1 蝉時雨
この作品は第一回ポケスペ小説大賞応募作品です。参加期間中、あたたかなご声援を下さったすべての方に、改めてお礼を申し上げます。
お兄ちゃんが死んだ。
あたしとは十歳違いのお兄ちゃんだった。優しくて、年の離れた妹を邪険にしたりせず、よく面倒を見てくれた。絵がうまくて、いつもスケッチブックに何か描いていたのを憶えている。
お兄ちゃんは、あたしが八歳のときに家を出ていった。
当時高校三年生だったお兄ちゃんは、大学進学のことでお父さんと揉めていた。お兄ちゃんは絵の勉強をするために美大に行きたがっていたんだけれど、お父さんはそれを許さなかった。
結局お兄ちゃんはお父さんと大喧嘩をして、高校卒業と同時に家を飛び出した。
それ以来、お兄ちゃんとは会っていない。
何度かあたし宛てに絵はがきが送られてきた。お兄ちゃんの絵が描かれた、あたしへの絵はがき。文章はいつもちょこっとで、「元気か?」だとか、そんな決まり文句のようなものばかりだった。
だけど、すごく嬉しかった。
お兄ちゃんが文章を書かない分、あたしは便箋を何枚も使って返事をした。あたしはお兄ちゃんと違って絵の才能なんてなかったから、その代わりに言葉でいろんなことを伝えようとした。あたしのことだけじゃなく、お父さんのこと、お母さんのこと、友達のこと。お兄ちゃんに、少しでも知ってほしくて。
それがちゃんと伝わったかどうか――あたしにはわからない。
お兄ちゃんが出ていって八年。ようやくお兄ちゃんは帰ってきた。
死という、だれも望んでいなかった形で。
蝉が鳴いている。
お兄ちゃんは蝉の声が嫌いだった。ずっと聞いていると、無性に悲しくなってくるんだと言っていた。夏の間だけの短い命を震わせて鳴くような声が、耳の奥にこびりついて離れなくなるんだって。
今なら、その気持ちがわかるような気がした。
焦げつくような陽射しのなか、あたしは汗を拭うこともできず、じっと立ち尽くしていた。隣に並んだお母さんがすがりつくようにもたれかかってきて、肩が重い。お母さんとは反対側に立つお父さんは、きゅっと唇を引き結び、目の前の光景を睨むように見つめていた。
真っ白な棺が黒い霊柩車に運びこまれていく。お兄ちゃんを火葬場まで送るために。
お兄ちゃんの葬儀は我が家で執り行った。お父さんとお母さんが、最後はせめて家から送り出してやりたいと言って。
葬儀には想像していたよりもたくさんの弔問客が訪れた。親戚以外にも、お兄ちゃんの同級生やお世話になったっていう学校の先生が、お兄ちゃんを見送るためにやってきてくれた。
やがて霊柩車の扉が閉まると、パァンと甲高くクラクションが鳴った。出棺の合図に、蝉の声にまぎれるように響いていたすすり泣きが大きくなった。
お母さんが肩を震わせてますます強くしがみついてくる。引き絞るような嗚咽がか細く聞こえた。
お兄ちゃんの死に顔を思い出す。まるで気持ちよさげに眠っているだけのような、穏やかな表情を浮かべていた。あたしのなかにいる十八歳のお兄ちゃんよりもずっと大人びていた――だけど、確かにあたしのお兄ちゃんだった男の人。
ねぇ、お兄ちゃん。
なんで死んじゃったの。なんで生きているうちに帰ってきてくれなかったの。なんで、なんで、なんで――。
霊柩車が走り出した。もう二度と目覚めることのないお兄ちゃんを乗せて。
黒い影が門を抜けて、みるみるうちに小さくなっていく。陽炎のようにアスファルトから立ちのぼる熱に姿を揺らめかせながら、あたしたちから遠ざかっていった。
「行ったな……」
お父さんがぽつりと呟いた。その横顔は、一気に何十歳も老けこんでしまったようだった。
「……俺たちも行こうか。いつまでもここでこうしてるわけにはいかないからな」
お父さんの言葉に、あたしは頷くことしかできなかった。
のろのろと見送りの人々が動き出す。あたしもお母さんと一緒に家の中に戻ろうと踵を返した、そのとき。
「――二美花ちゃん」
名前を呼ばれた。
振り返ると、そこにはお兄ちゃんと同じ年頃の男の人が立っていた。ひょろりと背が高く、癖っ毛のせいか整えているはずの髪がぼさぼさのように見えてしまう。
「日高さん……」
お兄ちゃんの大学時代からの友人だっていうひと。あたしたちにお兄ちゃんの死を知らせてくれたのが彼だった。
「なんですか?」
「うん、ちょっと……話があるんだ」
話?
