夏の果て
旧サイトのリクエスト企画作品です。リクエストしてくださった読者の方に捧げます。
夏の空は、ありったけの青い絵の具をぶちまけたように鮮やかだった。
ざらついた潮風が頬を撫でる。呼吸をするたびに塩辛い香りが肺を満たした。
「お〜、絶好の海水浴日和だなぁ」
車椅子を押してくれる康多が声を上げた。少し後ろでパラソルを張っている徹が呆れたように尋ねた。
「まさか、水着持ってきたのか?」
「いやいや、そんなナンセンスなことはしねぇよ。時代は着衣水泳だろ!」
「……馬鹿だ、馬鹿がいる」
徹ちゃんてばひっど〜い、という大袈裟な泣き真似に思わず笑ってしまう。波打ち際に立った綾羽も、白い日傘の下でくすくすと笑っていた。
「いいわね、気持ちよさそうで。わたしも一緒に泳ごうかしら」
「マジで? 大っ歓迎! って言いたいとこだけど、綾羽ちゃんにはぜひビキ……」
「調子に乗るな、このスケベ!」
スパァン! と小気味いい音に続いて、派手な悲鳴が上がった。このふたりのどつき漫才は昔から少しも変わらない。
――そう。何も変わっていない。
徹も康多も、俺がどんな人間なのか知っているはずなのに、変わらぬ態度で接してくれる。綾羽も笑顔を見せてくれる。
当たり前という、幸福。
俺には、そんな資格なんてありはしないのに。
「……いいな。俺も泳ぎたい」
群青色の空とともにどこまでも広がる海は、まるで両腕を差しのべて微笑む母親のようだった。打ち寄せる波の音が、おいでおいでと優しくささやく。
あたたかい水の揺籃のなかで見る夢は、どんな色をしているのだろう。
「――また、泳げるさ」
一秒にも満たない沈黙のあと、康多が強い声で言った。震えを押さえこんだような、声。
「現にこうやって外出許可下りてるだろ? 最近調子もいいみたいだしさ。まだ夏ははじまったばっかなんだ。あと何回だって来れるだろ」
「……ああ、そうだな」
徹が頷く。
「次は泳げるよ。今度はテントとか持ちこんで、みんなで泊まったりしてもいいよな」
「花火とかな! ああっと、スイカ割りも忘れちゃいけねぇ」
「ふふ、なんだか子どもの頃みたい」
綾羽がくるりと日傘を回す。陽射しに輝くような白と、軽やかな仕種がまぶしかった。
「海水浴なんて小さなときに一度しか行けなかったけど、よく憶えてるわ。西瓜割りに挑戦したんだけど、目が回りすぎててんで的外れなの。結局だれも割れなくて、切って食べたわ」
「そうそう。あれって結構難しいんだよな〜。割ったら割ったでまたビミョーだし」
「確かに、スイカ割りのあとってかなり悲惨だよな……」
砕け散った赤い果肉が広がる惨状を想像したのか、徹が乾いた声で呟いた。
まだあの家にいた頃、縁側に並んで食べた冷えたスイカを思い出す。親父は塩をかけるのがうまいと言って譲らなかったが、俺と隣にいたあの子にはとうてい理解できなかった。
種を上手に飛ばすことができなくて、悔しそうに丸い頬を膨らませていたあの子。
雨のように降り注ぐ蝉の声。日陰に泳ぐ風鈴の音。スイカの水っぽい甘さ。
隣合う小さな体の、熱いほどだったぬくもり。
めまいのような感覚に、俺は固く目を閉じた。
二美花。
俺の妹。俺の世界。俺のすべて。
罪深いほど恵まれているくせに、俺が満たされることはない。
徹にも康多にも、綾羽ですら二美花の代わりになどなれない。偽りでもかまわないとほざいておきながら、醜悪で貪欲な本性はいつでもあの子を叫んでいた。
二美花が欲しい。二美花でなければ駄目なのだ。
友人たちの優しさであの子の思い出をなぞってしまう。綾羽の表情に、声に、成長したあの子の幻を探してしまう。
二美花、二美花、二美花!
徹に、康多に――綾羽に。おまえたちに会うために生まれてきたんだと笑って言えたら、どんなによかっただろう。
この想いを忘れてしまえば、だれもが楽になれるのに。
目も耳も塞いで、それでも追いかけてくる面影すらいとおしい。
「一至くん、どうしたの?」
そっと瞼を押し上げると、気遣わしげに見つめてくる綾羽と目が合った。
「……なんでもないよ」
妻に重なりかけた姿をごまかすように微笑む。風が強くなり、いっそう潮の香りが濃くなった。
「康多、せっかくだから波打ち際まで行ってくれないか」
「オッケーオッケー、任しときんしゃい」
「タイヤを砂にはめるんじゃないぞ」
「……徹ちゃん。きみは俺をなんだと思ってるのかね?」
砂浜に笑い声が弾ける。まどろみを誘うような波の音に重なるそれが、ひどく心地いい。
心のどこかは常に渇き、飢えている。もう届かない存在を求めてさまよっている。
けれど。
「ほい、っと」
ゆっくりと海が近づく。タイヤが波に触れるか否かのぎりぎりで止まると、綾羽が日傘を差してくれた。
「まぶしいでしょう」
「……ありがとう」
彼女の向こうで、きらきらと海が瞬く。
――けれど、愛していないわけではない。俺は幸せだ。
それだけは、嘘ではないから。
夏の空、夏の海。心まで真っ青に染まるような美しいブルー。
俺が残せるたったひとつの真実を置いていこう。
二度とめぐることのない、最後の夏に。