二章・1
「こ、こ、これが車!」
「見たことねえのかよ」
「テレビとか、あと窓の外を走っているのは見たことがあります。でも、こんな近くで見たの、初めてです」
「そうかよ」
少女に出会った翌日の朝。
俺は自分の車で少女が入院していた病院に来ていた。
なぜ俺がこんなことをしているのか。
その理由は、昨晩の病院の屋上で少女が言った一言から始まる。
○
「わたしを外の世界に連れていって、外の世界のいろんなことを教える。……これが、あなたの、これからの生きる意味です」
「外の、世界?」
「はい。この病院の外の世界を。……あの」
少女は俺の足元を見て言った。いや、弱みに付け込まれたわけではない。俺の立っている場所を見て、少女は続けた。
「こっちに、来たらどうでしょうか?」
「ん?」
少女は心配そうな表情で言った。
「その、いつまでもフェンスの外にいたら危ないですよ。本当に落ちちゃったら大変です。とりあえずあなたは今、生きる意味があるのですから」
その生きる意味は、ずいぶんと勝手で押しつけがましいものではあるが。
しかし断る理由も思いつかず、俺はフェンスを乗り越えて、少女の立つ方に戻った。もう飛び降りるだけだったはずなので、こっちに立っていることが、少し不思議に思えた。
「普通に会話しようにも、あんなところにいられたら集中できませんよ」
少女はそう言って、ほっと胸を撫でおろした。
「ようやくちゃんとお話ができそうです」
少女はニコッと無邪気に微笑んで言った。俺には眩しい笑顔だ。
「……で、そのお話とやらは、いったい何なんだ?」
「ああ、そうでした。実はわたし、小さい頃からずっと病気でこの病院に入院しているのです。外になんてほとんど出たことありませんし、学校にだって一度も行ったことがありません」
少女は入院着の上からでもわかるくらい華奢だった。外に出て元気に走り回っているところは、想像できない。
「そいつはまた随分と気合の入った入院患者だ」
「そうです。わたしは筋金入りの入院患者です」
そう言って少女はえへんと胸を張った。皮肉のつもりで言ったのだが、全く気がついていないようだ。
「そんな筋金入りの入院患者のわたしも、ついに退院の時を迎えるのです! わー!」
少女は心から嬉しそうにそう言い、自分の胸の前で拍手をした。
「でもわたしは外の世界のことなんて何も知りません。ずっと、この病院の敷地内だけがわたしにとっての世界だったのですから」
ここはたしかに大きい病院ではあるが、それでも一時間もあれば隅から隅まで歩き回れる。世界というのはあまりにも狭い。
そんな狭い世界に生きる少女は俺をびっと指差した。
「そこに、都合のいい人材が現れたではないですか! 生きる意味もなく、あとは死ぬだけ。つまりこの先死ぬつもりだったから予定なんてあるはずもないので、死ななかったらとっても暇な人材が、わたしの前にひょっこりと!」
こいつは平気な声でなんてこと言いやがる。目の前で飛び降りてやろうか、とも思ったが、なんとなくやめておいた。
「だからそんな暇なあなたに、わたしは外の世界を教えてほしいのです。いろんなところに連れていってほしいのです。……だめ、でしょうか?」
少女は体を斜めにして、そして上目遣いで聞いてきた。無意識なのかわざとなのか、それは一般的な男ならかわいいと思えるようなしぐさだった。
…………正直面倒だ。さっきまで死のうとしていた人間が、どうしてそんなことをしなくてはいけないのか。まったくやる気が起きない。
……まあ、しかし、だからといって、ほかに何かすることがあるのかと言われれば、何もないと言わざるを得ない。困ったことに。
「……わかった。いいだろう。お前に、外の世界を教えてやろう」
「本当ですか!?」
少女は嬉しそうに顔を輝かせた。
「ああ。どうせ暇だしな。それに……生きる意味がとりあえずあるのに、死ぬのはもったいない気がする」
別に俺は何が何でも死にたいわけではない。ただ、生きる意味を失って、他のものも失って、やることもなくなって、どうしようもなかっただけなのだから。
何かすることがあるのなら、俺は、死ぬのは違うのではないかと思った。必要とされているのなら、俺はまだ生きようかと思う。
それにしても俺は、さっきまで死のうとしていたんだな。この少女がいなければ、俺は今頃地面の染みになっていた。思うに自殺と言うのは案外、思い詰めてと言うよりも、突発的にというのが多いのかもしれない。
「わーい! 嬉しいです! 楽しみです!」
少女はそう言ってその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「それで、俺はどうすればいい?」
「わーいわーい! やったー!」
俺の問いかけが聞こえていないのか、俺を無視して少女は嬉しそうに飛び跳ね続けた。
「おい、えっと……お前」
「やった……ん? わたしですか?」
少女は飛び跳ねるのをやめ、聞いてきた。
「この場で俺が呼ぶのはお前しかいない」
「お前、なんて呼ばれたってわかりませんよ」
「じゃあ、名前教えろ」
「わたしは、三園。三園 美弥子」
「じゃあ、三園。俺は何をすればいい?」
「そうですね。ではまず、あなたの名前を教えてください」
「そこからかよ」
「そこからです」
「……俺は、伊嶋 一輝」
「ふむふむ。……ではつっきーとお呼びします」
俺の名前を聞いた三園は、少し考えて俺に妙な愛称を勝手につけてきた。
「お呼びするな」
二十代半ばの人間がそんなふうに呼ばれたら恥ずかしくて、そっちで死にたくなる。
「わたしのことはみゃーちゃんとか、みーちゃんとか、なんでしたら美弥子、と呼び捨てでも……」
「三園、俺はこれから何をすればいい?」
「苗字!?」
三園は口元に手を当て驚いていた。二十代半ばの人間が、年下の少女をそんなふうに呼んでいたら通報だろう。
「もう……つっきーは照れ屋さんですね」
「とりあえず明日退院なんだろ? なら明後日くらいから始めようか」
「ス、スルー!? しかも話が勝手に!」
いちいち反応が大げさな奴だ。感受性が豊かなのだろうか。
「いやいや明後日からだなんて二十四時間がもったいないですよ。明日の朝に、この病院に来てください」
「急だな。俺は別にいいが、親御さんは何も言わないのか?」
急に知らない男に娘が連れていかれるなんて、許すのだろうか?
「大丈夫ですよきっと。……きっと、何も言わずに送り出してくれます」
「まあ、その辺は俺の知ったことじゃあない。何とかしておけ」
「はい、任せてください!」
むんと、気合を入れて三園は手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ明日の朝、また来るから」
「はい! 待っています!」
俺は三園の横を通り、下の階に続く階段に向かって歩いた。
「あの!」
「あん?」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
ぶんぶんと手を振る三園に、俺は片手を上げた。