その四
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生きる目当てを失うと先ず最初に感受性が失われます。これは心理的というよりは論理的な事態かと思います。何の為に生きるのかというその目標を失えば、その後は最早物事を感受する必要が無くなるからです。言い換えれば普段我々が何事かを感受し印象しているのは意識的或いは無意識のうちに設定しているその生きる目標をまだ失っていないからなのだと思います。無論熱い冷たい暑い寒いそれに美味い不味いの次元になったら、そんな感覚は身体の物理的維持の為のものですから生きる理由が無くても感じますが、もっと人間的な喜怒哀楽、殊に哀感などは生きる理由を失うとほぼ一掃されて仕舞う感があります。最早淋しくないのです。もっと空間的に空洞なイメージ、虚空という言葉が似合うものになります。そしてそれはもう人間らしいという表現から遠い遠いものになります。
生きる理由というのは人が生きる根幹です。精神的存在全部と物理的肉体的存在の一部に大きく被さっている又とは無い大切なものです。それが雲か霧かの向こうに朧気に霞んでいるというのに他の事に時間と労力を用いている場合ではないでしょう。金鉱石を掘る山師が裸足で逃げ出す程の熱意と偏執をもって、病的な熱心執心をもって、自分の根幹を成すものを見付け出す事に力を尽くすべきではありませんか。私ならそう思いますが。
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見えていないというのは面白いもので、此方には見えているその人の眼前足下の落とし穴に見ているうちに見事に落ちるのです。そして此方が見物していると、
「人生は無情だ。予見出来ない。私は隙が無い様に、つけ込まれる事が無い様に、油断なく生きて来たのに」
とどうも本気で運命を呪っている様子です。
「私が甘かったー、馬鹿だったー」
とは決して言いません。恐らく本気でそうは思っていないのでしょう。自身の事は純然たる被害者にしか思えないのでしょう。
頭脳の働きが明敏である事とは全然関係がありません。知恵の輪を数秒で解いて仕舞う能力などこの場合全く必要とはしません。広範な知識も無用です。単純に澄んで落ち着いている人間らしい心一つ維持していればその眼前足下の深い穴、見えぬ筈がないからです。人がしなければならぬ事とは恒に能力の研鑽などよりは遥かに人間らしさを保っている事です。他人の真実の不運を可哀想に思い、同情し、出来れば援助したいと感じるあたたかな人間性です。自己一個の保身などではなく共に生きんとする情愛です。それを大切に生きて下さい。あまり好きな言葉ではありませんが人生の『成績』だってそっちの方がずっと良いのです。
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値打の無い下らないものは、いつも宣伝自己広告と共にやって来ます。『私を見付けて下さい』と自分を指差して接近して来るのです。そういうものはもうその接触の形態だけで既に意味の無いものである事を自ら露見させて仕舞っています。此方が出逢わねばならぬもの、その価値が十分にあるもの、それは此方がわざわざに出掛けて行かなければなりません。自分がそれを探し求めるという過程が最初から条件として入っているのです。宣伝や広告など死んでもありません。非常に目立たないまま、しかも永遠にその場に在る訳でもありません。自分の感覚、人生の経験、そして願い求める渇望、全部が揃って初めて見付かる、そういうものではないかと思います。
自らが探し求めるという営みを必須のものであると承知して下さい。そうでないと最初からもう緩い、甘い。その甘さを、私が事態に即した謙遜を知らぬと謂うのです。その背後にまだまだ見えてはいない眼を十全に予想出来るのです。
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不運不幸が連続してやって来る場合も慥かに人生にはあるでしょう。しかしそれは身から出た錆でなければ続々と幸運が続くの同様に滅多に無い事であり、更には永く続くものでもありません。しかし兎に角その不運不幸が連続してやって来る時には如何にそれに対処するか試されているのです。亀みたいに首を竦めて何もせず嵐が去るのを待っているべき時ではありません。そういう場合に『適切に』対処する訓練の時ではないですか。その時を冷静に、正しく、納得出来る様対処する訓練が出来ていて、初めて幸運がやって来た時に上滑りせず浮足立って転んで致命傷を負うなどという事が防げるのです。ここをよく理解しておいて下さい。
『来るなら来い』、それで良いのだと思います。自分が納得して生きる為の訓練は日々続くものです。それがやって来たら悲嘆に暮れて運命を呪う、どこかおかしいと私は思います。
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