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五章・3

 「つ、つっきー……」


 「何だ? そんな弱々しい声を出して。どうした?」


 俺は五段ほど遅れてついてきている美弥子に目を向けた。


 「あ、足が……足が棒のようになります……」


 美弥子は肩で息をしながらどうにかこうにかといった様子で階段を上がっていた。


 「……まあ、美弥子じゃなくてもこの階段は疲れるか」


 俺はそう言って今上っている階段の先を見上げた。


 駐車場から動物園に向かう階段だ。動物園はちょっとした山の上にあるので、自分の足で階段を上って向かわなければならない。ツツジを穏やかに眺めている余裕はなさそうだ。


 「はあ……はあ……追いつきました」


 美弥子は息を切らして俺の横に立った。

 美弥子の顔には珠のような汗がいくつも浮かんでいる。


 「大丈夫か?」


 「本物のレッサーパンダを見るためなら……これくらい、大丈夫です」


 「顔色が少し悪い。今ならまだ戻れるぞ。どうする?」


 美弥子は昨日病院を出たばかりだ。体力だって十分ついていないだろう。あまり体を動かさない方がいいのかもしれない。


 「そ、そんなっ! だめです!」


 しかし美弥子は慌てた様子で断った。


 「別に今日休んで明日来てもいいんだ」


 「だめです! 後回しにしていられるほど後がないのです! だから今日、今日行かないとだめなのです!」


 美弥子は必死に俺に訴えてきた。


 「どうしてそんなに必死なんだ? 後がないって、どういうことだ?」


 もしかして、俺と一緒にいられる時間は限られているのか?

 そうだとすると、なんだろう、少し……嫌だな。


 「わたしの気持ちはもうレッサーパンダなのです。今日見られなかったらわたしはおかしくなってしまいます! 後戻りはできません!」


 「そうかよ」


 俺の想像したことでは全くなかった。ただのレッサーパンダのオタクだった。


 「でも、美弥子はついこの前までずっと入院していたんだ。体力が無くて当然。無理をしたら元も子もない」


 「で、でもっ!」


 「だから、ほら」


 俺は美弥子に背を向けてしゃがんだ。


 「上まで乗せてってやる」


 「え? い、いえいえ! わ、悪いですよ」


 「気にするな。倒れられた方がこっちは困る」


 「わたし重たいですし」


 「どう見ても軽そうだけどな。どこに肉ついてんだよ」


 俺はしゃがんだまま首を曲げて美弥子を見た。

 ほっそりとした体。華奢な手足。まったく重そうには見えない。


 「そ、それに、は……恥ずかしいです」


 「じゃあ帰るか」


 「そ、それは……。うー」


 美弥子のうなり声が聞こえたと思ったら、背中に柔らかな重さが乗ってきた。


 俺の首の前に真っ白な腕が回される。


 「し、仕方なく! 仕方なくです!」


 「わかっているよ」


 俺は手を、美弥子を支えるためにショートパンツからのびた素足の下に入れ、ゆっくりと立ち上がった。

 俺の手に美弥子の肌が吸い付いてくる。


 「あ、足、くすぐったいです……」


 「悪いな。でもこうしないと落ちる」


 俺は一言謝っておき、階段を上がり始めた。


 「本当に軽いな。何キロだ?」


 「女の子に体重を聞かないでください」


 「そうかよ」


 「……女性は、もうちょっとお肉がついていた方がよいのでしょうか?」


 「何の話だよ」


 「いえ……ただ、男の方は少しふっくらとしたというか、丸みがある女性が好みだと聞いたことがあるので」


 「……人によるだろ、そんなの。好みだ、好み」


 「じゃあ、つっきーはどうなのですか?」


 「俺?」


 「はい。……つっきーは、お肉のついていない女の子は、嫌いですか?」


 俺の首筋にかかる美弥子の吐息が俺の心をざわつかせた。


 「お、俺は……」


 「どうなのですか?」


 俺の耳を温かな息が撫でる。

 美弥子は今いったい、どんな顔をしているのだろうか。どんな顔をして聞いてきているのだろうか。


 「俺は、別に、嫌いじゃないけれど……。まあどれだけ細かろうが、逆にどれだけ太かろうが、俺がそいつのことを好きになれたら、そいつのことが俺は好きだ」


 「そうですか」


 美弥子はぽつりとそうつぶやいた。

 美弥子の顔は俺の頭の後ろにあるので、どんな顔をしてそう言ったのかはわからない。

 ただ、何だか、美弥子のつぶやきは安堵しているように聞こえた。


 ……こんな考えは、自意識過剰だ。俺は自分にそう言い聞かせた。


 それから俺たちは会話を交わすことなく、静かに階段を上がっていった。


 ただ、その静かさは嫌なものではなく、むしろ優しくて暖かい静かさだった。

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