲み込んでしまった。
真っ暗な闇の中から、真っ白な光の中へ。
私は意識を手放した。
*****
「……、……?」
誰かが私を揺すっている。
「……、ですか?」
聞き覚えのない男性の声が聞こえる。
「大丈夫ですか?」
弾かれたように飛び起きた。そこで初めて、自分が眠っていたことを知った。私の体は、ベッドの上だった。
「大丈夫です! ご心配をおかけし、まし……た」
途中で気が抜けたような答え方になってしまったのは、この部屋の景色が目に入ってきたせいだ。
淡いオレンジの天井、薄ピンクのカーテン、パステルイエローの壁と床。さらに窓の外に目をやれば、そこから見える家々も青や緑、ピンクや紫といった可愛らしいパステルカラーで彩られている。
なんてカラフルなのだろう。
私は思わず感嘆のため息をもらした。視界に飛び込むすべてが色で満ちている。
「本当に大丈夫ですか?」
心配そうな問いかけに、私を揺り起こそうとしていた声の主の存在を思い出した。きっとこの人が、気を失った私を助けてくれたに違いない。
「すみませんでした。もう大丈夫です。ありがとうございました」
頭を下げて、感謝を伝えた。
「良かった。意識はしっかりしているようですね」
柔らかな声に頭を上げて、初めて声の主を見た。それは、私より年下に見える細身の男性だった。柔らかい栗色の髪の毛と、マシュマロのような微笑みがとても人懐っこい。
「それでは僕は失礼します。きっとまたすぐに会うことになると思いますが。お大事に」
意味深な言葉を残して、男性は部屋を出て行った。
家にひとり取り残された私は、外へ出てみることにした。このままじっと待っていても、家に帰れるとは思えない。
カラフルな玄関を出ると、たくさんの坂道が目に飛び込んできた。どれも赤茶色で、車が通る様子など想像できないくらいの、小さく細い坂道だ。そんな狭い道の両脇にはパステルカラーの小さな建物が立ち並び、歴史を感じさせる色合いが心地よかった。
私は坂道を登り始める。愛らしい建物を見ながら歩くと、なぜか心が和んだ。まるで、街が私の頭を優しく撫でてくれているようだ。
色のある世界がこんなに愛おしいなんて。一軒一軒を慈しむように眺めていくと、目の前に見覚えのある建物が姿を現し、私は足を止めた。
明奈とピアノを聴いた、あの文化会館だ。
訳が分からずしばらくその場に立ち尽くしていると、しっかりと閉じられた古めかしい茶色のドアの向こうから人の気配を感じた。それも一人や二人ではない。
まるで操られているかのように、私の手はドアに伸びていた。見た目ほど重くないドアを開け、エントランスをくぐり抜けると、建物の中はランプの灯りでぼんやりと照らされていた。ランプが醸し出す中世の雰囲気に、私の心が安らぐ。電気の光よりも、オレンジ色をしたランプの灯りの方が、この建物に似合っている気がした。
ロビーには誰もいなかった。気配を辿って、ホールへと続くドアの前に立った。間違いなく、この奥に人がいる。
静かに、そしてゆっくりとドアを開けると、予想どおりたくさんの人がいた。みんなが期待に満ちた表情で、ステージがあるはずの方向を向いて座っている。けれどランプの灯りだけではホール全体は見通せず、何を待っているのか分からなかった。私はステージを目指してさらに歩く。
次第にステージの様子が分かるようになり、ピアノと一人の人物が見えた。さっき、私を助けてくれた男性だ。
男性は深々とお辞儀をすると、ピアノの椅子に腰掛けた。期待に静まり返るホール。男性が息を吸った直後、ピアノの音が響き渡った。
「あれは……!」
聞き覚えのある曲、音色、そして何よりも彼が纏い始めた虹色の光に心臓が飛び跳ねた。
間違いない。今ステージでピアノを弾いている人物は、モノクロの世界で明奈と見た彼だ。
彼は一曲弾き終えると、ステージから降りた。そして驚きのあまり動くことができないでいる私のもとへやって来くると、そっと右手を差し出した。
「この世界へようこそ」
この世界……。
どう返事をすればいいのか分からず無言の私に、彼は微笑みかけた。
明るすぎない茶色の髪は柔らかく揺れて、少し色素の薄い細められた茶色の瞳はまっすぐと私を捉えている。ピアノの音色と同じように優しく朗らかな彼。
差し出された手を握ると、彼は言った。
