8 ながい手紙
一生分の涙を流したような気がする。
あたしは腫れぼったい瞼の下から、膝の上に広げた便箋を見つめた。
ずっと手に持っていた部分にくっきりと指の形が残り、皺が寄ってしまっている。ところどころインクが滲んだり、うっすらと染みが浮かんでいるのはあたしの涙の痕だ。
何度も何度も読み返した。ひと文字たりとも漏らさないように。お兄ちゃんの想いをひとかけらも取りこぼさないように。
この気持ちを、なんて言葉にすればいいのかわからない。
これ以上ないってくらい嬉しいのに、どうしようもにくらい悲しい。時間が経てば経つほど想いは膨れ上がって、抑えきれなくなって、吐き出さずにはいられない。
今もまた、目の奥がじわりと熱くなった。あたしは涙がこぼれる前に目を閉じて、ぎゅっと瞼に力をこめた。
「……二美花ちゃん」
心配そうな声で日高さんが名前を呼んだ。
あたしは顔を上げると、手の甲で目元をこすった。
「あの、さ……」
向かいの座席に座った日高さんは、まるで怪我をしたような顔をしていた。どんな言葉をかければいいのか迷っているようだった。
あたしはごまかすように笑ってみせた。
「ごめんなさい、大丈夫です」
「……そっか」
日高さんはそれだけ呟くと、結局何も言わなかった。あたしには、それがとてもありがたかった。
病院から宿に戻ってきたあと、もう一泊して翌朝に発った。真柴さんに見送られながら電車に乗って。行きとは逆の順に電車を乗り継ぎ、あと少しであたしの街の駅に着く。
車内はやけに静かで、規則的なレールの軋みだけが響いていた。たまにひそひそと、他の乗客のささやき合う声が微かに聞こえる。
車窓の外は、いつかと同じように真っ暗だった。照明の光を受けて車内の様子がモノクロ写真のように浮かび上がる。
窓ガラスの表面に映る自分と目が合った。
――ひどい顔。
思わず笑ってしまいたくなるくらい、情けない顔だった。お兄ちゃんがいたら、「不っ細工になってるぞー」って苦笑しながら頭を撫でてくれたかもしれない。
お兄ちゃん。
ああ、もういないんだって実感するたびに、ぽっかりと胸に穴が開いたような虚しさと寂しさがこみ上げてくる。壊れたものが元には戻らないように、喪われたひとは帰ってこない。どんなに目を瞑って耳を塞いでも、お兄ちゃんの不在は永遠に覆えらない。
残されたあたしに許されたのは、それを受け入れることだけだ。どんなに時間をかけてでも、お兄ちゃんの死を認めて乗り越えなくちゃいけない。生きている限り、あたしは――あたしたちは、前に進まなくちゃいけないんだから。
もう一度便箋に視線を落とす。ずっと求めていた答え。八年分のお兄ちゃんの想いが綴られた、ながいながい手紙。
ずいぶん自分勝手だけれど、こめられた想いの重さも、かかった年月の長さも、そしてお兄ちゃんの最後の願いも、今のあたしには上手に受け止められない。「幸せになれ」っていう言葉に頷くためには、もしかしたらこの手紙が届くまでの年月……ううん、それ以上かかってしまうかもしれない。
それでも。
いつか、お兄ちゃんに胸を張って「あたしは幸せだよ」って言いたい。お兄ちゃんと同じぐらい好きなひとと一緒に、いつも笑ってるって報告したい。
それがあたしにできる、お兄ちゃんへの恩返しだから。
お兄ちゃん。
たくさん、たくさん愛してくれて、本当にありがとう。あたしも、とっても幸せだったよ。お兄ちゃんと一緒にいられて、毎日が嬉しくて楽しくてしょうがなかった。言葉なんかじゃ言い尽くせないぐらい、幸せでした。
あたしがお兄ちゃんの許へ行くのは、ずいぶん先のことになると思います。だからどうか、気長に待っていてね。
そしていつかそのときが来たら、あたしの話を聞いてください。
あなたへ綴ったラブレターのような、ながいながい、あたしの物語を。
Image song 一青窈『ハナミズキ』