4 宿にて
お兄ちゃんが暮らしていた街は海のそばにあった。
日高さんの知り合いが営んでいるというこの旅館も、歩いてすぐのところに浜辺がある。ちょうど今の時期は海水浴客で賑わっているらしい。確かに旅館は満室状態で、小さいながらもふた部屋取れたことは奇跡に近かった。
あたしが泊まる部屋は浜辺に面していて、窓を開けると、墨をこぼしたような闇の向こうから波の音が聞こえてくる。あたしは転落防止の手すりに寄りかかり、近づいては遠ざかる海の声に耳を傾けていた。
潮の香りを運んでくる風は冷たく、べたついていた。髪や肌が痛むと言って海風を嫌がる人もいるけれど、あたしはそんなに嫌いじゃなかった。鼻にツンと来る塩辛い臭いは、海にやってきたんだっていう実感を湧かせるし、ひんやりとした冷たさは真夏の陽射しに焼けた肌には心地よかった。
お兄ちゃんも海が好きだった。
風景画を描くとき、題材はほとんど海だった。よく晴れた日の、透きとおるようでいてどこまでも深い、青い青い海。突き抜けるような蒼穹の下に広がる海原は、紙の上に描かれた絵に過ぎないはずなのに、本当に波の音が聞こえてくるようだった。
(海を見てると懐かしくなるんだ)
出来上がった絵を見つめながら、ぽつりと呟いていたことがあった。
(どうしてかな……とてもそこへ帰りたくなる)
帰りたい場所。
帰りたいと思う場所――帰るべきところ。
お兄ちゃんの『帰るべきところ』は、あたしたち家族の許じゃなかったんだろうか。だから帰ってこなかった?
「……わかんないや」
考えても考えても答えにたどりつけない。まるで迷路の中を、出口を求めて歩き回っている気分。
思考の堂々めぐりに陥ってしまったあたしは、手すりの上に重ねた腕に顔を埋めた。なんだかもう、いろんなことがいやになってしまった。
ふと、閉めきられた襖戸の向こうから声がかけられた。
「二美花ちゃん、ちょっといい?」
「あ、はい。どうぞ」
あたしは慌てて返事をした。
一拍置いて、静かに襖戸が開けられる。現れたのは日高さんと――その後ろにもうひとり、はじめて見る男の人。
「急にごめん」
「いいえ」
あたしの部屋に入るのにためらいがあるのか、日高さんたちは出入り口に突っ立ったままでいた。あたしが部屋に入ってもらうよう言うべきか否か迷っていると、男の人が日高さんの肩越しにひょいっと顔を覗かせた。
「きみが一至の妹さん?」
「え? はい、そうですけど……」
お兄ちゃんや日高さんと同じか、もう少し上くらいだろうか。短く刈った髪を薄い金色に染めて、両耳に銀のピアスをいくつもくっつけている。こんがりと焼けた浅黒い肌が、いかにも海辺育ちっぽい。
彼は一瞬目を瞠ったあと、感心したような声を洩らした。
「いやいやいや……ホントそっくりだねぇ。まさか、ここまで似てるとは思ってなかったよ」
え?
なんのことかわからず目を瞬かせていると、日高さんが男の人の肩を小突いた。
「おい」
「あー、ごめんごめん。つい、ね」
似ているって、いったいどういうことなんだろう? お兄ちゃんと……というわけではないと思う。昔から、似ているなんて一回も言われたことがない。血がつながっていないんだから、あたり前なんだけれど。
そんなことを考えていると、男の人ににっこりと笑いかけられた。なんとなく近寄りがたい印象なのに、思いがけず人懐っこい笑顔だった。
「はじめまして。俺、真柴康多。ここの旅館のひとり息子で、徹や一至の大学の同級生。よろしくね」
『旅館を営んでいる知り合い』というのは、この人のことだったのか。ということは、今日この旅館に泊まれたのは彼のおかげなのだ。あたしはぺこりと頭を下げた。
「杉村二美花です。今日は泊めていただいてありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
見かけによらず……って言うと失礼だけれど、意外と気さくなひとらしい。ほっとしたあたしは、無意識に強張らせていた肩の力を抜いた。
「こいつが二美花ちゃんに会いたいって急に言い出すもんだから」
真柴さんを睨みつけながら、日高さんは呆れたように言った。すると、真柴さんは大袈裟なほど悲劇的な顔をしてみせた。
「なんだよぉ、俺だって興味あっただもん。あの一至の妹にぃ」
「他人様を珍獣みたく言うな! ってかそのしゃべり方やめろ! 気色悪い!」
「うわっ、ひっでぇ。徹ってば〜」
……仲いいんだなぁ。
生あたたかい気持ちでふたりのやりとりを見つめていると、ハッとした日高さんが慌てたように咳払いをした。
「えっと、それで明日のことなんだけど。こいつが病院まで車で連れていくから」
「そういうこと。まぁ、まっかしといて」
「あっ、はい。わかりました。よろしくお願いします」
明日。
明日、綾羽さんに会う。お兄ちゃんの遺したものを受け取るために。お兄ちゃんの本当の心を確かめるために。
すべての決着がつく。そう思うと、心がすぅっと冷えていった。
――お兄ちゃん。
あたし、行くよ。綾羽さんに会うよ。お兄ちゃんが愛したひとに。
……ちょっとだけ、怖いの。
お兄ちゃんがあたしをどう思っていたのか、知るのが怖い。
でもね。
それでも、それでも知りたいから。だから、あたしは行くよ。
闇の向こうから聞こえてくる波の音が、いつまでも耳の奥で鳴り響いていた。