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五章・5

 「どうせまだ見ているんだろうな」


 俺は手に大きめの袋を下げて美弥子のもとに歩いていた。


 「あれ? ちっ、またあいつは……」


 レッサーパンダの前に着いたが、美弥子の姿は見えなかった。


 「どこ行ったんだ。まったく。……っ! お、おい! 美弥子!」


 俺は、レッサーパンダの飼育場から少し離れた木の下でへたり込んでいる美弥子を見つけた。


 「……あ、つっきー……」


 美弥子は力の無い声で俺を呼んだ。


 「どうした!? 何があった!?」


 「ち、ちょっと、頭がぼうっとしてしまって、木陰で、休もうかと思いまして」


 「ちょっと見せろ」


 俺は美弥子の額に手を当てた。


 「熱っ! 熱が、あるな。立てるか?」


 「は、はい……あっ!」


 美弥子は俺の手につかまり立ち上がろうとしたが、足がふらついて上手く立てなかった。


 「これはだめだな。救急車を呼ぶか」


 「そ、それは、だめです!」


 美弥子は息を荒くしながらそう言った。


 「じゃあ車で病院に行くか?」


 「それも、だめです……」


 「だめって言ったって、体調悪いんだろ?」


 「でも、病院はだめなのです。……つっきーの、お家に……」


 「お、おいっ! 美弥子!」


 美弥子は体から力が抜けたかのように俺に体を預け、そのままずるずると倒れていった。


 「おい! しっかりしろ!」


 「はあ、はあ。……つっきー。苦しいよ。苦しい」


 「くそっ。病院はだめだってか。そうかよわかったよ!」


 俺は美弥子を抱きかかえ、持っていた袋の持ち手を口で噛み、走り出した。

 意識のない人間は重たいという話を聞いたことがあるが、美弥子の体は怖いほどに軽かった。


 動物園の坂を駆け、長い長い階段を駆け下りた。すれ違う人たちの迷惑になったかもしれないが、気にしていられるほどの余裕はなかった。

 俺はどうにか美弥子を揺らさないように気をつけながら車に向かって走った。

 美弥子の顔にいくつも嫌な汗が浮かんでいた。


 「はあっ、はあっ。もう少しだ。もう少し待っていろ」


 車まで戻った俺は美弥子を助手席に乗せ、袋を後部座席に投げ、そして急いで運転席に乗り車を発進させた。


 俺は運転をしながら片手で家に電話をかけた。


 「母さんっ!」


 『あら、どうしたの? そんなに慌てた声を出して』


 「美弥子が倒れた。今から帰る」


 『わかったわ』


 母さんはすぐにそう言ってくれた。


 俺は携帯を放り投げ、運転に集中した。少しでも早く家に着くために。

 助手席にいる美弥子はとても苦しそうな呼吸をしていた。

 ……くそっ。

 俺はアクセルを一気に踏み込んだ。



                   ○



 「母さんっ!」


  家に帰りドアを開けると、玄関に母さんが立って待っていた。


 「一輝。美弥子ちゃんをあなたの部屋に運んでベッドに寝かせて。あとはお母さんに任せて」


 「ごめん。頼む」


 俺は階段を上り、美弥子を自分の部屋のベッドに寝かせた。

 美弥子は大量の汗を流し、今も辛そうな呼吸をしていて、それに顔も真っ赤だった。


 「頼む」


 「ええ」


 俺は母さんと入れ替わりに部屋から出た。母さんは手にタオルやペットボトルの水などがいろいろ入ったかごを持っていた。


 「一輝。お母さん今、怒っているからね」


 「わかってる」


 部屋の中からの母さんの声を背中で聞いて、俺は部屋のドアを閉めた。

 そして俺はそのままドアに背を預け、ずるずると座り込んだ。



                    ○



 「ちょっと一輝、そこに座っているの? ドアが開かないのだけれど」


 「ああ、ごめん」


 三十分ほど経っただろうか。ドアの向こうから母さんの声が聞こえた。

 俺が邪魔でドアが開かなかったのだ。俺が立ち上がるとドアが開いて、母さんが出てきた。


 「どう?」


 「大したことはなかったわ。ちょっと疲れが出たんでしょうね。今は熱も下がって、静かに寝ているわ」


 母さんは後ろ手でドアを閉めながらそう言った。


 「そうかよ。それならよ――」


 ゴンッと、母さんが持っていたかごで俺の頭を思い切り殴った。かごの角が耳に当たった。


