【タヌキの前編】
<一>
丸山法律事務所――
都内、日本橋の九階建てのオフィスビルの最上階にその事務所はあった。ビル全体のセキュリティーが厳重で、各階エレベータホールまでは自由に出入りできるが、オフィスへは、外側ドアと内側ドアの二回、別々なセキュリティーカードをかざさないと中へ入る事ができない。
一階から八階までは、一フロアずつそれぞれ八社の法律事務所が入っていて、ビル全体が法律事務所だけのテナントで埋まっている。九階の丸山法律事務所はこのビルのオーナーだ。
厳密に言うと、九階の事務所だけは弁護士資格を持った者がいない。つまり、法律事務所でもなんでもない。インチキダミー会社である。しかし八階までが本物の法律事務所なので、外部の者に殆ど疑いを持たれることはない。
丸山法律事務所はヒットマンの派遣会社であり、平たく言うとその商売は『請負殺し屋』である。
◇◆◇
年の頃、六十歳台くらいに見える社長らしき男は、照明をおとした会議室でプロジェクターに投影されたスクリーンを見ていた。部屋では暗がりの中で数名の人影が動いている。
プロジェクターの脇にいた男、MC(司会者)が口火を切った。
「さて、皆さんお揃いですので今回の任務をご説明します。メモは取らないようにお願いします」
「まず、今回の第一実行者は謎の男『H』氏です。謎の男Hさん。自己紹介を……」
サングラスを架けた小太りの男が席を立った。
「俺が謎の男Hだ。年齢不詳、経歴も謎だ。以上」
ざわざわ…。
ざわざわざわざわ……。
「皆さんお静かに!」
「今回の標的を投影します」
迫力の二百インチスクリーン一杯にベージュ色、七分丈のパンツルックのお尻が大きく映し出された。お尻だけでも五十インチをゆうに超える大迫力だ。
ざわざわ。……うわぁ。でっけえ。女の尻だ? ……
ざわざわざわ。……え? マジかぁ? すげえ……
その場にいた数人は皆、身を乗り出した。
MC(司会者)は途端に慌てた。
「ちょっ、ちょっと。おい! 普通のアングルのやつを映せ!」
「あれえ? コレいつも先生がご覧になってるページですが……」
「…………」
MC(司会者)はプロジェクターのオペレーターに向けて小声で言った。
「これ以上余計なことを言うと、二度としゃべられないようにしてやってもいいぞ」
スクリーンは更新されて、次に正面から全身が映し出された。そこに映し出されたのは年の頃は三十歳前後の女性だった。
「国籍は日本だ。父がY国の軍隊の現役将校、母が日本人だ。本人の一般名は『ミナコ』だ。海外では『ミミコ』とも称されている」
ざわざわ。……ええ?! まさかあの、ヒットマンミミコか?
ざわざわざわ。……束になってかかっても無理ではないのか。
「そう。この世界では知らない者はいないだろう。ヒットマンミミコだ。R国でエリート軍事教練を受け、Y国で特殊部隊に抜擢された。スナイパーとしても超ド級だが、短銃の使い手でもある。狙った獲物は百%しとめる」
男は続けた。
「ミナコは今回Y国の指令により、日本国内にいるZ国の大使を暗殺しようとしている。依頼人は明かせないが、今回の依頼はこれを阻止せよ、というものだ。我々はボディーガードではない。我々に阻止せよというのは、ヒットマン、つまりミナコを消せということだ」
ざわざわ。
他の男が質問した。
「何か当局に有利な状況でもあるのか。特殊な作戦とか……。普通ではまず無理だ。こちらの被害が広がるだけだと思うが……」
「ミナコの弱点は私がよく知っている」突然、謎の男Hが言った。
「ミナコは特にデブの男に弱いのだ。さらに……」
「さらに?」
「今回は、別に怨恨の線がからんでいて、彼女を周到に殺ろうとしている者が既に存在している。それともう一人、世界最強のヒットマンも彼女を狙っている。我々は何もする必要がないのだ。傍観しているだけで目的は達せられる。ははは。こんな楽なことはない」
「デブ専だというのは? 作戦とどう関係があるのだ」
「特に関係はない。はっはっは」
質問者は黙って脇に置いていたマシンガンケースに手をかけた。
謎の男Hは一瞬慌てたようにも見えた。
「いやいや! じょーくじょーく! 大いに関係があるんだ。私は見たのとおりのデブだ。いざという時には命を懸けての色仕掛けも考えている。そういうことだ」
「…………何のことだかよく意味がわからないが……」
「まあ、見ていろ。結果がすべてを物語る、だ」
謎の男Hは、気を取り直し、にやりとほくそ笑んだ。
◇◆◇
