轢き逃げ
「え!?」
俺はアルバイトを終えた深夜に成りかかった人気の無い夜の道を歩いていた。
静かな夜……十分に注意しながら横断歩道を渡っていた時の事。
何の比喩もなく、突然マフラーを切って轟音を立てた車に轢かれた。
何キロで飛ばしているんだ!? ってくらいの速度だったと思う。
避けるもクソも無い。気が付いたらそこにいた。
もちろん青信号は歩行者側の青信号だ。視界が宙に浮かび、跳ねた車が俺の視界におぼろげに映っている。
車に轢かれた!?
車道側の信号は絶賛、俺の身体から流れている液体と同じ色で光っている。
……妙に時間が遅く、まるでスロー再生みたいな速度で周囲が流れていく。
今、俺は浮いている。
車が衝突した勢いで身体が投げ出された。
すぐに夜の空……綺麗な月が視界に映し出される。
直後――
「ガハッ!」
身体が地面に落ちた鈍い音と反射的に肺から酸素が外に出される。
続いて全身に酷い痛みがやってきた。
突然の事で身体のどこに車がぶつかったのかはわからないないけれど、凄く痛い。
外側と内側両方が壊れてしまったのではないかと思う程の激痛だ。
それはもう、あまりの痛さに目から涙が湧いてくる。
「か……ふ……」
声にならない音が俺の口から発せられる。生きているのが奇跡だと思う。
もしかしたら臓器のどれかがやばいかもしれない。
は、早く病院を……。
幸い……交通事故に巻き込まれる時点で不幸ではあるのだが、意識はある。
重傷ではあるのだが、運が良ければ助かるはずだ。
いや、そう思わないと怖くてやばい。
「やっちまった……」
車の運転手と思わしき人物の声が聞こえた。
その人物の声がした方に視線を向けようとするも力が入らない。
だから俺は咄嗟に声を出した。
「た……たす……」
ほとんど喉から空気が通る音だった。
だが、辺りにその人物以外に人はおらず、そして車も通っていない。
被害者である俺が加害者に助けを求めるのは極々当たり前だ。
いや、助けてくれるなら誰でも良い。
痛い……あまりにも痛い。
――しかし。
事故を起こした車から扉を閉める音が響き、車は轟音を立てて動き出した。
おい! 轢き逃げかよ!
いや、勘弁してくれよ……本当死にそうなんだって。
痛い程に心臓が鼓動して、強い絶望が脳裏を過ぎる。
心臓の音以上に身体の全身が痛過ぎてやばい。
このままじゃ、本当に死んでしまう。
……!?
着ている服がヌメる……。
雨は降っていない。素晴らしい位に晴天だ。
がくがくと震える力の入らない手をゆっくりとその箇所に当てようと動かすよりも前に気付いた。
手が、赤い。
手の平一杯に広がる、赤。
既に酸化が始まっているのか、少し黒くなっており、コンクリートの破片と思わしき小石が所々に食い込んでいる。
それ所か、気付けば気付く程、全身にそのヌメりが侵食してきた。
え? これ、まさか、え?
血、か? 血、だよな?
なんだこれ……洒落になってないぞ!
「は……ふ……」
肺が空気を欲しているのに、ほとんど入ってこない。
空気が足りない。鈍い痛みが頭を襲ってくる。
冬でもないのに、凍える位寒い。
段々と感覚が薄れていって、力が入らなくなっていく。
やばい、意識まで朦朧としてきた。
え? え? 本当に?
俺、こんな所で死……
「誰、か……助……け……」
迫り来る、酷く現実味を帯びた死を受けて、助けを求める。
しかしその言葉に返事は無い。
俺を轢いた車も、他の車も、通行人も、誰もいない。
っ!? やばい、痛みがなくなっている。
どこかで聞いた事がある。
本当に死ぬ寸前は痛覚が薄れて、目が見えなくなっていくって。
俺は咄嗟に両目を強く開いた。
霞んでよく見えないが、まだ見える。
だけど、見ようとする物が定まらず、ぐるぐると回っていて気持ち悪い。
どうにか見えるのは車道の黒いコンクリートだけ。
……俺、本当にこんな所で死ぬのか?
自分に価値があるとは言わないが、まだやりたい事が沢山ある。
なんてこった。無念だらけじゃないか。
このまま死んだら幽霊になって彷徨うぞ。
それで、俺を殺したアイツ、絶対呪い殺してやる。
待て、そもそも、死んだ後ってどうなるんだ?
地獄とか天国とかあるのか?
それとも死んだらテレビの電源を切るみたいに、プツンって終わるのか?
誰か、誰か助けっ……!
必死に口を動かそうとするが、唇が若干動いただけだった。
それでも諦められない。
ぼやけてきた視界を必死に見る。
すると。
俺の血が……奇妙な軌道を描いている事に気づいた。
な……んだ?
俺の血が――動いている。
もちろん、血は液体なんだから流れるかもしれないが、そうじゃない。
血がありえない方向に動いている。
それも鮮血だ。
手に付いた黒くなっていく血とは違い、真紅。
その真っ赤な血が線を描いている。
もはや動かない俺の頭ではその全貌を知る事が叶わない。
けれど、その赤い線は弧を描いており、俺を中心に円を作ろうとしているみたいだ。
やがて複雑な、幾何学模様が刻まれていく。
幻覚?
……そうかもしれない。
車に轢かれて死にそうになっている俺が見た妄想。十分考えられる状況だ。
死ぬ前に見る光景が走馬灯ではなく、幻覚とは……。
そして……血の線が発光した。
薄れてきている目でも解る程の光だった。
咄嗟に目を閉じた。
次の瞬間――酷い浮遊感が身体を襲った。
上下がわからなくなって、溶けていく感覚。
自分の身体が縮んでいく様な……変質していく気がする。
ああ、これが死ぬって事なのか?
おそらく、そうなのだろう……。
世の中に死んで帰ってきた人間はいないんだ。
死んだ人間はこんな変な感覚を味わうんだろう。
音と痛みの消えた世界を漂って、変わっていく自分に酔う。
そんな状態にも終わりがやってきた。
「っ……!」
女性が息を呑む声が響いたのだ。
綺麗な声だと思う。噂に聞く天使という奴だろうか?
「こ、これは!」
続いて、また別の声。酷く驚いた様子だ。
もしかして誰かが通って見つけてくれた?
もしも日常的に死んだ命がやってくる場所だとしたら驚いたりはしないだろう。
俺は必死に助けを呼ぼうと心を動かすが、身体が言う事を聞いてくれない。
「た、助けるのです! 必ず――の命を繋ぐのです!」
ああ……俺は助かるのか。
安心したら眠くなってきた。
いや、でも、これから病院に運ばれるとして、そこから死ぬ可能性だってあるんだよな。
だけど、助けてと必死に叫んだ時に、助けようとしてくれる人がいる。
それだけで、少しだけ救われた気がした……。
初めに読んでいただきありがとうございます。
八話まで一時間更新です。