その一
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私を支えているのは人が通常見落とし易い物事の本質の把握でもなく、理知的に訓練され常人の及び難い領域にまで高められた何らかの精神的能力でもありません。若しも私がそういったものを自分の支えにしていたとしたら疾うの昔に私は絶望していたでしょう。それも自分がそういう何かの意味に於ける高次元を実装出来ない人間であるという事実に拠るのではなく、抑々(そもそも)理知一般に対する自分の根源的な認識能力の限界に拠ってです。高い能力資質を身に付ける事以前に、この私はそれらの客観的な知識なり技術なりを一般に正しく認識出来るのだろうか、私の感覚はこれら物事の客観的な把握に際し必要な能力を私に保証してくれるのかという一点に於いて、私は到底確信をもつ事が出来ないからです。これは如何なる能力や資質にあっても根源的で基礎的な次元の話です。そこに疑いを感じたら、万全の信頼を置く事が出来ないのであれば、その上に幾ら何事かを積み上げたとしてもこの根源の箇所への意義の疑念一つで全部崩れます。私はそれを自身の生涯の様相として到底許容出来ません。それは私にとって生きているという範疇に区分されません。
私は能力や資質によって、それらに支えられて生きる事が出来るのではありません、如上の理由でそれは私にあっては不可能です。私を支えるものは『信』です。父が私の名の一文字に与えてくれた信、即ち信じる事に拠って生きるのです。では、何を信じる事に拠って。私が触れたものの中で最も尊いもの、その価値を信じる事に拠って私は支えられ生きる事が出来るのです。私が生きて見、触れたものの中で最も尊いもの、それは直ちに私の父母です。これが私の生きている構図です。また多分、否必ず、この先を生きる構図でもあります。それ以外にはありません。私のこの指針は半世紀五十年に亘って一度として私を裏切る事はありませんでした。それどころか。私を支え導いたのもこれ、この指針一つでした。
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奥さんと息子が市立図書館から借りて来てくれた、昔の鉄道の本。写真集です。私が子供の頃現実に見た昔の光景が写真に写っていました。解説を読み、今まで知らなかった事実も知る事が出来ました。
『そうだったのか』。良い気持ちですね。爽快ですね。この、謎が繋がる感じが私はとても好きです。小さな感動小さな喜びです。しかし束になると、斯ういうものは本当に勁いのですよ。
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私は逃げ足が速い事をもって人に自慢しようとは思いません。便利ですからその能力を実地に用いる事をするのはあるかも知れませんが、それでもそれを自慢しようとは思いません。またその逃げ足の速さに就いて講習代を貰って誰かを教育訓練しようとも思いません。何ちらかというと自分の中にこっそりと養い続ける性質であるものの様に思います。
ネットで様々な能力資質の育成の伝授を謳っている講座を見ると私はそんな事を思います。私が利用しないのは勿論なのですが、よくまあ斯んなものを教えるからといってお金を取ろうと思うものかと、半ば驚き半ば呆れます。受講する方もする方です。あなたの人生、他にする事は無いのかと感じます。繰り返しますが、私は引っ掛からないので別に大丈夫なのですが私が引っ掛かるか否かに関係無く嫌な気持ちになりますね。もっと所謂義侠らしいものはこの世に見えぬものでしょうか。本当に。
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頭の働きが鈍いから馬鹿なのではなく、故意に見ようともしない、わざと目を背けているから馬鹿なのです。これは過失ではありません。十二分に意図的です。立派に計画的にして主体的です。従って責任を逃れる事が絶対に出来ません。
人が破滅に陥る時というのは初手からこの意図的な要素が明確に自覚されています。だからそれは破滅なのです。自分の人生です。恐ろしい事ですが、見るべきものから顔を背けない事を勧めます。
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