翌朝、テレビのニュース番組では、最近都内の団地で連続百件以上の下着泥棒をはたらいて、その目撃情報から手配中だった男が、昨日地下鉄の列車内で女子高生の制服のスカートの中を盗撮し捕まって自供したという事件が報道されていた。
『逮捕された男は、謎の男Hと名乗っています。男の本名は辺見五郎。年齢三十五歳。本籍は北海道根室市、現在東京都大田区西糀谷に在住。その自称謎の男H…、いや辺見容疑者は、四年前から横浜市内の飲食店に勤務していて、女装趣味の性癖から昨年九月末に妻と離婚し…………』
このニュースを見て、丸山法律事務所では早速、謎の男Hに替わる男の人選を始めた。
「あの馬鹿。全然謎の男になってねえし……」
<二>
超一流のヒットマン、ミナコは、東京赤坂のシティーホテルでまもなく開催される、元首相の妻の還暦祝い立食パーティーの会場にいた。
招待客は、名の知れた政・財界の大物と海外の要人を中心にあわせ、全部で二十二名であったが、それぞれ二名づつの身内や友人を伴っており、さらに体格の良いボディーガードまでついているので、約二千㎡のパーティー会場は総勢九十名近い人々でごった返している。
立食パーティーではあったが、招待客の関係者以外が会場に入ることは容易ではない。入口では限定シール付き招待状の厳重チェックが行われ、同伴者とボディーガードは招待客本人が紹介して特別なデザインをあしらったブローチを付けることになっている。
ミナコはボディーガードでもないし、招待客の関係者でもない。パーティー専門のウエイトレスとして一週間ほど前にホテルに潜り込み、制服を着てちゃっかりと会場内に紛れ込んでいたのである。
丈の短い女性用のタキシード風のスペンサージャケットに、真っ赤な蝶ネクタイ。ボトムはややタイトめなプリーツスカートだ。誰が見ても、もう何年も勤めあげたベテランのホテルウーマンに見えてしまう。
ウエイトレスであるから、会場の出入りも自由である。ホテルでは外部からの参加者を厳重にチェックしている割にホテル内部の関係者のチェックは実に甘く、ミナコはその盲点をついていた。
ミナコがこのパーティー会場に潜入することの目的は何かというと、ヒットマンから連想される『暗殺計画』の実行でも何でもなく、本日のスペシャルメニューのつまみ食いである。昨年イタリアのフィレンツェで行われたパティシエの世界コンテストでグランプリの次、金賞に輝いたフランス人シェフが特別に来日し、本日のデザートを担当しているからだ。
ウエイトレスのつまみ食いは至難の業である。数え切れないほどの人の目を盗んで、つまみ食いをできるのは、ミナコが超一級のヒットマンである証でもある。
ミナコはヒットマンのプライドに賭けて思った。
……私は、こそこそと食べるつもりはない。堂々と人目に触れないように食べるのだ。私にしてみれば、そんなこと、おちゃのこさいさい、うふふのふ、だ……
――いやいや、ミナコさん。人目に触れないように食べるんでしょ? そのことを『こそこそ』と言うのだよ――
しかし、事態はミナコの知らないところで急を告げられている。
この場所で今日、ひょっとしてミナコが人生の最期を遂げることになるのかも知れないのだ。
その会場にはミナコを狙ったヒットマンが、招待客の同伴者あるいはボディーガードとして既に二名潜り込んでいる。
そのうちの一人。
かつてミナコが、ただ一度、ヒットに失敗した時のことに話は遡る。
ミナコは、標的の横たわるベッドの前を突然横切る男の子の背中を運悪く撃ちぬいてしまった事がある。その二日後、ミナコは再度標的を狙撃し任務を遂げるが、標的の孫であった男の子を巻き添えにした。
ヒットマンは、訓練を受けるとき、まず最初に一つの重要なことを頭にたたき込まれる。ヒットが許される場合は、依頼された標的に対してと自らの命を狙う者に対してのみに限られる。訓練で得た能力を使うには決して私情を絡ませてはいけないということだ。個人的な恨みによることになると、それはヒットマンではなく単なる殺人鬼だ。訓練の際には、訓練を受ける者の身内や大切な人間を殺したと思い込ませ徹底的に恨みを買うような人物を創りあげて、なおかつそれに耐えた者だけが訓練を継続することになる。
ミナコはその男の子に何の恨みもないが、許された者以外をヒットしてしまったことには変わりがない。
その男の子の父親はこの会場に今まさに潜り込んでいる。彼は、自分の父と子供の二人を失った時から、ミナコに復讐を誓う。彼は復讐を別なヒットマンに依頼するのではなく、自らがヒットマンとしてミナコに復讐を遂げることに命を懸けており、五年間の歳月をかけて専門のヒットマン教育を受けてきた。その実行の日がまさに今日、そしてこの場所なのだ。
