ガラスの海
旧サイトのWeb拍手で掲載していたSSです。
はじめて海を見た妹の第一声は、「ガラスみたい」だった。
これを聞いた両親は、揃って怪訝そうな顔をした。それはそうだ。普通、海からガラスを連想したりなんてしない。
「なぁ、二美花。どうして海がガラスみたいなんだ?」
親父の問いかけに、それこそ妹は不思議そうに首を傾げた。
「だってきらきら、おんなじだよ?」
お父さんこそ、どうしてわからないの? と言わんばかりの妹のまなざしに、親父は心底困ったような顔をした。
けれど、俺にはわかった。
つい先週の日曜日、両親が留守にしている間に家のすぐ近くでトラックの横転事故があったのだ。トラックにはガラス板が積まれていて、事故の衝撃で粉々に砕け散ったガラス片が道路一面に散乱していた。
俺は妹を抱いて、二階のベランダからその様子を見ていた。夏の明るい陽射しを弾いて、ガラス片がいっせいに瞬いているように輝いていた。よく晴れた日の、波頭がきらめく海のように。
妹はその光景を思い出して、海をガラスのようだと言ったに違いなかった。
「――そうだな」
俺は妹の頭をひと撫ですると、ぱっちりとした目を覗きこんだ。
「きらきら光ってて、同じだな」
「うん!」
俺の言葉に、妹は本当に嬉しそうに、まぶしいほど無邪気に笑った。
その瞬間、圧倒的な歓喜がこみ上げてきた。甘く、やわらかな感情が俺を呑みこむ。気づくと唇が綻んでいた。
「一至、二美花が言ってる意味、わかるの?」
目を瞬かせながら、おふくろが訊いてきた。
俺は頷いた。
「わかるよ」
「あら、すごぉい。教えてくれる?」
俺はちらりと妹を一瞥した。妹はきょとんと見返してくる。
それからおふくろに向かって、わざとらしく人指し指を唇に当ててみせた。
「内緒」
思えば、あのときにはもう、俺は愛と呼ぶにはおこがましい、狂気じみたこの想いに囚われていたのかもしれない。
渇望し、だが決して叶わない苦しみを抱え、それでも俺は幸せだった。
その事実だけで、俺は充分だから。
だからこそ、本当に伝えたいことは伝えずに行く。
狂おしいほどの想いも、記憶のなかの笑顔も、すべて抱えて還ろう。
いつか見た、ふたりだけのガラスの海へ。