第3章 波乱と苦難の5月(5)
その日の終礼が終わると、秀紀はすぐさまリュックを担ぎ、福原に呼びかけた。
「先生! 部活に行きましょう」
「あ……ああ」
秀紀の勢いに福原は若干引いているようだったが、構うことはない。邪推と悪意が渦巻く(言い過ぎかも)この教室から早いとこ逃げ出したいのだ。
教室を出るなり、福原が呆れた声で言った。
「お前、友達と連れションするタイプだろ」
「しませんよ!」
不当な偏見に、秀紀は抗議した。
「僕はただ、合理的に動きたいだけです。ほら、先生も僕もどうせ部室に行くんだから、一緒に行った方がお得じゃないですか」
「何が合理的だ、せっかく職員室で仕事をするつもりだったのに」
「でも今だったら、職員室よりも部室の方が居心地良いんじゃないですか?」
「それは嫌みのつもりか? 良い度胸だな」
言い合いながら歩いていた二人は、自販機の前に一人の女子が佇んでいるのに気がつき、足を止めた。千早だ。財布を出すでもなく、ぼんやりと自販機を眺めている。
「千早ー!」
秀紀が大声で呼ぶと、千早は一瞬びくりとして、のろのろと振り返った。
「何買うか迷ってんの?」
「……まあね」
そのくせ千早は自販機に背を向け、一本の飲み物も買わずに秀紀の隣に並んだ。
「あれ、喉渇いてんじゃないの?」
「ううん、いいの」
福原が心配そうに千早を見下ろした。
「最近ずっと元気がないな。何があった?」
「別に何も。大丈夫です、先生」
大丈夫じゃなさそうな返事に、秀紀と福原は顔を見合わせた。
「どうしたんだよ、千早。まさか千早もバイトやってるとか?」
「それは勘弁してくれ」
千早はちょっと笑った。
「ううん、バイトはしてないよ。大丈夫」
「担任と上手くいってない?」
「まっさか、うちのクラスじゃあるまいしー」
「……秀、お前今度居残りだ」
「嫌です!」
くだらないやりとりをしていた秀紀と福原だが、千早の表情を見てすぐにやめた。
「体調でも悪いのか」
「真衣とケンカした?」
「まさか、いじめにでもあってるんじゃ__」
「もー、ほっといてください!」
とうとう千早が切れた。
「大丈夫だって、さっきからずーっと言ってるじゃないですか!!」
「ご、ごめん」
千早はふんと鼻を鳴らし、さっさとB棟の階段を登っていった。秀紀と福原も、慌てて後を追いかける。
B棟の4階に着くなり、部室から駆けてきた楓にぶつかりそうになった。
「おっと、危ない」
「あ、すみません!」
楓は動揺しているようだった。荒く息を吐き、目を大きく見開いて、秀紀たちに訴えた。
「大変です!」
「ど、どうした?」
楓は息を整えてから、言い放った。
「吹奏楽部が、カチコミに来ました!」
秀紀がとっさに思い出したのは、昨年の嫌な出来事である。前部長の廉と吹奏楽部の部長が殴り合いの喧嘩をして、どちらの部活も活動停止になったのだ。
「落ち着いて、楓。まずは体制を整えよう。こっちは人数が少ないけど、団結して部を守るんだ」
「お前こそ落ち着け、秀」
秀紀をたしなめてから、福原が楓に尋ねた。
「とにかく、吹奏楽部の誰かが来たんだな。何の話か聞いたか? 部室には今誰がいる?」
「私と紗弥香だけだったんです! そこに吹部の先生と、2年の部員が来て」
「はあ」
「大事な話があるから部員と先生を早く呼べって言うんです!」
「相変わらずの上から目線だな」
「大事な話って何でしょう?」
「聞いてみなけりゃ分からない」
「本当にカチコミだったらどうします? 合唱部を乗っ取ろうとしてるとか!」
「向こうに何のメリットがあるんだ」
「誰がカチコミですって?」
柔らかな、しかしよく通る声が廊下に響いた。福原の顔が傍から見て分かるほどに強張る。
「妙な言いがかりはよしてもらいましょうか」
吹奏楽部顧問の香野が、部室から歩いてくる。その後ろに付き従う女生徒に気がつき、秀紀も固まった。
「……ユズ」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、彼女の名を呼んだ。高島柚里も、まっすぐに秀紀を見つめていた。
合唱部員が集まると、香野はにこやかに言った。
「今日は皆さんに提案したいことがあって来ました。例年、6月末頃に教会でコンサートを行います。ご存じの通り、去年はハンドベル部が演奏していましたね」
ご存じどころではない。昨年の経緯を覚えている2・3年は、疑いの目で香野を見た。
「単刀直入に言います。今年は、吹奏楽部と合唱部で合同演奏をしませんか? きっと双方、良い経験になると思うんです」
秀紀は驚いた。まさか、吹奏楽部側からそんな提案が出てくるなんて。でも、面白そうだ。ただ一つ、大きな問題__フラれたばかりの相手、柚里と顔を合わせなければいけないことを除いて。
美里がそっと手を挙げて、尋ねた。
「コンサートの構成は、どのようにされるおつもりですか?」
「合同演奏と、それぞれの部単体での出番を設けようと思っています。ただ詳しいことは、実行委員の柚里と話し合ってもらいたいな」
香野が、柚里を促した。柚里は一歩前に出て、透き通るような可愛い声で言った。
「教会コンサートの実行委員、高島柚里です。皆さんと良いコンサートを作っていきたいと思っています。よろしくお願いします」
頭を下げた柚里に、美里や優路、1年たちが拍手を送った。
福原が口を挟む。
「ちょっと待て、急にそんな話をされても」
「何を仰います、福原先生にもこの話はしたじゃないですか」
「聞いてないが」
香野はひょいっと眉を上げた。
「これは申し訳ない。うっかり伝えるのを忘れていたみたいです」
「……ああ、そうですか」
楓が無邪気に尋ねた。
「福原先生へのあてつけですか?」
香野は楓を見て、首を傾げた。
「そう見えるのなら、そうかもしれないね」
凍りついた部室の空気を砕いたのは、柚里だった。
「あの、すみません。香野先生は本当におっちょこちょいなんです。悪気があるわけじゃありません」
柚里は合唱部員と福原を見回した。
「私は、合唱部の皆さんと一緒に演奏ができたら、本当に嬉しいです」
美里が応えた。
「私も、すごく楽しみだわ。よろしくね、高島さん」
優路もうなずいているし、1年も新しい本番にわくわくしているようだった。けれど……。
「そっちからも1人、実行委員を出してほしいな。澤田君とかどう?」
指名され、秀紀はうっと息を呑んだ。
「えっと……僕は……」
柚里が秀紀を、張りつめた表情で見ている。彼女が今何を考えているのかがさっぱり分からず、秀紀は二の句が告げずにいた。
その時、真衣がまっすぐ手を挙げた。
「私がやります」
柚里が目を見開いた。真衣は挑戦的に微笑み、右手を差し出す。
「よろしく、高島さん」
柚里の眉根に皺が寄った。ぱっと手を出し、彼女は真衣の手を一瞬だけ握った。
「こちらこそよろしく、えっと……」
「藤野真衣」
「藤野さんね。忘れない」
「そりゃどうも」
香野が福原にこっそりささやいた。
「……柚里と澤田君は付き合っているんじゃなかったっけ?」
「喧嘩別れしたらしい」
「え、そうなの!?」
顧問同士のやりとりがしっかりと耳に入ってきた真衣は、密かに舌打ちした。デリカシーのないおっさんどもめ!




