4話 兄の居ない日常
アレスが十二歳になると、屋敷を出ることになった。
六年間、王都セトラの学園で学業に励むのだ。
王都セトラの学園は、実に幅広く門徒を開いている。
王族から始まり、領主の息子から商人、軍人、平民までも。
将来希望する職業によって教える内容が変わってくるが、アレスは小難しい学部の試験を受け、平気な顔で首席を取ったそうだ。
その時のフラムとネリアのドヤ顔といったら、アレスばかりか、ダズも恥ずかしくなる程だった。
しかし、アレスが屋敷を出る日。
いや、前日から。
フラムはアレスの部屋の前で一日中うろうろしていたし、ネリアは飼い犬のようにアレスにぴったりとくっついていた。
旅立ちの時など、二人とも涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにし、アレスとダズの涙が引っ込んだほどだった。
「定期的に手紙は書きなさい」「もし困ったことがあれば、どこどこのどこどこ侯爵を頼りなさい」「いざとなればすぐに駆けつけるから」などとまくし立てた続けた。
そしてアレスの馬車が見えなくなるまで手を振り続け、見えなくなったらすぐに屋敷に引っ込んで手紙を書き始めた。
「早すぎませんか?」
と、ダズは思わず突っ込んでしまった。
しかし、寂しくなったのはダズも同じだ。
両親のあまりのあれっぷりに押されはしたが、ダズも大いに兄を慕っていた。
おかげで、しばし寂しい日が続いた。
しかし、両親はすぐにそれに気づいたのだろうか。
新しく使用人が雇われた。
ダズが『手』を使うのを初めて目撃した使用人。
彼女が年のため引退し、その孫が雇われたのだ。
「本日よりお世話になります。マトラでございます」
マトラと名乗ったのは少女だった。
歳は十四と、ダズよりも上ではあるが、屋敷の他の人よりは随分と近い。
「うん。よろしくお願いします」
ダズは兄の影響だろう、九歳とは思えぬ話し方をするし、兄共々、外見はとても良い。
父親譲りの濃い金髪以外は母の影響だろう。深い海のような青い瞳。口元は自然に微笑みの形を見せ、幼いながらも、将来を充分に期待させる整った容姿だ。
「王子様だった」
後日マトラは、ダズについて、知り合いにそう語った。
しかしそれは外面だけ。
中身は中々のヤンチャボーイであることを、マトラはすぐに思い知る。
確かに、言葉遣い、物腰は丁寧だ。
それに反して、マトラが一瞬目を離した隙に何処かにいなくなり、慌てて探したら木の上で昼寝をしていたことがある。
マトラは、俊敏な猿か、と思った。
更に、自室で勉強中、突然鼻をならしたかと思えば、夕食の食材を言い当てた。
時間的に、まだ未調理の生肉だったはずである。
マトラは飢えた野犬か、と思った。
しかし、マトラが一番驚いたことは、父であるフラムとの剣の訓練を目にした時だ。
フラムは、『この国で強い剣士をあげろ』と言われれば、両手の指で数えている時点で名前が上がるほどの剣豪であった。
そのフラムと、剣を打ち合わせているのだ。
流石に、フラムが優勢であるのは一目見てわかる。
しかしダズウェンは形相険しく、必死に食らいついている。
体格的に打ち崩されても、心から悔しそうに歯噛みし、再び父に挑みゆく。
そこには、必死に戦う少年の姿があった。
それを見て、マトラは完全に、ダズに対して持っていた『王子様』像を捨てた。
ダズはマトラに誘われるままに街に出て、そこいらの悪ガキ共と戯れることが増えた。
おかげで、兄の居ない生活に随分と早く慣れることができた。
両親も、泥だらけになって帰って来るのは悩みの種だが、しかし同年代の友人を得たことは素直に喜んでいた。
そんな日が一年も続いた頃。
「あ」
木刀を手にしたダズが、呆然と呟いた。
「あ」
フラムも呆然と呟いた。
額に打ち込まれた、ダズの剣を見て。
「…はじめて、一本取れました!」
僅か十歳の少年は、初の快挙に拳を強く握った。
「……」
一方フラムは、褒めるべきか言い訳を並べるべきかで葛藤しはじめた。
そう、実際これはたまたまなのだ。
しかし、今まで決して勝てなかったのが、百に一つは勝てるようになった、という成長の証でもある。
フラムは全ての葛藤を押し隠し、素直にダズの成長を褒め称えた。
のちの訓練で、多少大人気なかったのはご愛嬌である。
その日の夜。
ダズは期待に瞳を輝かせてフラムにお願いした。
「父様、今度は私も連れて行って下さいね」
「うむ……」
フラムは重々しく頷いた。
以前から約束していたことがあったのだ。
ダズがフラムから一本でも取ることが出来るようになった時。
その時、狩りに同行させる、という約束が。
この国は自然が多く、その分獣害がある。
弱いながらも、魔物も出現するのだ。
そのため、定期的に駆除を行っているのだ。
確かに、ダズの実力ならば戦力としても申し分ないだろう。
しかし、ダズはまだ十歳の子供であり、また大事なこともある。
故に、フラムは表情を引き締め、息子を見つめた。
「ダズウェンよ、よく聞きなさい」
父の真面目な顔を見て、ダズも顔を引き締めた。
「はい」
「狩りは、遊びではない。確かにお前は強い。この近辺では、お前に勝てる魔物もおらんだろう。しかし、しかしだ。戦場では誰も彼も、命懸けなのだ。思いもよらぬことが起きるかもしれん。決して、油断はしてはいけないんだ」
ダズは、フラムの言葉をよく噛み締めて頷いた。
「はい」
「……いざとなれば、使うのだ。生き残ることが、大事なのだ」
何を、とは言われない。
しかし、ダズにも分かった。
そして、普段から禁止されているそれすらも許されるという、その事実を深く受け止めた。
「…分かりました」
フラムはダズの顔を見て、頷いた。
幼いながらも、すでにダズは戦士の目だった。
翌日から、ダズに真剣が与えられた。
同時期、ダズに魔力が発現した。
ネリアは大いに張り切って、ダズに問いかけた。
「ダズ、あなたはどんな魔法にするの?」
ダズは即答した。
「回復魔法に、ありったけを」
正直無くてもいいや、とすら考えていた魔法だ。
大抵のことは『手』でどうにか出来るので、気休めでも治療を選ぶことにした。
生傷も絶えないこともあるし、今後も同じだろうと考えたのだ。
そうと決まればあとはとんとん拍子だ。
早速、自分の怪我を治してみた。
すると、
「あら?あらあらあら……?」
ネリアが目を丸くした。
それも当然、小さな擦り傷、切り傷ではあったが、みるみるうちに傷が癒えていったのだ。
「母様、出来ました」
まだ治療痕は残っているが、痛みは消えた。
これは思ったより便利かも、とダズが考えて母を見上げると、
「ダズ、あなたは天才だわ!」
ネリアに抱きしめられた。
初めての魔法で、しっかりと怪我を癒せる。
ネリアはそんな話を聞いたことがなかった。
いや、どこぞの聖女様なら同じような効果だったはず、と思い出し、ネリアは大いに盛り上がった。
おかげでネリアは、本腰を入れてダズに魔法を教え始めた。
朝に勉強、昼から剣の訓練、夜には訓練で負った怪我の治療がてらに魔法の練習。
つまり、昼は父が、夜は母がべったりだった。
子離れしない親である。