第3章 (14)
その事件が起きたのは、例によって朝のSHRの時間だった。
いつものように福原が出欠をとり、連絡事項を告げた。その後で、福原は少し苛立ったような口調で言い始めた。
「試験前にこんなことを言いたくはないが、宮本__」
教室内に緊張が走る。秀紀はこっそり宮本の様子を窺った。彼はだらしなく椅子にもたれたまま、憎悪に燃える目で福原を睨みつけていた。
「随分前の数学の課題が提出されていないそうだ。一体、何度言えば分かる? 課題の提出状況も内申に含まれていると再三警告したはずだ」
宮本はすぐには言い返さない。だが、口元がぴくぴく引きつっている。プライドを傷つけられて怒り心頭に発しているのだろう。
「君達全員、よく覚えておきなさい。大事なのは試験の成績だけではない。数に限りのある特待生の枠を獲得した自覚を持って、全校生徒の模範となる行動を__」
「うるさい」
宮本の低い声が響いた。
「何だと?」
「うるさいって言ったんだよ」
宮本がゆっくりと立ち上がる。周りの生徒が、思わず彼から距離をとった。
「偉そうに説教垂れてんじゃねえよ。お前の話なんて誰も聞いてねえんだよ」
宮本は福原を睨み、大声で言った。
「学校から出てけ、外人!」
宮本に賛同する者は今度ばかりはいなかった。皆が凍りついていたからだ。
福原が口を開く。
「今お前は、俺が外国人だから腹を立てたのか」
落ち着いた口調で福原は問いかける。
「それは違うな。俺がお前に対して「偉そうに」説教をしたから嫌だったんだろう。だったら俺への非難に「外人」という言葉を使うのは的外れだ。的外れだし、非常に幼稚。早急に改めなければ痛い目を見るぞ」
福原は手帳を閉じ、教室を見渡した。
「SHRはこれで終わりだ。1限の授業の準備をしなさい。以上」
そう言って、教室を出て行った。
いつもなら宮本とそのグループがにぎやかに福原への悪口を言い始めるけれど、今日はそんな気分にもならなかったらしい。いつもより静かな教室で、秀紀も粛々とワークやノートを取り出す。今日は、4限目に古文の授業がある。またさっきみたいな雰囲気になるのかと思うと、胃が痛くなる気がした。
4限の本鈴が鳴って、教室に入ってきたのは福原ではなかった。
「どうも、お疲れ様」
数学担当の香野(秀紀にとっては吹奏楽部顧問のイメージの方が強い)がにこやかな表情で入ってくると、室内の空気が明らかに緩んだ。橋場が手を挙げて質問した。
「4限は古文じゃなかったですか?」
「変えてもらいました。ちょっと、数Ⅱの進みが遅かったからね」
「福原センセが逃げたとかではなく?」
「違います」
教卓に資料を置いて、香野は微笑んだ。
「それでは、授業を始めましょう。号令お願い」
香野の授業は、とても分かりやすい。時たま冗談を交えながらさくさくと解説し、適度に問題を解く時間を挟み、退屈させる暇をあまり生徒に与えない。声を荒げることもめったにないので、びくびくしながら授業を受けている生徒もいないだろう。いつキレるか分からない先生っているもんね。
あっという間に時間は過ぎて、終了10分前となった。これが終わったら昼休みに入ることもあり、何人かの生徒が腹を鳴らしたり、そわそわし始めた。香野はそれを咎めはしなかったが、ふとチョークを置き、柔らかい笑みを浮かべて言った。
「皆さんは、福原先生がどうしてあんなに提出物についてうるさく注意するのか、知っていますか?」
はい澤田君、と香野は目があった秀紀を挙手した。
「えっと……提出物を出さないのはよくないことだから?」
それ以外に何があるのだ、と思ったが、香野は首を振る。
「今の答えだと、半分しか点数をあげられないな。実はこの話は滅多に生徒にはしないんだけど、課題の提出状況は結構シビアに、単位に反映されるんです。例えば数学の試験で満点をとっていても、課題を全く出していなかったら、取得できる単位は70%にしかなりません。特進クラスは尚更厳しくチェックされているから、もっと低くなるかもしれないね。皆さんの中で、1年次の総合成績が思ったより低かった人がいるでしょう? そういう人たちは、提出物や普段の素行などで点数を引かれているんです」
教室内は静まり返った。
「こうした成績のつけ方を、生徒に開示する義務は我々にはありません。だから、ほとんどの教員が生徒本人には警告もせずに点数を都度引いていると思います。勿論、香野もそうです。自分の意志で提出物を出さない人にわざわざ教えてあげるほど、親切にするつもりはありませんから。でも、何とかして引かれる点数を最小限に留めてあげようと努力している、馬鹿みたいな教員もいるんですよね」
