5 それは、偽りという名の(1)
昔から病院というところはあまり好きじゃなかった。
まるで水底にいるような静けさ。薬品のにおいが混じった、ひんやりとした空気。陽が射しているのにどこか薄暗い廊下を歩いていると、だんだん息苦しくなってくる。
「二美花ちゃん、大丈夫?」
隣を歩く日高さんが顔を覗きこんできた。
「え?」
「なんだか顔色が悪いよ。さっきからずっと黙りっ放しだし」
「……そうですか?」
――だから顔が近いんですってば!
気遣わしげに訊いてくる日高さんに曖昧な笑顔を返しながら、あたしはさりげなく彼と距離を取った。
癖なのか、日高さんは人と接するとき、相手の距離をあまり考えていないことが多い。今だって間近で見つめてきたりする。しかも無自覚だから尚更たちが悪い。
「まぁ確かにこんな、心気臭ぇとこにいれば気持ち悪くもなるよなぁ」
あたしたちの後ろを歩く真柴さんが、なぜかにやにやしながら呟いた。日高さんは眉間に皺を寄せる。
「おまえな、そういうこと言うなよ。……なんだよ」
「別にぃ?」
にやにや笑いが更に深まる。……明らかに「別に」っていう顔じゃない。
日高さんは何か(たぶん文句を)言おうとして、結局、長いため息をひとつ洩らした。
「……おまえと話してると、ホント疲れる」
ちょっぴり同意したくなったのは、真柴さんには内緒だ。
そうこうしているうちに、目的の病室にたどり着いた。スライド式のドアの横の札には、『407号室 杉村綾羽』の文字。受付で確認したとおりの部屋番号だ。
着いてしまった。とうとう来てしまった。
さっきの会話で浮いていた心が、一気に重くなる。なんだかよくわからない、いろんな感情が入り混じったものがこみ上げてきて、喉の奥が嘔吐したあとのような、いやな感じになった。
だけど、行かなくちゃ。
日高さんがドアをノックする。
「綾羽さん、徹です。康多と……二美花ちゃんを、連れてきました」
しばらくして、やわらかな女性の声が返ってきた。
「――どうぞ」
心臓がとどろいた。
このドアの向こうに、お兄ちゃんの奥さんがいる……。
「失礼します」
日高さんの手がドアにかかり、そして――開かれた。
あまり広くない個室だった。陽が射しこむ大きな窓があり、磨いたように青い空と――お兄ちゃんが好きだった、真夏のきらめく海が見える。そのそばに置かれたベッドの上にいる線の細い女性と、視線が絡まった。
彼女の顔を目にした、その瞬間。
あたしは――どうしようもないくらい、泣きたくなってしまった。
「…………はじめまして」
彼女も同じだったのだろうか。
その色の白い、……あたしとそっくりな顔に、涙を堪えるような笑みを浮かべた。
どうしてだろう。あの、小さな頃にお兄ちゃんと交わした約束を思い出す。
(じゃあ二美花が大きくなって、ちゃんとおとなしくしてられるようになったら描いてやるよ)
お兄ちゃん。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、――お兄ちゃん。
「一至くんの妻の……杉村綾羽です」
どこか、遠い場所で。
今、一番聞きたい声が、呼んでくれたような気がした。