三章・2
「あれはなんですか?」
「あれは橋だ」
「あれが、橋! 大きい! あ、あれはなんですか?」
「あれは電車だ」
「電車! 速い!」
「あれは遅い方だぞ? ローカル線だからな。速いのになると時速三百キロのものがある。新幹線というやつだ」
「それだけ速いと目では見えない気がします。しかし、そんなに急いで、いったいどこに行くのでしょうか? アメリカ?」
「電車でアメリカには行けない」
「それは残念です」
そう言って美弥子はまた窓の外にきらきらとした目を向けた。
美奈子は道中窓から見えるありとあらゆるものに興味を持ち、それらについて俺に質問してきた。
そして俺が答えてやると、美弥子は感心したり驚いたりするのだ。それがたとえ俺にとって、どんなに当たり前のことでも。
外の世界を教えてほしいって、こういうことだったのか?
「美弥子は、電車や橋を本当に、全然知らなかったのか?」
「あ、いえ。知識としては知っているのです。けど、やっぱり知っているだけと、実際に見るのとでは、違いますから」
「そうかよ」
「やっぱり生で見ると感動しますね!」
そうか、美弥子にとっては何もかもが初めて本物として見るものなんだ。たとえそれが普通の橋や電車でも、美弥子には新鮮で、感動できるものになるんだ。
しばらく話していると、車はトンネルに差し掛かった。
「わわわっ! 突然暗くなりました! つ、つっきー、いったい何が!?」
「トンネルに入っただけだ。あとつっきー言うな」
「トンネル?」
「人間様が山を迂回するのを横着して、山にぶっとい穴をあけて近道できるようにしたものだ」
「さっきの電車もそうですけれど、人間という生き物はどうしてそこまでせっかちなのでしょうか?」
「せっかち、とはちょっと違うかもな」
俺がそう言うと美弥子は小首をかしげた。
「別に本当に時間に追われているわけではないはずなんだ。ただ、時間があったらあったでいいなってくらいだと思う。要するに、みんな余暇を求めているんだ」
「余暇?」
「そう、余暇。余った暇。余った時間。それを人間は求めている」
常に時間に追われるなんて、息が詰まるから。暇がいる。だけど結局人間はどれだけ早く移動できるようになっても、時間に追われているんだから、皮肉なもんだけど。
「時間が余るなんて、うらやましい話ですね」
「病院じゃ忙しかったのか?」
「忙しいというか、いつも見られている感じで、暇でしたけれど、それはきっと余暇ではありませんでしたね」
「入院というものを俺はしたことがないから、よくわからないな」
「しないほうがいいですよ」
トンネルを抜けると同時に美弥子はそう言った。おかげで美弥子がどんな表情で言ったのかわからなかった。
「そうかよ。……ところで入院中は何をしていたんだ? まさかずっと寝ているわけないだろ」
「いろんなことをして過ごしました。テレビを見たり、看護婦さんとお話したり。でも一番していたのは、本を読むことです」
「本ね。俺は細かい字を読むのが苦手なんだよな。どんなのを読んでいたんだ?」
「主に小説を読んでいました」
「好きなのか?」
俺は横目で美弥子を見ながら聞いた。
「はい。とても」
美弥子は少し微笑みながら言った。
「そうかよ」
「つっきーも苦手だと言わずに読んでみればいいのに。世界が広がりますよ?」
「俺は広い世界で自分の小ささに気づくよりも、狭い世界で威張っていたい」
「はあ、なるほど。そういう考え方もあるのですね」
てっきり馬鹿にされると思っていたのだが、感心されると調子が狂う。
「俺のなりたいものは、井の中の蛙だ」
「がんばってください!」
応援されてしまった。
「ところで一番好きな本ってなんなんだ?」
「本と言いますか、お話なんですけれど」
「なんだ?」
「わたし、アンパンマンが一番好きです」
「え、アンパンマン?」
予想外の回答に、俺は思わず聞き返してしまった。
「はい、アンパンマンです。知りませんか?」
「いや知っているけど」
でもそれって幼児が見るものじゃないのか? あ、そう言えば手帳もそうだったな。だが、少なくとも十五歳の女の子が一番好きなものって聞かれて答えるようなものではない気がする。
しかし、好きなものっていうのは人それぞれだ。とやかく言う権利は誰にもない。好きなものを好きだっていう権利は、誰でも持っているものだけどな。
「どういうところが好きなんだ?」
「それはもう、いろいろあって語り尽くせないのですけれど、一番好きなのは、そうですね。歌かもしれません」
「歌?」
「聞いたことありません? 何のために生まれて、何をして生きるのか。というものです」
美弥子が口ずさんだそれはもちろん知っている。
しかし俺はそれよりも、美弥子の歌声の方が気になった。
一フレーズ口ずさんだだけだが、それは心を洗うような歌声だった。
美弥子は、とても歌が上手いのかもしれない。
「あの歌を聞いていると、優しい人になりたいなあって思えるので、わたしは好きです」
「そうかよ。ところで美弥子は、何かなりたいものはあるのか? 将来とか」
「将来、ですか……?」
「十六なんて、将来を夢見てもぎりぎり許される年頃だろ」
なんなら歌手とかでもいいんじゃないかと、俺は思ってしまう。今まできっと病院の中で我慢ばかりの人生だったのだろうから、少しくらいわがままになったっていいんじゃないかと思う。
「そうですね……。よくわかりません。現実味がないといいますか」
まあ確かに、俺が美弥子くらいの歳の時もそうだった。大人になった自分なんて想像できなかった。……いや、したくなかったのかもしれない。将来にろくなことなんてありはしないのだと知ることが嫌で。わかることが怖くて。
「俺は夢を持っておいた方がいいなんて偉そうなことは言わない。言えない。その代わりと言っちゃなんだが、今を楽しんでおけ」
せっかく今という時間を生きているのに、将来のことで気分が沈むのはもったいないことだ。
「今、ですか?」
「どうせ将来のことは将来の自分が何とかしてくれるからな」
「それって、後回しっていうやつなんじゃないですか?」
的確な指摘だが、俺はちゃんと反論できる。
「後に回せるくらい後があるのなら回した方がいいんだよ」
俺は自慢ではないが、小中高の長期休暇の宿題をすべて休みの最終日に終わらせているし、卒論は提出期限日の二二時に出した男だ。
そのうち人は後に回せなくなるような状況に嫌でも追い込まれる。たとえどれだけ先にがんばっていたとしても、後々どうせ苦労するのだ。
だったら、今くらい楽をしてもいい。
「……そう、ですか?」
ちらりと見れば美弥子は納得のいかない顔をしていた。自分で言っておきながら、納得できないのもわかる。
「まあ、これはあくまで個人の意見であるから、真に受けない方がいい。……そんなことより、もうすぐ着くぞ」
「え! ゆ、遊園地!?」
「ああ、正面に見えてきた」
その遊園地のランドマークとも呼べる大きな観覧車が見えてきた。
「わー!」
美弥子は期待でいっぱいの歓声を上げていた。