宮本君、と香野は笑顔のままで視線を向けた。
「福原先生が君の代わりに何度も香野のところに謝りに来るから、言ってやりました。あなたが生徒の代わりに謝罪したところで何の足しにもならないから、もうやめて下さい。時間の無駄です。生徒本人がきちんとやるべきことをやらないと、何の意味もない。やる気のない生徒を救うほど我々は暇ではありません」
時計をちらりと見て、香野は続けた。
「普通コースの生徒達の中に、君達以上に努力している生徒は何人もいます。努力が実った生徒への報賞は、もっと流動的であるべきだと香野は思っています。特進クラスという場所にあぐらをかいて、学業をおろそかにするどころか、他人を貶めることばかりしている生徒には、それなりのペナルティが与えられるべきです。……と、香野は教頭や理事長に言ってみたことがあります」
自分の言っていることが分かりますか? と香野は問いかけた。重苦しい沈黙が答えだった。
「現実問題として、もし今福原先生が君達の担任を辞めたら、次をやりたいという教員は1人もいません。副担任の内海先生に聞いてみたけど、絶対嫌だと言われてしまいました。昨年度は大石先生が心痛で退職されて、福原先生も今胃薬をがばがば飲んでいますからね。次に誰が担任になっても、彼らより上手くやれるという猛者はちょっといなかったみたいです」
チャイムが鳴った。おっと、と香野はわざとらしく腕時計を見た。
「ごめんね、長々と話し過ぎてしまったみたいですね。ではこれで授業は終わりです。お疲れ様」
宮本が慌てて号令をかける。香野は悠々と教室を出ていった。
放課後秀紀達が部室にいると、美里と福原がやってきた。
「あら、2年生の皆。テスト勉強?」
「はい」
美里はちょっと眉尻を下げて言った。
「ごめんね、ちょっと私達もピアノの教室を使いたくて……今日だけ別のところで勉強してもらってもいいかしら?」
「あ、はい! 今片づけます!」
「ごめんね~」
美里が携帯をいじっている間、福原は黙々とピアノの準備をしていた。
秀紀が近づくと、福原は顔を上げた。
「どうした、秀」
「先生……大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫大丈夫」
鷹揚に手を振る福原。
「僕まだ何のことか言ってないですよ」
「どうせクラスのことだろ」
「まあ、そうですけど」
「心配するな。お前は試験と拓の勉強に集中しろ」
「でも、先生胃薬飲んでるって聞きました」
「誰がそんなこと言っていた?」
「香野先生です」
「余計なことを……」
「きっと香野先生も心配してるんですよ」
「あの人は俺の弱みを握りたいだけだ」
携帯を見ていた美里が、そっと声をかけた。
「先生、そろそろ……」
「あ、じゃあ、僕帰ります」
「お疲れ様」
手を振る顧問と部長にお辞儀をして、秀紀は教室を飛び出した。
「秀、何やってんの」
真衣と拓が階段のところで待っていた。
「あれ、千早は?」
「竹田って奴と勉強するって」
「ヨシキ君?」
「下の名前は知らないけど」
秀紀は苦笑いした。
「あんたも柚里と勉強すれば?」
「いや、この前嫌なこと言っちゃったし」
「謝ればいいじゃん。呼んであげようか?」
「ま、待ってくれ。まだ心の準備が」
「もう、意気地なし!」
2年生がいなくなると、1人の女子生徒がB棟にやってきた。階段を少し登っては立ち止まる。けれど最後には、ピアノのある教室に辿り着いてしまった。緊張で早鐘を打つ胸を押さえながら、教室の中を覗いた。
「……こんにちは」
「聖華!」
中にいた美里が、入り口に駆け寄った。そして、ためらう聖華の肩を抱き、優しく言った。
「待ってた。来てくれてありがとね、聖華」
「いえ……試験期間なのに、すみません」
「こちらこそ。試験はどうするの? 受けに来る?」
「あ、追試を受けさせてもらえることになりました」
「よかった」
福原は、ピアノの側で2人を待っていた。
「歌いましょっか」
「……はい」
発声練習をいくつかした後、美里と聖華はコンクールの曲を歌い始めた。おずおずと、しかし次第にのびやかに歌い出す聖華を見て、美里はそっと微笑んだ。
部長として、聖華にできることは何か。悩んだ末に思いついたのが、一緒に練習することだった。今日は、厳しい指摘も、暗譜もなしでいい。ただ、楽しく歌ってほしい。
夕焼けで赤く染まる教室で、2人だけの同声合唱はいつまでも止まらなかった。




