六章・1
「違いますよ。ここの答えは『大黒屋光太夫』ですよ」
「誰よそれー。なんだか日焼けサロンに通っていそうな名前だね」
「江戸時代の方ですよ? その時代に日焼けサロンはたぶんないと思います」
「それくらい知っているけど……」
「ほら、手が止まっていますよ」
翌日のこと。
朝早くから一咲子は、美弥子につきっきりで勉強を教えてもらっていた。一咲子はもう少し寝ているつもりだったようだが、美弥子に起こされてしまったらしい。美弥子はもしかしたら、人に何かを教えるのが好きなのかもしれない。
「お兄ちゃん……」
ダイニングで一咲子が頭を抱えながら言った。
「何だ?」
「美弥子ちゃんが厳しい」
「そうかよ。ちょうどいいんじゃねえの? 一咲子は自分に少し甘いところがあるからな」
俺は少し離れたところにあるソファで新聞を読みながら言った。テレビを見るのは音が邪魔になりそうなので、新聞を読むくらいしかやることがない。
「一咲子さん、がんばりましょう」
「ふぁーい……」
一咲子はやる気のない返事をして再びノートに向かった。がんばれ、受験生。
「それにしても学校の勉強というものはちょっと変ですね。社会科や理科は暗記すれば理解しなくてもいいようにできていますし、国語は解釈を押し付けられ、数学なんて公式を覚えて代入すれば済む問題しか載っていないじゃないですか」
美弥子は教科書をパラパラとめくりながらそんなことを言った。まあ、そうかもしれないが、しかしそれが難しいのではと思う。
「美弥子ちゃんのスペックが高すぎる……」
「まあ普通の勉強はしていなかったようだからな」
美弥子はおそらく同年代の人間が無駄に使い倒す時間を、病院のベッドの上で勉強に費やしたのだろう。
だから学校の、生徒の頭を一般常識に均すための勉強の意義が理解できないのかもしれない。
「わたし、もしかしたら学校なんていうところに行かなくて正解だったかもしれませんね」
「美弥子ちゃん、学校は勉強をしに行くところじゃないよ?」
「いや、勉強をしに行くところだろ」
何を当然みたいに言っているんだ、こいつは。
「お兄ちゃんは少し黙ってて」
「お、おう……」
俺は口を噤んで二人の会話に耳を傾けた。
「それで、学校は勉強をしに行くところではないというのは、どういうことでしょうか?」
「学校はね、友達を作って遊ぶところなの。人と関わりを持つ場所なの。勉強なんてあとあと。それよりも友達とテレビの話とか、流行りのファッションの話とか、あとはそうだな……ああ、恋バナとかするところなの」
「こい、ばな、な? 東京土産として有名なあれの模造品?」
「いやいや、なんで女子高生がお土産話に花を咲かせるのよ。そうじゃなくて、恋愛の話。それを略して恋バナって言うの」
「恋愛の……話?」
美弥子はよくわかっていない顔をしている。
「そう。たとえば、あの先輩かっこいいよねとか、何部の誰それ人気らしいよとか、何組の男子とあの子付き合ってるらしいよとか、そういうの」
「……ゴシップ?」
おお、ぴしゃりと言ってしまったな。
「美弥子ちゃん言い方! まあその通りなんだけどね」
「そうなのですか。……なんだか学校という場所をわたしは誤解していたようです」
美弥子は真剣な顔をしてそう言った。一咲子のおかげで美弥子は妙な知識を身につけてしまった。
「うわさ話とか恋バナは女子高生にとって必須スキルだよ」
「必須、スキル……。わたしはたとえ学校に行っていたとしても上手くいかなかったような気がしてきました」
美弥子は少し残念そうな顔をした。
「いや、美弥子、うわさ話のスキルは確かに難しい。いろいろなところにアンテナを張らなきゃいけないからな。でも恋バナは簡単だ。俺でも女子高生に混じって恋バナはできる」
「え、つっきーはできるのですか!?」
「うそでしょお兄ちゃん……」
二人とも驚いた顔で俺を見た。
いやいや、馬鹿にしてもらっては困る。これでも大卒、それに社会人経験ありだ。女子高生にできることは俺にもできる。
「あんなの簡単だ。とりあえずあの人いいよねとか誰かが言ったら、うんうんわかるーとか応援してるねとか言っておけばいいし、誰かが振られたと言っていたら、あいつ最低だよねーとか○○ちゃんかわいいから絶対彼氏できるよーとか言っておけばいい。どうだ、簡単だろ?」
その場その場で、相手が欲しがっているセリフをこの中から選んで言ってあげればいいだけだ。簡単な作業だ。
「その四通りのセリフを言えば私も恋バナができるのですか?」
「ああ、できる」
俺はうなずいて断言した。
「いやいや美弥子ちゃん信じちゃだめだよ? こんな女心を毛ほどもわかっていないような人の言うことなんて聞いちゃダメ」
とてつもなく失礼なことを実の妹から言われた。少しショックだ。
「つっきーのいうことは間違っているのですか?」
「一ミリも当たっていないわよ」
バッサリと否定されてしまった。なんだ、その通りじゃないか。
「そうですか。わたしもそれならできると思ったのですけど……」
「それなら、美弥子ちゃん!」
一咲子はノートを勢いよく閉じると立ち上がった。
「あたしの部屋で恋バナしよっ!」
「え? あの、勉強は?」
「今度は美弥子ちゃんが恋バナの勉強をする時間だよ」
「おい一咲子、そんなんで受験大丈夫か?」
一時間くらいしかまともに勉強していないだろうに。
「大学は浪人できるけど恋はそうはいかないの。ほら、来て!」
「わっわ!」
一咲子は強引に美弥子の手を引きダイニングから出て行った。
……まあまだ一咲子の受験まで半年以上ある。俺だって大学受験の勉強を本格的に始めたのは雪がちらつき始めてからだ。
焦ることはない。