「この世界は僕たちが今まで生きてきた世界とは別物です。でも決して夢や幻ではありません。ここはもうひとつの現実です」
*****
私が辿り着いたこの世界は、カラフルな住人がカラフルに過ごしている美しい世界だった。彼と私だけがモノクロの世界から迷い込んだ異物であることは、来たばかりの私でもはっきりと分かった。それでもカラフルな住人たちは、誰も私たちを差別したりしない。いつもお茶会に誘ってくれたり、変わった色の美味しいお菓子を分けてくれたり、居心地よく過ごすことができるように気を配ってくれる。
そんな優しいこの世界の特徴を挙げるならば、とにかく『自由』ということだ。お腹が空いた時には、レストランに行けば好きな時間に好きなものを食べることができたし、本を読みたい時はいつでも図書館で好きな本を借りることができた。するべきことは決まっていない。すべては自分の気分次第。
優しいオレンジの太陽が真上に来た頃、お腹が空いた私はお気に入りのレストランへ行くことにした。いつも黄色のエプロンをつけたセネカという女性のレストランだ。セネカはいつも上機嫌で迎え入れてくれる。
「いらっしゃい。今日は何にする?」
私はセネカの作るオムライスが大好物だ。注文を伝えると、セネカは「少し待っていてね」と、とびきりの笑顔で右手を軽く上げ、キッチンへと向かった。
キッチンからは、コンコンコンと卵を混ぜる泡立て器の音が聞こえ、その心地よいリズムに合わせてセネカの鼻歌も聞こえてくる。まるで木のおもちゃのような可愛らしい造りをしたキッチンの中で、セネカはとても幸せそうだった。
頼んだ料理が完成すると、セネカはニコニコとお皿を運んできた。料理することが好きでたまらないことが伝わってくる彼女の料理は、いつも愛情いっぱいだ。それを食べた私たちも幸せな気分になった。
セネカだけではなく、この世界の住人はみんな、好きなことを心から楽しんでいた。仕事だから、という理由で働いているのではない。彼らはただ自分が楽しめることをしているだけだ。
それこそが、とびきり自由なこの世界にあるたったひとつのルール、『楽しむ』こと。
簡単なルールだと思うだろうか? けれど私にとって、『自由』や『楽しむ』はとても難しいことだった。それを見つけることが、こんなに大変なことだということにさえ気づかずに生きてきたことを思い知らされた。
何をすればよいのか分からない私は、同じ世界から来た彼を観察して過ごすことに決めた。彼は私と同じモノクロの世界から来たはずなのに、カラフルな世界に負けないくらいに輝く色彩を持っている。この世界だけでなくモノクロの世界でも、彼がピアノを弾くと虹色の光が彼を包む。彼はなぜ、あれほどまでに綺麗な光を持っているのだろう。
色鮮やかな彼を、私は『彩りさん』と呼ぶことにした。
*****
彩りさんを追いかけ回すようになって数日で、私には分かったことがある。彩りさんはピアノを弾くことに夢中なのではなく、住民を楽しませることに一生懸命なのだ。だから彩りさんはピアノ以外にも、驚くような音楽でみんなを笑顔にしてくれる。
ある日の彩りさんは、見たこともないような大きな葉っぱをどこからか拾ってきて、その葉っぱでとても大きな笛を作った。あまりに大きすぎる笛を上手く吹くことはできず、そのせいなのか不思議な音がした。その音を聞くと、みんなが笑顔になった。とても愉快な音に聞こえた。彩りさんを囲んでいた住人たちは、代わる代わる笛を手に取る。そんな住人たちを微笑ましそうに見守る彩りさんは、常に周りに気を配りながら話しかけていた。楽しめていない人はいないか、どうしたらもっと楽しくなるか。
「あっ!」
住人の驚く声が聞こえ、私が人だかりを覗き込むと、そこには項垂れながら破れた葉っぱの笛を持つ住人がいた。
けれど彩りさんは怒らない。
壊れたものが笛じゃなくても、彩りさんは怒ったりしなかったはずだ。いつも、何をされても怒らない彩りさんに、私は聞いてみたいことがあった。だから住人たちが帰った後に、後片付けをする彩りさんを手伝うことにしたのだ。
破れた葉っぱの笛を大事そうに畳んで箱に入れる彩りさんは、とても穏やかな表情をしていた。
「どうしていつも怒らずにいられるんですか?」
