第3章 波乱と苦難の5月(8)
その日の4限目が終わり昼休みになると、秀紀は弁当を持って立ち上がった。
「ここで食わないのか?」
隆が尋ねた。
「うん、部室で食べる。拓と勉強しようと思って」
「そうか。頑張れ」
「隆も来る?」
「いや、やめとく。福原が来たら嫌だし」
「昼休みなんかに来ないって」
「オレも昼練行こうかなぁ」
隆は腕を組み、考え込んだ。彼はバドミントン部に所属していて、インターハイ出場を目指して毎日熱心に練習している。
教室内を移動している時、あちこちから剣呑な視線を感じた。秀紀はそれを敢えて無視して、素知らぬ顔で廊下に出た。
國田や宮本の言葉が引っかかり、少しだけどきどきする。福原を庇ったことで、自分もいじめられるのだろうか? 朝は、隆が取りなしてくれたけど。
1年以上のつきあいから、宮本の強情さは分かっていた。彼が敵認定した人間はいつまでも敵だし、彼らの中では自分たちがいつでも正しいのだ。秀紀たちクラスメイトの意見なんて、端から気にしていないのだろう。彼らは無敵だ。成績も良く、運動部のエースで、裕福。コミュ力も高い。先生たちでさえ、宮本たちに媚びていると露骨に感じる時がある。学校生活で思い通りにならなかったことなど、今までになかったのだろう。
(きっと、嫌われたな)
朝の自分の発言を思い起こし、秀紀はため息をついた。これまで、ちょうどいい距離感を保ってきたのに。でも、まあいいか。何とかなるでしょ。自分ぐらい味方してあげないと、福原がかわいそうだ。
部室に向かう途中で、拓と合流した。おにぎりとセカバンを持っている。
「拓! 午前中の授業、何だった?」
「数学A、現国、化学、コミュ英」
「内容分かった?」
「数学は全然……」
「おけ、じゃあ昼休みは数学の復習やろう」
「悪い、ありがとう」
「どういたしまして-」
部室には、先客がいた。千早だ。椅子に座って、たった一人でパンを食べている。
「やあ、千早」
千早は顔を上げて、軽くうなずいた。
「オレたちもここで食っていいか?」
「もちろん」
椅子を持ってきて、秀紀と拓も食べ始めた。拓は、秀紀が読めと押しつけた児童書を開いた。
「メシの途中くらい、休んでいいぜ」
「いや、それが、結構面白いんだ」
千早が目を瞠る。
「おお! さっそく効果が……」
「どのシーンが一番好き?」
「ごちそうが出てくるところ」
千早が噴き出した。
「拓らしいね」
「料理本でも読ませればよかったかな」
秀紀は苦笑した。
「そういえば、千早は真衣と一緒じゃないの?」
千早は首を振る。
「真衣は……教室で友達と食べてると思う」
「誘えば良かったじゃん」
「……別に」
千早はパンを食べる手を止め、目を伏せた。
「私も、いつも真衣にべったりじゃないし」
「喧嘩でもした?」
「なんでそうなるの。してないよ」
「だって、最近ずーっと元気ないだろ。ほら、僕らに話してみなさい」
「福原先生の真似?」
すると、何故か拓が苦い顔をした。秀紀はあまり気にかけず、胸を叩いてみせた。
「そうそう。先生今ちょっと大変だから、代わりに僕が相談に乗ってあげる」
「大変? どうして?」
「クラスの皆がさ、先生を学校から追い出すって息巻いてるんだ。今がチャンスだって。こりゃもう戦争だね、戦争」
「……チャンスって、オレのバイトのこと?」
「うん。……あ、拓のせいじゃないから、気にするなよ」
拓は顔を強張らせ、黙り込んだ。千早が質問する。
「……秀も戦うの?」
「分かんないけど、ちゃんと皆に言ったよ。そんなことやりたくないって。だって先生は僕ら合唱部の仲間だからね」
「そんな、ワンピースみたいな理由で……」
「へへへ、かっこいい?」
「かっこいいというか、単純。それであんたまでいじめられたらどうするのよ」
「うーん、まあ、なんとかなるかなーって」
「ならないよ」
千早がきつい声で言った。
「気をつけてね。いじめなんて本当にすぐ始まるんだから」
「……やっぱり何かあった?」
むっつりと口をつぐむ千早の横で、拓は教科書を開いていた。
「勉強するわ。秀、ここ教えてくれ」
「あ、うん」
拓は張りつめた表情で、秀紀の解説を聴いていた。
