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Love letter  作者: 冬野 暉
本編
2/12

2 夢と痛み

 お兄ちゃんの絵を描く姿が好きだった。

 お父さんやお母さんに隠れてこっそり練習しているのを、よく隣で見ていた。睨むように紙面を見つめるまなざし。スケッチブックを抱えて、ちょっと丸まった背中。絵を描くとき、お兄ちゃんの周りの空気はぴんと張り詰めて、とても静かだった。聞こえるのはお兄ちゃんが鉛筆を走らせる音だけ。

 真っ白な紙に鉛筆の繊細な線が刻まれて、ひとつの形を浮かび上がらせていく。まるで魔法のようだった。

 何度かあたしの絵を描いてってねだったことがある。だけど小さかったあたしは長時間じっとしていることができず、すぐに動いてしまうので、お兄ちゃんはあまりあたしをモデルにしたがらなかった。

(じゃあ二美花が大きくなって、ちゃんとおとなしくしてられるようになったら描いてやるよ)

 お兄ちゃんは苦笑混じりにそう言うと、あたしの頭を撫でた。

 その約束が果たされることは、もうない。




「――ちゃん、……二美花ちゃん」

 だれかが呼んでいる。

 あたしは目を開けると、ぼんやりと目の前にある顔を見つめた。

「日高さん……?」

「寝てるところ、ごめんね。もうすぐ降りるからさ」

 向かい側の座席に座っている日高さんは、軽く前に乗り出すような姿勢であたしの顔を覗きこんでいた。ちょっと長めの前髪に隠れがちな双眸が、困ったように細められている。一瞬、夢のなかで見たお兄ちゃんの表情が重なった。

 日高さんって、苦笑いの仕方がお兄ちゃんに似ているかもしれない。覚醒しきっていない頭の隅でそんなことを考えていると――不意に気がついた。

 顔が近い。

 何げなくなんだろうけれど、近い。だって日高さんの睫毛がはっきりとわかってしまう。

 眠気が一気にぶっ飛んだ。

「っ!?」

 あたしは座席の背もたれの存在を忘れて思いっきり後退った。次の瞬間、後頭部に鈍い衝撃。

「だ、大丈夫!?」

 頭を抱えて呻くあたしに、日高さんは慌てたように声をかけた。

「大丈夫です……」

 涙目になりながら、あたしはなんとか頷いた。

 あたしは日高さんとともに、名前も知らないローカル線の電車に乗っていた。行き先は、お兄ちゃんが暮らしていた街。

 お兄ちゃんの葬儀のあと、渋るお父さんとお母さんを無理やり説き伏せた。翌朝、夜も明けないうちに家を出て新幹線に乗り、それから何本も電車を乗り継いで。車窓の外に視線を向ければ、とっくに陽は沈み、流れていく景色は夜の闇に染まりつつあった。

 今は夏休みだから学校の心配はない。お兄ちゃんがあんなことになったから、休みに入る前に約束していた友達との予定もすべてキャンセルしていた。

「……お兄ちゃんの奥さんって、どんなひとですか?」

 気になっていたことを訊いてみた。

 すると、日高さんは一瞬、なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。

 ――え?

「綾羽さん、か……」

 どこか遠くを見つめてこぼすような、小さな呟き。日高さんは目を伏せると、うっすら微笑んだ。

「病気がちっていうのは言ったよね。子どもの頃からずっと入退院をくり返してたって。そのせいかな。物静かで、穏やかな性格のひとだよ」

 あたしは思わず日高さんを凝視した。あの顔はいったいなんだったんだろうか?

「一至とはやっぱり病院で出会ったって言ってたな。あいつがたちの悪い風邪引いて短期入院したときに、知り合いになったって」

 お兄ちゃんが、入院。心臓がどきりと跳ねた。

 お兄ちゃんは病気で死んだって日高さんが言っていた。発見したときには、もう手の施しようがない状態だったって。

 綾羽さんはどんな気持ちだったんだろう。お兄ちゃんの命が残り少ないって知ったとき。

 日高さんは続ける。

「あいつが退院してからも、たびたび会ってたみたいだった。……絵のモデルを頼んだり」

「お兄ちゃんが?」

 脳裏をあの約束がよぎった。もう二度と果たされない約束。

 胸の奥が痛い。針に突かれたような痛みはたちまち広がって、あたしの心を痺れさせていく。

「そうですか……」

 どうして胸が痛むのか、声が震えそうになるのか、わからない。あたしはそっと目を閉じた。

 ――お兄ちゃん。

 お兄ちゃんは、綾羽さんが好きだった? 愛していた?

 ……当たり前じゃないか。

 好きだったから、愛していたから、結婚したんだろう。それなのに、なんで今更そんなことを考えるの?

 わからない。

 だけど、ひとつだけ。

 あたしは打ちのめされていた。どうしようもない、この事実に。

 閉じた瞼越しに日高さんの視線を感じる。何かを問いかけてくるような、物言いたげな視線。

 あたしは彼の視線から逃げるように目を閉じ続けた。どうしてか、日高さんの瞳を見ることが怖かった。

 結局あたしが再び目を開いたのは、目的の駅に着いてからだった。

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