彩りさんのそばに立ち、彼の穏やかな空気を壊さないようにそっと尋ねた。
彩りさんは当たり前のように、けれど少し照れた様子で答えた。
「怒ったら負けだって自分に言い聞かせているんです。一度言ってしまった言葉は決して消えません。ずっと誰かの心に残るものだから、怒りのままに言葉を発してしまうことが嫌なんでしょうね」
感心する私に、彩りさんの言葉は続く。
「それに、どんな相手にも感謝しようって決めたんです」
彩りさんは、もし相手から罵詈雑言を投げつけられても、感謝できるに違いない。そんなふうに納得してしまうほど、彩りさんの瞳は澄んでいた。彼の心の中をもっと見たくなった私は、少しだけ意地悪な質問をすることにした。
「もしライバルやあなたのことを良く思っていない人が、あなたより成功したら、その時はどうしますか?」
彩りさんは迷いなく答えた。
「その人の努力をまず尊敬します。そして自分ももっと頑張ろうと、思うんじゃないかな」
きっと、と私は思う。あの笛の音は、彩りさんだから愉快な音に聞こえたのだ。彼の心の温度こそが、周りの人を笑顔にする魔法なのだ。
誠実な彩りさん。誰よりも楽しそうに笑う彩りさん。きっと彼はこの世界に来る前から、楽しいことを誠実にやり続けてきたに違いない。だからこそ、彼の纏う空気はこんなにも七色に輝いているのだ。
葉っぱの笛、流木の木琴、木の実と蔦のバイオリン……。いろいろな音で楽しませてくれる彩りさんだけれど、住人たちや私の一番のお気に入りは、やはり彼のピアノだった。みんなは彩りさんのピアノが聴きたくて、ほとんど毎日彼の家を訪ねる。
今日も彩りさんのピアノの音に包まれながら、住人たちはお茶会をしていた。彩りさんの家で開かれるお茶会は、素敵なピアノ曲と陽気な住人たちのおしゃべりで、まるで披露宴会場のように幸せな空気で満ちている。
いつも緑色の帽子を被っている住人が、彩りさんに紅茶を手渡しながら言った。
「キミのピアノは、この世界にぴったりだよ」
彩りさんは嬉しそうに紅茶を受け取り、ゆっくりとカップを傾けた。その表情から、彩りさんもこの世界を気に入っていることが伝わってくる。
確かに彩りさんの奏でる音は、この世界の始まりの時からそこにあるみたいに、すとんと馴染む。ピアノから飛び出す音のひとつひとつが、青葉に落ちる一雫の水滴のように瑞々しく、曲に合わせて何色にも変化する。それは彩りさん自身が纏う七色の光と同じように輝いていた。
私は彩りさんの纏う光と彼の奏でるピアノの音に触れるたび、春の空気のような気持ちになるのだ。それはとても心地よく、あたたかい。体中に優しい血が行き渡った時、私は彩りさんの奏でる音色でいっぱいになった。
もう誤魔化せない。私は彩りさんに恋をしている。
私は幸せだった。優しい彩りさんの隣にいられること。明るい住人たちと暮らせていること。まるで色とりどりの音符が空気中に飛び散っているような楽しい日々だ。
けれどお茶会が終わり二人きりになると、彩りさんは私に言った。
「あなたはこの世界で何をして過ごしているんですか?」
いつも優しい彼から告げられた、心臓を抉るような一言。決して私を責めたり批判したりしている訳ではない。それでも、破壊力は抜群だった。
「毎日、楽しんでいます」
上手く笑えている自信はない。声が震えていたかもしれない。
「でもあなたの『楽しい』は、自分で見つけたものではないですよね」
私自身、本当は気づいていた。私が楽しんでいるのは、いつも与えられる側でのみだ。私が誰かを楽しませることはなかったし、それどころか、私自身が楽しみを得るために何かを始めたことさえなかった。彼の言葉はあまりに真実で、心が痛かった。そんな心の痛みは、私から素直さを奪っていった。
「同じことじゃないんですか? 私だってみんなと同じように楽しんでいます。そこまで言われる筋合いはないです」
言った後に後悔したけれど、謝ることはできなかった。そんな私に、彼は微笑んだままだ。
「僕はこの世界で、本当に『楽しむ』ことがどういうことなのかを学びました。それは向こうの世界で考えていたよりも、もっとシンプルで、それでいてずっと難しいものでした。だからこそ、とても大切なことだと思うのです」
口調はいつもどおり優しかったのに、私にはとても怖く感じた。それは自分に後ろめたさがあったから。私が間違っていると知っているから。
