6 果たされた約束
綾羽さんに手渡されたのは、一通の手紙とひとつのキャンバスだった。
飾り気のない封筒の表には、懐かしい筆跡で『二美花へ』と書かれている。裏をめくると『一至より』の文字。
お兄ちゃんからの、最後の手紙だ。
そしてキャンバスには――。
「これ……」
あたしは言葉を失った。
そこに描かれていたのは、ひとりの少女だった。入道雲が浮かぶ夏空と波頭のきらめく海をバックに、屈託のない笑顔をこちらへ向けている。彼女が立っているのは波の打ち寄せる白い砂浜だ。
少女は、あたしと同じ顔で笑っていた。
「……綾羽さん?」
「いいえ、これはあなたです。ちょうど同じ年頃でしょう?」
確かに、言われてみれば少女は十六歳――あたしの年齢ぐらいに思える。その笑顔も、綾羽さんが浮かべるガラス細工のように繊細なものじゃなくて、年相応の快活な表情だった。
「向日葵みたいだね」
あたしの後ろからキャンバスを覗きこんだ日高さんが、ぽつりと呟いた。
「その絵は、一至くんがわたしを参考にして描いた、あなたの肖像画です」
綾羽さんの言葉に、あたしはハッと息を呑んだ。
彼女はほのかな笑みを浮かべた。それは過去を懐かしんでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「わたしと一至くんのはじまりは、それがきっかけだったんです。『モデルになってくれないか』って声をかけてきて……。彼が本当はだれを描こうとしていたのかを知ったのは、ずいぶんあとになってからですけど」
「……約束したんです」
あたしはぎゅっとキャンバスを抱きしめた。
目の奥が熱い。じわりと視界が滲んで、歪んでいく。
お兄ちゃんの死を知った瞬間凍りついたものが、ゆるゆると溶かされていく。まるでキャンバスが燃えているように、その熱に冷たい氷は崩れて、溶け出した水は涙になってこぼれ落ちた。
「いつか、あたしが大きくなったら……絵を、描いてくれるって……っ」
最後は言葉にならなかった。
唇が震える。喉の奥が引きつって、掠れた嗚咽がこぼれた。
ずっと、ずっと不安だった。
お兄ちゃんはあたしのことをどう思っていたんだろう。嫌いだったんじゃないか。憎かったんじゃないか。お兄ちゃんの居場所を、あたしは奪ってしまったんじゃないんだろうか。
だから、……家を出たんじゃないんだろうか。
怖かった。
気まぐれに送られてくる絵はがきにすがるように、たくさん、たくさん手紙を書いて。お兄ちゃんにあたしのことを知ってほしくて、嫌いになってほしくなくて。
だって、あたしは。
あたしは、――お兄ちゃんのことが、好きだから。
お兄ちゃんのことが、大好きだから。
ねぇ、お兄ちゃん。
今ならわかるよ。
あたしはずっとずっと昔から、あなたに恋していたんだ。その優しさに、その笑顔に、そのぬくもりに、恋していたんだ。
だからこんなにも、あなたがいなくて悲しい。寂しい。
涙が止まらない。
ねぇ、お兄ちゃん。
なんで死んじゃったの? なんでいなくなっちゃったの? なんで――何も言ってくれなかったの?
お兄ちゃん。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……お兄ちゃん。
(どうした、二美花)
思い出のなかの、お兄ちゃんが甦る。
幻だっていい。
お兄ちゃんに会いたい。声が聞きたい。抱き締めてほしい。
でも――叶わない。
窓から吹きこんでくる風が頬を撫でていく。それはどこか、もう二度と触れることのない、お兄ちゃんの指先のようで。
あたしは小さな子どものように、声を上げて泣いた。