放課後になり、部員たちが集合した。聖華は今日も休みだ。
「先生! せいちゃん本当に大丈夫なんですか?」
楓が福原に詰め寄った。
「もうずーっと学校に来てないし! LINEにも全然返信がないんです!」
「おっきい病気とかじゃないですよね?」
紗弥香の言葉に、福原は首を振った。
「体調に問題はない。ただ……あの子は少し、学校に苦手意識を持っていて……」
「せめて部活だけでも出てこられませんか? それとも、部に来るのも嫌とか……?」
「そんなことはない。君たちと友達になれて嬉しいと言っていた」
「じゃあ、あたしたちがお家に行っちゃいけませんか?」
「あ、それいい!」
紗弥香が声を弾ませた。だが、福原は首を振る。
「聖華には、君たちが心配していると伝えておく。あまり急かさず、彼女の方から動くのを待ってくれないか」
「分かりました……」
楓はまだまだ納得していない顔だったが、渋々引き下がった。会話をこっそり聞いていた美里は、聖華への対応について思案した。このままだと、退部の可能性もある。先生は待てと言うけれど、一度きちんと本人から話を聴いた方がいいだろう。
その日の練習が終わると、秀紀たちはまたイントロクイズを始めた。御影の少し調子が外れた歌を聴いて、やいのやいのと騒いでいる。美里と優路はいつもなら福原と会議を開くのだが、今日は早々に帰っていった。模試が近いらしい。
真衣と千早もイントロクイズに興じていた。(心配していたように、喧嘩をしたわけではないようだ)1年生たちもだ。拓はこっそり部室を出た。
部室の隣の教室で、福原がピアノの練習をしていた。拓が近づくと、福原は手を止めた。
「拓か。どうした?」
手招きをしながら、福原が微笑む。拓は呼ばれるままにピアノの近くに椅子を引いて座った。
2人で話すのは、あの日以来だ。こっそりバイトをしていたことを見抜かれた、連休最後の日。
「秀と勉強してみて、どうだ?」
拓は床に視線を落とした。
「あいつの教え方は、わかりやすいです。……でもオレ、ちゃんと理解できてる気がしません」
「まあ、まだ始めたばっかりだからな」
「はい……」
始めたばかりと福原は言うが、中間試験はもうすぐだし、期末試験もきっとすぐにやってくる。今のままで、学年トップなどとれる気がしないのだ。
良い成績を取り、学費を少しでも免除してもらう__これがバイトを辞める条件だった。両親はそれを受け入れてくれたし、秀紀たちも勉強を教えてくれる。バイト先の店長も、拓の退職を惜しみながらも激励してくれた。拓の試験結果に、あまりにも多くの人々の思いが乗っかっている。それは理解していたはずだった。
だが、本当なら真っ先に気づいていなければいけなかったことに、自分はあまりにも無頓着だった__福原の穏やかな顔を横目で見て、拓は唇を噛んだ。自分のせいで、福原が立場を悪くした。出口先生に怒られ、同僚から白い目で見られ、自分のクラスの生徒には反抗されて。
「頑張れ。お前なら出来る」
福原に肩を叩かれ、拓はぱっと顔を上げた。
「先生、すみませんでした!」
「……どうした? いきなり」
「オレ、やっぱり本当のことを皆に言います。悪いのは先生じゃなくてオレなんだって」
福原が眉をひそめた。
「何故?」
「だって、オレのせいで先生がいじめられます! 秀から聞きました、クラスの奴らが先生を追い出そうとしてるって」
「あいつら、そんなことを企んでいるのか」
福原は笑った。
「心配するな、負けはしない。拓は勉強に集中しなさい」
「でも!」
「それに、本当のことを言われたら、そっちの方が俺は困る」
告げられた言葉に、拓は息を呑んだ。
「今回俺がしたのは書類の偽造だ。うっかり忘れていたのよりもずっと罪が重い。知られたら、まず間違いなくクビだろうな」
偽造。テレビでたまに見かける単語が飛び出し、拓は青くなった。
「そんな……」
「まあどうしても良心の呵責に耐えられないというのなら、好きにしてくれていい。だが……」
福原は真剣な表情で、拓の目をのぞきこんだ。
「このまま黙って、お前が良い成績をとってくれたら、俺は何よりも嬉しい」
拓はうなずくしかなかった。