彩りさんは少し寂しそうに言葉を続けた。
「ごめんなさい。僕の考えをあなたに押し付けるつもりはなかったんです。ただ、あなたにも何かを見つけて欲しかった。すごくもったいないことをしていると思ったから」
どう返事をするべきか分からず、沈黙が二人の間に居座る。いたたまれなくなった私は、言い訳するように言葉を口にした。
「私なんて、どうせ何をやっても上手くいかない。今までだって、欲しいものを手に入れた経験なんてないんです。それができるのは、本当に一握りの人間だけですよね。私はその一握りにはなれないから」
常に前を見ている彩りさんに向かって、私はどれだけ恥ずかしいことを言っているのだろう。この世界に来てから忘れていた自分への情けなさが、体の中いっぱいに広がった。
「僕が偉そうなことを言っても説得力ないだろうけど、僕は自分の夢を諦めません。先のことなんて分からないけど、それでも前に進んでいきたいんです」
彩りさんの言葉は私に突き刺さった。抜けない棘のように。そしてその会話以来、彩りさんとはあまり会話をしなくなった。挨拶はするけれど、それはすごく遠い親戚にする挨拶のよう。
彩りさんは私をダメな人間だと思っているだろう。何もできず、ただ人の影に隠れて生きている不甲斐ない人間だと。そう思うと、彩りさんの前に姿を現すのが怖かった。彼を好きな分、彼の誠実さや正直さが苦しかった。
*****
深い紺色の空に淡い黄色の満月が輝く夜、私はこの世界に来て初めて夜中に目が覚めた。月が明るすぎるせいなのか。私は少し散歩することにした。
月明かりに照らされる街並みは、昼間とは違って見える。けれど、明るく柔らかいパステルカラーの建物たちは、月夜にもよく似合っていた。
ふと彩りさんが寝ているはずの部屋に目をやると、彼の部屋の窓にはランプの灯りがゆらゆらと揺れていた。こんな時間では、とっくに灯りは消えているものだと思っていたのに。私はそっと窓に近づき、中を覗いた。
彩りさんは机に向かって座っていた。真剣な表情で紙に何かを書き込んでいる。何をしているのだろう。直接彩りさんに尋ねたくなったけれど、彼と距離を置いている事実が足を重くする。それでも、彩りさんが真夜中に、あんなに真剣な表情で、一体何に取り組んでいるのかを私は知りたかった。重い足をどうにか動かして、そっとドアをノックした。
こんな時間に誰かが訪ねてくるなんて、きっと彩りさんは予想もしていなかったはずだ。彼にしては珍しく、少し時間をおいてからドアが開いた。彩りさんは迷惑そうな顔ひとつせず、「こんばんは」と挨拶をくれた。
「こんな時間に何をしているのですか?」
言いながら部屋の中を見ると、机にはたくさんの紙があった。どれも五線譜だ。
「どうすればもっとみんなに喜んでもらえるピアノが弾けるのか、少し勉強していたんです」
彩りさんは、はにかんだような笑顔を見せた。何事もなかったかのように接してくれる彼に安心した。
同時に、恥ずかしさが湧き上がった。彩りさんがあの程度の事で誰かを蔑んだりしない人間だと、私が一番知っていたはずなのに。自分のことしか考えられない自分は、なんて子どもなのだろう。
思わず視線を落とすと、机の上だけでなく、部屋の隅に積み重ねられたたくさんの紙が、私の視界に飛び込んできた。今までこの家を訪ねても、絶対に見せなかった光景。私はその量の多さに驚いた。今夜一晩で集まる量には思えなかった。
「もしかして、いつもこんな時間まで?」
私はほとんど無意識で尋ねていた。
「まあ、そんなところです」
さらに照れたように、彩りさんは言った。
毎朝起きると真っ先に、私は窓の外を眺めることを日課にしていた。そこには彩りさんが笑顔で住人と話している姿があったから。いつ見ても、彼に寝不足の様子は一切感じられなかった。けれど、私が知らないところで、私が寝ている間に、彩りさんは人知れず楽譜に向き合い続けていたのだ。それは自分のためではなく、彼のピアノを聴く人のために使った時間。
いつも人の心と向き合うことに妥協しない、誠実な彼らしかった。
そして私は気づいてしまった。彼がその笑顔の下で、私には想像もつかないほどの努力をしてきたことに。決して他人には見せない、彼の強い思いに。
