その五
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どうも、私は現地を訪問する前に想像や事前の机上調査だけで小説を書いて、書いた後になってその舞台となった土地を訪ねる事が多い様です。多分想いが溢れる事の方が先になるのでしょう。書かずにおれなくなって書いて仕舞いその後、
「本当にそうなんだろうか」
とか、
「これがあのお話の舞台なのか」
とかいう想いをもって現地を『確認に行く』、そういう事になって仕舞うみたいです。でも、これはこれで本当に楽しいものです。わくわくします。
そんなケースの一つなのですが、この程芸備線の備後落合近辺を訪ねます。家族三人で。此処を舞台に書いたお話は『真夜中の汽車』です。興味があったら読んで下さい。キンドルにアップしていますから。また駅にも私の書いた小説の冊子を一部置いて来ようと思います。私と同じ様に感じてくれる人が居るならばとても嬉しい事です。
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求めてもいない人に『ほら、これは良いよ』と勧めても有難がる事はないでしょう。感謝の気持ちだって起こって来ないに違いありません。
「何で斯んなものを私の前にもって来るのだ。何か別に底意があるのではないか」
そう思われる事だってあるに決まっています。しかも此方としては心の底からの善意でそれを相手に示しているのに。そういう『行き違い』は誰であっても屹度多いものでしょう。
だから求めてもいない人間にはあげないのが良いのです。その人が欲しがって、それで初めて自分にそれが提示出来るものなら提示する、差し上げる、それで良いと私は思っています。そして自分自身にもこの事を当て嵌めてみるべきです。欲しいのならそれを求めている事をちゃんと表明し他人に対して示さなければなりません。黙っていてそれで自分の心を見通せ、そして私の欲しいものをくれ、これは虫が良いのもそうですが幼稚に過ぎます。幻想の、それも利己的なものです。私はそれを求めているのだと明らかにすべきです。
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『生きていけなくなれば、後は独り死ねば良い』。これを本当に納得して覚悟出来る為に人は若い間、存分に動ける間に何れだけ多くの事をしておかなければならないでしょう。この世に於ける自分の使命を果たす事が出来た人にだけこの自覚はやって来ます。だから遊んでいる暇は無いと思います。自分が納得出来る人生を送っていない時人は『死にたい』とか何とか口にしますがその実、実際に死が眼前にやって来たら、
「待ってくれ、私はまだこの世で享けるべき良いものを享けていない。今はまだ死ぬ事は出来ない」
と『感じる』に違いありません。自らの死を肯う心持ちになれないのです。私はこれを恐れます。却って、
「そうか、やっと休む事が出来るか。永い一生だった。つらかった。でも、矢張私は恵まれていた」
と言いたいのです。従って私が今為すべき事は多い。私は気付く事を恐れる立場に自らを置く事は拒否します。
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自分独り生きるのか、それとも誰か別の人間を背負いその生活を支えながら生きるのか。この二途の違いは大きいです。前者に在ってはそれで何等の矛盾も無い方針が、それをそのまま後者に当て嵌めるとなると大変な間違いになります。一番分かり易いのは『ええいっ、どうとでもなれ!』と勢いで突っ走って仕舞う場合ですね。前者のそれはまだそういう方法もあり得ると思います。無計画も勢いに救われる事がありますから。しかし後者の立場に居ながら『どうとでもなれ!』と突っ込む、最早これは正気の沙汰とは謂えません。無責任でしょう。背負っている人間の存在を何だと思っているのですかという事にどうしたってなるでしょう。あってはならない事です。
けれども正にその『不自由さ』あればこそ、共に生きる実感、そこから生まれる勇気や生き甲斐を与えられる訳です。引き換えというのも変な謂い方なのですが、何ちらを自分の生き方として選択するのか、いや実現するかどうかは兎も角として抑々(そもそも)意図するのか、これは重要な問題ではありませんか。そういう事を真剣に想っている間に、即ち傍観者ではなく完全にその事の当事者として扱っている間に自分の中に価値観が形成されて行くのではないかと思います。自分自身の事としてこの事を想ってみて下さい。
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