あともう一人。
これは、もう、ただ者ではない。世界中でも現在実在するヒットマンの中で、その腕は世界一、二との名声を得ている『幻のヒットマン』だ。
その者は、先の復讐に燃える男の子の父親から、前金で一億円近い高額な対価で依頼されていて、もし自分がミナコのヒットに失敗した場合にのみ、替わってミナコをヒットすることになっている。
ミナコは、会場に入ってこそこそとつまみ食いをしていたが、次第にその鋭敏なヒットマンとしてのアンテナで、どこかしら自分を狙う者の存在を感じ取っていた。しかし、ミナコがその強烈な『匂い』を感じていたのは、二名のうち一名のヒットマンであり、それは先の復讐に燃える父親であったと思われる。いかなる場合においても、自分を狙うヒットマンが一名であると決めつけるのは危険であり、ミナコはまず相手が何名であるかということに意識を集中した。その結果、最終的に一名の単独計画であると断定した。もう一名の超一流と言われるヒットマンは、完全にその『匂い』を消していたのかもしれない。この時点で既にミナコの命は非常に危うかったと言わざるを得ない。
ミナコはこそこそとつまみ食いなどしている場合ではなくなってきた。ここにいる誰が自分を狙うヒットマンなのか……。ボディーガードは皆、見るからにヒットマンの風体である。ミナコはその他の人間を中心に慎重に観察していった。
ヒットマンである可能性を含んだ者は、ミナコの頭の中の消去法で十名に限定された。過去に何らか他人を傷つけた事があるか、もしくは今現在他人を傷つけようとしている者がその『匂い』を発していて、それをミナコは敏感に察知する。
目の悪い少年の乗った車椅子を押す背の高い女。
両目を帽子で隠した痩せた男。
下ばかり見ていて話を全くしないヒゲの男。
全身衣服が黒ずくめの男。
それと彼に寄りそう黒人の女。
異常にテンションの高い金髪の若い女。
あと、多くのボディーガードのうち二名の男。
そして他に見るからに怪しげな者二名もヒットマン候補に加えた。壁に顔を向けぶつぶつ独り言を言っている男。
「許さないぞ。殺してやる。あの尻軽女。……ブツブツ」
……自分で言っちゃってるし。でも私、尻軽じゃないから違うかな? ……
それと、タヌキの大きな着ぐるみをかぶっている完璧に場違いなヤツ。蕎麦屋の入り口などに時たま見られる信楽焼のタヌキを真似た着ぐるみだ。変な唄を歌っている。
たんたんタヌキの金の鈴。風もないのにぶーらぶら。それを見ていた小ダヌキが、父ちゃんいいもの持ってるね……。
……超下品なヤツ……
タヌキの着ぐるみはその姿から間違いなく男|(オス?)だが、中の人間は声からして女かオカマのようだ。
男六名、女三名。不明(タヌキ)一名。ミナコはこれらの十名をヒットマン候補としてマークした。
もはや一刻の猶予もミナコには与えられていない。パーティーのメインイベントが始まるまであと十分を切っている。ヒットマンはイベントが始まる前にミナコを狙っていることは明白だ。始まってからでは標的であるミナコとの位置関係を簡単には変えられないし、変えようとして動けば逆にミナコにヒットされる可能性が高いからだ。
ミナコには第一のヒットマンしか頭になかったが、その者が男であることもわかっていない。しかし、追い詰められたヒットマン特有の勘が働き、相手は男かオカマであるとまず確信した。
ミナコはメインイベントが始まるぎりぎりまで待っていて六人の男プラス性別不明の一名の中から相手を特定する方法を選択しようかとも考えた。しかし、これだけ余分な人間がうろうろしているとタヌキの着ぐるみ以外は相手の動きが見えにくく危険が高すぎると思った。そこで、その前に相手をあぶりだし、早めに特定する作戦に出た。
ミナコはあえてうろうろと動き回り、体の向きを頻繁に変えてみる。するとどうだろう。常にミナコの背中側に回る者が三名いる。そのうち二人はおそらく偶然である。
ミナコはさらに体の向きを変えた。二人が背中の方に位置した。二人のうち一人は偶然だ。あと一人。
もう一度、ミナコは体の向きを変えた。
背中に回った者はとうとう一人になり、遂にミナコは相手のヒットマンを特定することに成功した。
両目を帽子で隠した痩せた男。彼がミナコを狙うヒットマンだ。
ミナコはその後も常にヒットマンに対し完全に背中を向けて、彼がトリガーを引く瞬間を背中でじっと待った。
あとメインイベントまで二分。
あと一分。
あと三十秒。
十五秒。
突然、両目を帽子で隠した痩せた男が背広の中に手を入れた。あっという間に彼の手にはトカレフ拳銃が構えられていた。
ドウッ!!