私は泣きそうだった。彼の顔を見ることができず、「頑張ってください」とだけ告げて、部屋を後にした。
私は優しくて楽しいピアノを弾く彩りさんを好きになった。それは穏やかな陽だまりのような感情だった。
けれど、本当の彩りさんはそれだけではなかった。
彼はいつでも全力で生きている。いつだって前を向いて、決して負けない。
その強さに触れた時、私は穏やかな『好き』ではいられなかった。嵐のような思いが体中を駆け巡る。
彩りさんの声、顔、その柔らかく茶色い髪、すべてが愛おしくて仕方がなかった。
頭の中で、彼と過ごした日々が走馬灯のように甦っていく。いつも笑っている彩りさん。いつも優しい彩りさん。いつも謙虚な彩りさん。そして決して見せることのなかった努力の日々。どれだけの夜を、一人で乗り越えてきたのだろう。
私は薄々気づいていたことを認める。楽しむことは、決して楽をすることではない。好きなことだけをしていればいい訳でもない。
だからこの世界は『自由』なのだ。こんなにも自由が許された場所で、好きなことだけをして過ごす人間の行く末には、怠惰な生活が待っているだろう。けれど『楽しむ』ことは、自分を好きでいられるよう精一杯生きること。この世界は、その努力を惜しまない人のためにある。
翌朝、寝不足の重い瞼で部屋を出て、彩りさんのもとへ向かった。
「おはようございます」
案の定、彼は起きていた。腫れぼったい私の顔を見て、少し不思議そうに首を傾げる彩りさんを見ると、決心が揺るぎそうだった。でもここで負けるわけにはいかなかった。
「私、この世界を出ようと思います」
彩りさんは少し驚いた表情を浮かべたけれど、すぐに笑顔になった。寂しさと嬉しさが入り混じったような笑顔だと感じたのは、私の勝手な思い込みだろうか。交差する視線を、逸らすことなくまっすぐ受け止めた。これで最後になるかもしれないから。
「今までありがとうございました。そして、いつも頼ってばかりでごめんなさい」
謝る私に、彩りさんはゆっくりと首を横に振った。それから、ふっと小さく息を吐いた。
「あなたに本当の事をお話しします。僕は以前にもこの世界に来たことがあるんです。前を向けず腐っていた時でした。だけど、ここに来てから僕は変わりました。今回もう一度やって来られたのは、あなたにそれを伝えるためなのかもしれません。だからあなたも、きっと大丈夫」
大好きな、優しい笑顔。目に涙が滲むけれど、こぼれ落ちないように必死で耐える。
「さようなら」
もう振り返らない、そう決めていた。
どこをどう歩いたのか分からない。でも元の世界へ帰れる気がしていた。不思議と住人たちには誰にも会わなかった。お別れを言っていないことを少し後悔したけれど、彼らなら分かってくれるような気がした。
無我夢中だったのか意識がない状態だったのか、とにかく私は歩き続けた。周囲が見慣れない景色に変わった時、道の先に虹色に光る猫がいた。猫は私をじっと見ている。私は猫に向かって頷いた。私の決意が伝わるように。
『ミャア』
猫が一声鳴くと、その体から溢れ出ていた虹色の光がどんどん広がり、私の視界全体を埋め尽くした。そこで私の意識は途切れた。
*****
目を開けると懐かしい天井が目に入り、現実世界のベッドに横たわっていることを知る。私は泣いていた。ぼんやりとした頭で考えるのは、あのカラフルな世界のこと。長い夢でも見ていたのだろうか。
けれど、夢でも構わなかった。目覚めた薄暗い部屋に、色を感じられたから。カーペットには緑と黄色の模様、カーテンは紺色、テーブルは淡い茶色。きっと今までだって、私の周りには色があった。私の気持ちひとつで、世界は違って見えるのだ。同じ世界を生きるなら、彩りさんのように目の前のことに全力でいたい。
ふと右手に違和感を覚えた。握っていた掌を広げると、そこには虹色に光る猫のネックレスがあった。
夢なんかじゃない。あの世界での日々は、私の中で確実に生きている、もうひとつの現実だ。
私は鞄から手帳を取り出した。
・目の前のことに全力を尽くす
・ひとつひとつの物事を大切にする
・すべてのことに感謝する
・常に謙虚でいる
・不平不満を言わない
目立つように、忘れないように。手帳の最初のページに、あの世界で彩りさんから学んだ大切なことを書き込んだ。