 「よかった、なんて言うんじゃないでしょうね」


 母さんの声は静かで、そしてとても冷たく聞こえた。殴られた耳がとても痛かった。


 「一輝、あなた出かける前に、わたしがちゃんとしなさいって言ったら、わかっているって言ったわよね」


 「ああ」


 「それじゃあこれはどういうこと? わかっていないじゃないの。あなた、わたしが家にいなかったらどうしていたの? 美弥子ちゃんのこと、ちゃんとできていたの?」


 言い訳すらできない。母さんの言う通りだ。俺は、美弥子のことを、ちゃんとできていなかった。母さんがいなかったらきっと俺は、何もできなかった。


 「つっきーは……悪くないのです。お母様……」


 すると母さんの後ろのドアが開いて、美弥子が顔を出した。


 「美弥子ちゃん! だめよ、動いちゃ。寝ていないと」


 「ごめんなさいお母様。でも、つっきーをあまり責めないでください。つっきーは、わたしを、倒れてしまったわたしを抱えて、一生懸命走ってくれたのです。ですから、せめて、怒るのなら、わたしも、一緒に……」


 そこまで言った美弥子の体が、ふらりと揺れた。


 「美弥子っ!」


 俺は急いで美弥子の元に寄り、倒れないようにそっと支えた。体はまだ、とても熱かった。この体温なら動くのも辛いだろうに、それでも俺を庇うために、体を起こして来てくれたのか。


 「母さん、その……ごめん」


 「お母様、ごめんなさい」


 「もう、まるでわたしが悪者みたいじゃない。まったく……」


 母さんは腰に手を当て、拗ねたようにそう言った。


 「一輝は謝る相手を間違えているし、美弥子ちゃんは謝る必要ないのよ」


 俺は謝るべき相手の顔を見て頭を下げた。


 「ごめんな、美弥子」


 「いえ、そんな……」


 「それじゃあお母さんは下に戻っているから、一輝は美弥子ちゃんの側にいてあげなさい。美弥子ちゃん、ちゃんと寝ていないとだめよ。わかった?」


 「はい、わかりました」


 「なら、よろしい」


 母さんは優しく微笑んでそう言い、一階に下りていった。


 「美弥子」


 俺はそう言って美弥子にベッドに戻るように促した。

 うなずいた美弥子はおとなしく俺のベッドに横になった。

 俺は美弥子に毛布を掛けてやった。


 「ごめんなさい。つっきー」


 すると美弥子が突然俺を見上げてそう言った。


 「何で、美弥子が謝る?」


 謝るべきは、むしろ俺の方なのに。


 「せっかく動物園に連れて行ってもらったのに、倒れてしまったので」


 「謝るな。美弥子は何も悪くない」


 「で、でも」


 「また行けばいいだろ?」


 「え?」


 「また行こう。動物園に。実はあの動物園はあれで終わりじゃなかったんだ」


 「え、でも、レッサーパンダのところから先は行き止まりでしたよ?」


 たしかに美弥子の言う通りだ。レッサーパンダの先には何もいなかった。だけど、それでもあの動物園にはまだ見ていないところがある。


 「俺たちは門を抜けて入っていったよな?」


 「ええ、そうですけど」


 「俺は入場料があると思っていたから、門をくぐってからが動物園だと思い込んでいた。でもそうじゃなかった。門の反対側にまだ飼育場があったんだ」


 「そうなのですか!?」


 「ああ。そこにはまだ見たことのない動物がいるはずだ、だから、また行こう。また行って、俺にいろいろ説明してくれ」


 「は、はい……はいっ!」


 「じゃあまた出かけるために、今は寝ろ」


 「わかりました。……あの」


 「何だ? 喉でも渇いたか?」


 「いえ。その、手を……」


 美弥子は毛布から片手を出して俺の方に持ってきた。子どもみたいだなと思ったが、そう言えば美弥子はまだまだ子どもと言っていい年齢だった。


 「わかった」


 俺はその手を包むようにして握った。小さくて、熱い手を。


 「ありがとうございます。つっきーは、優しいですね」


 「わけのわからないことを言っていないで早く寝ろ」


 「ふふっ、わかりました。それじゃあ、おやすみなさい」


 「ああ、おやすみ」


 俺がそう言ってしばらくすると、穏やかな寝息が聞こえてきた。


 俺はその小さな手を握りながら、美弥子の寝顔を見つめていた。


 男の前で、無防備に寝るなよな……。まったく。

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