「……はい」
福原はまた笑みを浮かべたが、突然声を潜めて言った。
「誰かが来る」
拓の耳にも、廊下を歩く足音が届いた。
「秀たちでしょうか?」
「違う。皆部室にいるはずだ」
カツカツと固い靴音をたてながら近づいてくる誰かを待つ。きっと3年生が忘れ物で戻ってきたんだ。拓はそう思ったけれど……
「お疲れ様です~」
教室に入ってきたのは、吹奏楽部顧問の香野だった。福原の口元がひきつった。
「……どうも」
ずかずかと近づいてきた香野は、拓に顔を向けた。
「定島君だよね? ちょっと今お話いいですか?」
「えっ」
戸惑う拓の側で、福原が尋ねた。
「何か用か? 教会コンサートのことなら真衣に__」
「自分は今定島君と話したいんです」
香野はぴしゃりと遮った。
「福原先生にいてもらわなくて結構ですよ」
「いてはまずいのか?」
「いいえ、別に」
香野は椅子を引いてきて、拓の前に座った。そして、柔らかな声音で話し始めた。
「定島くん、1年の冬からバイトしてたんだよね。それでさ、その件で個人的に気になることがあるんだけどさ」
優しい口調で、にこにこと香野は言った。眼鏡の奥の黒い瞳が、きらきらと輝いている。福原をちらりと見ると、彼は険しい顔で香野を見つめていた。
「そこにいる福原先生が、定島君のバイト申請書をずっと持っていたって聞いたんだけど。間違いない?」
「そうだ」
福原が答えると、香野は彼を見もせずに言った。
「自分は今、定島君に聞いているんです。……どう? 定島君」
「……言う、通りです」
不本意だが、そう答えるしかない。福原の首がかかっているのだ。
「でも、それって本当なのかな?」
拓はぞっとした。血の気が引いていく音が、香野の耳にも届いているかもしれない。香野が首を傾げる。
「自分はね、連休前に、職員室でこんな会話を聞いたんです。出口先生に、福原先生が「定島君はバイトをしていないか」と聞いているのをね。出口先生は「していないはずだ」と答えていました。きっと、君の授業中の居眠りがずっと続いていたから、福原先生に苦情が来たんだろうね」
香野は笑みを深めた。
「連休明けに福原先生がこっぴどく叱られているのを見ながら、自分は思ったんだよね。申請書を事前にもらっていた人が、出口先生にわざわざあんなことを聞くかなって」
「その時は忘れていたんだ。連休中に机の整理をしていて、気がついた」
「いいえ、それは違います。あなたは連休中ずっと部活動の方に出ていたし、職員室にいた時も机の整頓などしていませんでした。他の先生にも裏は取っていますからね」
香野の否定に、福原が固まった。
「さて、定島君。香野はこう思っています。君が申請書を1月に出していたというのは真っ赤な嘘で、本当はつい最近書いたんじゃないかって」
拓は首を振った。
「……違います。オレは1月に申請書を出しました」
「嘘だね。福原先生は記憶力が良い。そんな大事なことを忘れるなんて信じ難いな」
「嘘じゃ……ありません」
勿論、嘘である。だが、それは絶対に白状してはいけない。汗をだらだらかきながら、拓は首を振り続けた。
「じゃあ質問を変えようか。連休前後で、福原先生とどんな話をしましたか」
「言いません! 絶対に……!」
「ふうん、そうですか」
香野は目をすっと細めた。
「ま、墓場まで持っていくつもりならどうぞ、頑張って」
そう言って香野は福原に目を向けた。
「自分は今、この件を他の先生方にすべきかどうか検討中です」
「証拠もないのに__」
「ええ。でも、俺の言うことなら皆は信じる」
香野は立ち上がり、福原に顔を近づけた。
「今日したこの話を、よく覚えておいてください。合唱部とはこれから合同演奏がありますからね、仲良くしていきたいと思っています。だから、」
香野が低い声で言った。
「教会コンサートを辞退するなどと、二度と抜かすな」
香野が出て行った後、拓は福原を見た。
「教会コンを辞退……? そんなこと言ったんですか?」
「……まあな」
「どうしてですか、皆楽しみにしてるのに」
きっと誰も、知らないはずだ。福原は顔を背け、素っ気ない声で言った。
「お前には関係ない」