怪訝に思って眉をひそめると、日高さんは困ったような顔をした。なんて切り出せばいいのか戸惑っているように見えた。
「二美花に話とは、なんですか?」
あたしと日高さんの間にお父さんが割って入ってきた。その顔は、怯えるような警戒心に強張っている。
日高さんはお兄ちゃんの死を知らせてくれたけれど――それだけのひとだ。お兄ちゃんが死んで、お父さんは家族に対して過敏になっていた。
だけどあたしは、日高さんはそこまで心配しなくちゃならないようなひとだとは思えなかった。信頼というほどじゃないけれど、少なくともあたしに対してよからぬことをするとは考えてもいなかった。
会ってたったの二日だけれど、そう感じさせるひとだった。何より……あのお兄ちゃんの友達なんだから。
日高さんは頭を掻くと、おもむろに口を開いた。
「一至から、頼まれてたことがあるんです」
「お兄ちゃんから?」
お父さんが小さく息を呑み、お母さんがぴくりと肩を揺らしたのが、気配で伝わってきた。
「一至が……何を?」
「あいつが、結婚をしてるのはご存じでしたか?」
あたしは目を瞬かせた。
お兄ちゃんが――結婚?
「やっぱり……あいつ知らせてなかったんですね」
あたしたちの顔に驚きが浮かんだのを見て、日高さんは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「一至が……」
あたしの肩から顔を上げたお母さんが、茫然と呟く。日高さんは大きく頷いた。
「だ、だが、結婚してたっていうなら、どうしてそのひとは葬儀に来なかったんですか!」
噛みつくようにお父さんが声を上げた。
確かにそうだ。お兄ちゃんの奥さんならば、彼女こそがお兄ちゃんの死を伝えにここへ来るべきなんじゃないのだろうか。
日高さんは表情を曇らせた。
「彼女は――綾羽さんは今、入院してるんです。もともと病気がちだったんですけど、一至が死んでからは病状が悪化して……」
「そんな……」
「『本当は自分が行けたら一番いいのに、一至のご家族には本当に申し訳ない』と言ってました」
日高さんの言葉に、あたしたちは何も言えなかった。
「それで……一至から、伝言を。――二美花ちゃんに」
お父さんとお母さんがもう一度、こぼれ落ちんばかりに目を瞠った。
あたしは思わず両手を握りしめた。
「二美花だけに、ですか? 家族全員にではなく?」
「はい。あいつから、二美花ちゃんに。『渡したいものがある』と」
「渡したいもの……?」
あたしが首を傾げると、日高さんは頷いた。
「それがなんなのか俺も知らないんだ。ただ、今は綾羽さんがそれを預かってる。一至はきみに、綾羽さんのところまで取りに来てほしいって」
あたしはごくんと唾を飲み下した。
お兄ちゃん、あたしに渡したいものって何? あたしに綾羽さんと会ってほしいの?
お兄ちゃん――。
「どうする?」
日高さんが真剣な表情で訊いてくる。
「一至は、きみに全部任せるって言ってた。取りにいくのもいかないのも、きみの自由だって。ただ、綾羽さんはきみが来るのをずっと待ってる」
蝉の声が遠い。額に滲んだ汗が頬を伝い落ちていくのが、やけにはっきりと感じられた。
「行くなら、俺が連れていくよ。……どうする?」
……お兄ちゃん。
もう会えない。手紙にこめたあたしの想いが伝わったかどうか、もう確かめられない。
だから。
だからせめて。お兄ちゃんの遺したものを、この手で受け取りたい。
お兄ちゃん。
「行きます」
日高さんの顔をまっすぐに見つめて、あたしは答えた。
「行きます。お兄ちゃんがあたしに渡したいっていうものを取りに。綾羽さんに、会いに」
――だから。
「連れていってください。あたしを、綾羽さんのところまで」