会えなくても、そばにいることはできなくても、同じ時間に彼は生きている。それだけで強くなれた。
*****
ピピッ、ピピッ。
いつもの電子音が私を起こす。カラフルな世界から戻って三年が経つけれど、モノクロだったこの世界で色を取り戻した日からずっと、目覚まし時計のアラーム音は爽やかだ。
寝起きで鏡の前に立つ私は、胸元に揺れる虹色の猫を握りしめた。半分癖のようで半分ゲン担ぎのようなこの仕草は、私の日課になっている。
「今日もよろしく」
私は猫に話しかける。
職場と家の往復が中心の日々でも、楽しいことは見つけられる。それは彩りさんから学んだことだ。三年間で何度も経験した『全力で楽しむ』を、この猫はずっと一緒に見ていてくれた。だから車窓の外を流れる景色は色鮮やかだし、駅の改札を抜けたところで虹色の猫に出会うことはもうないだろう。
そして私は仕事の傍ら、カラーコーディネーターの勉強を始めた。あの世界で見た街並みの色が忘れられなかったから。やっと気づいた、この彩りに溢れた世界を大切にしたいから。
やる気がなかった仕事も、自分の好きなことのひとつだと思えるようになった。私が選んだ道、私が選んだ仕事。自分で選択してきたことの結果が、今の現実だ。そう思うと、どんな仕事でもすすんでやることができた。たとえそれが、トイレットペーパーの補充や、シュレッダーのごみ捨てだったとしても。
いつもより早めの朝食を食べていると、明奈から電話がかかってきた。
『これからテレビで若手ピアニスト特集やるって』
私のクラシック、特にピアノ好きは明奈の知るところとなった。けれど彩りさんに恋していることと、あの世界のことは私だけの秘密だ。
「もちろん、チェックしてるよ。教えてくれてありがとう」
それを見るために早起きをしたことは言わないでおく。
『さすがだね』
茶化すような口調の明奈はすぐにでも電話を切りそうな勢いだったけれど、思い出したように言葉を続けた。
『あ、そうだ。最近のあんた、すごく楽しそう。充実した毎日っていう感じ。私も負けられないって思うよ。じゃあね』
照れくささを隠すために、わざとぶっきらぼうな言い方になったことは明白だった。そんな明奈が可愛らしくて、私は笑顔になる。きっと、こんなふうに感じる今を、幸せと呼ぶのだろう。
電話を切った後で、マグカップに熱々のコーヒーを満たし、テレビの前に座った。番組のオープニングから、ひとりのピアニストが画面に映し出される。
「彩りさん!」
あの世界で出会った時よりも、少し大人びている。けれど優しい笑顔は、何ひとつ変わっていなかった。
彩りさんはピアノを弾き始める。初めて聴いた時と同じ、あの曲だ。画面越しでも伝わってくる、カラフルな彼の音。色を取り戻したこの世界でも、彩りさんの七色の空気は特別だった。彼の纏う虹色の光は、私の心をどうしようもなく揺さぶる。全身に鳥肌が立った。淹れたてのコーヒーよりも、壊れてしまいそうなほどドキドキと煩い心臓が熱い。
齧り付くようにテレビを見ていると、演奏を終えた彩りさんに番組の司会者が質問を始めた。
「昨年CDデビューを果たされましたが、ピアノと向き合うにあたって大切にされていることはありますか?」
彩りさんは微笑んだ。
「常に全力で楽しむこと、です」
その言葉が、私の涙腺を緩ませた。懐かしい、彼の全力で楽しむ姿。
あの世界で私を救ってくれた彩りさんは、間違いなく画面の向こうにいる彼だ。常に全力、常に楽しむ。彼は今を精一杯生きている。目の前のことに全力を尽くしている。彼のそんな姿が、私を変えてくれたのだ。
その時、彼の胸元に光るものを見つけた。ラペルピンだ。司会者もその存在に気づき、話題を振る。
「素敵なラペルピンですね」
「僕の大切な宝物、未来への約束です」
彩りさんはとびきりの笑顔を見せ、とうとう私は泣いた。そのラペルピンの形は、私と同じ虹色の猫だったから。
この世界でも、いつか必ずあなたに会いに行く。あなたの七色に輝く空気に触れたいから。
私はその日まで全力で走り続け、そしてあなたが纏う光に負けないくらいの輝く空気を手に入れる。
だからどうか、あなたも全力で人生を楽しみ続けて。
画面の向こう側とこちら側、胸元で揺れる二匹の虹色の猫が、きらりと光ったような気がした。