次の瞬間、消音器を通した鈍い音と同時に男の右膝が破壊された。そして彼はその場に崩れ落ちた。
何事もなかったようにミナコは短銃をスペンサージャケットの内側の定位置にすばやくしまい込んだ。僅かな拳銃臭が彼女の胸の辺りに漂っている。
ミナコは心の中で呟いた。
……拳銃。トカレフじゃないわよ。似てるけど、マカロフPMよ。記述は正確にね……
瞬間の出来事に、周囲の者は何が起こったのか分からず、何人かが倒れた男の横にしゃがみ込んで彼の様子を伺っていた。
ミナコは皆がその男の辺りに注目している隙に、すばやく目当てだったスイーツを口に運んだ。そして、逃げようと思ったがもう一つ大きなケーキを口に含んだ。ミナコの口はどんぐりを食べているハムスターのように力一杯膨らんでいる。
ミナコが何故自分を狙うヒットマンの『膝』を撃ちぬいたのか。この場合、明らかに自分の命が狙われたのであるから、ミナコは充分に額を撃ちぬくことが許されていたはずだ。
何故額を狙わなかったか。
理由のその一。
相手はヒットマンに違いないが、素人に近いと感じた。依頼されて自分を狙っているとは思えなかった。素人が自分を狙う限りは何か深い事情があるはずだ。だから取り敢えず生きていてもらおう、の気持ちから。
理由のその二。
血が飛び散るとめっちゃやばい。会場から容易には逃げ去られなくなる。皮や肉の一番薄い部分(膝)で相手の動きを封じ込め、出血を最低限にして逃亡時間をかせぐ。むしろ、こっちの方が本音かも知れない。
ミナコはハムスターのように口にケーキを含んで会場の出入口に急いだ。
失敗した場合の世界一のヒットマンがいることを露ほども知らずに……。
出入口で彼女は劇画に登場するヒットマンのような男が行く手を阻んでいるのを見た。
彼女はかなりまずいと思い、走っていって、その劇画に登場するような男に向かって口を尖らせた。
「ちょっとすいません。そこ、通して下さい」と、言った。
いえ、言えてなかった。言えるはずない。口の中はケーキで一杯だから……。
実際は、「ぶうう、ぶうう、ぶうう、ばあああ」だった。その『ばあああ』のとき、必然的にケーキが劇画に登場するような男の顔と胸に飛び散った。
ケーキが劇画に登場するような男の顔に付きまくったことは言うまでもない。その男は劇画のように表情一つ変えなかったが、相当『アタマにきのこ、ぷんぷん』の筈である。
今はふざけている場合では断じてない!
ミナコは幻の最強のヒットマンに狙われているのだ。
劇画に登場するような男にかまっている場合ではないのだ。
主人公の命に関わる問題である。ここまで頑張ってきてミナコは死なせたくない……。でも、死んでしまうかも。筆者としては最強ヒットマンを直ちに消したい気持ちである。
チャッ!
ミナコの背後で拳銃を構える音がした。それは普通の短銃の音ではない。狙撃用ハンドガンの音だ。
その音に体で反応するのは、ミナコがかつてY国の軍事スナイパーとして、毎年、数百回訓練されていたことのためだった。
瞬間、ミナコは自分から床に倒れ込み、振り向きざま短銃を発射する。それは十五mほどの至近距離にいた相手の額のど真ん中を確実にとらえた。
いや、とらえた筈だった。
そこにいたのは車椅子に座った目の悪い少年だった。
……しまった、誤射だ! 少年をやった(殺した)。ああ、またやって(殺して)しまった!! ……
しかし、車椅子の少年は崩れなかった。