第3章 波乱と苦難の5月(2)
ゴールデンウィークが明けて二日目の朝。秀紀が登校すると、26Hの教室はいつもよりもざわめいていた。
「あ! 澤田君が来た!」
教室の中に入るなりクラスメイトたちに囲まれ、秀紀は困惑する。
「な、何?」
平木という女子が、目をつりあげて質問した。
「澤田君なの? バイトしてたのって」
「……バイト? 何の話?」
「だって、澤田君って合唱部でしょ?」
ますます意味が分からず、秀紀はぽかんとクラスメイトたちを見返した。さぞ馬鹿面に見えたことだろう。それにしても、合唱部とバイトのつながりが秀紀には全く分からなかった。
「だから、何のこと?」
そう聞き返すと、平木たちは顔を見合わせた。
「……澤田君じゃなさそう」
「ほんと。じゃ、誰なんだろ」
自分の机にリュックを下ろしながら、秀紀は首をひねった。
「何があったんだよ?」
「ほんとに何も知らないの? ほら和田、話してあげて」
平木の代わりに秀紀の近くに来たのは、和田という男子だった。
「今日さ、朝イチで職員室に行ったんだ。ちょっと用事があって」
「はあ」
「そしたらさ、21Hの出口先生がすげえ怒鳴っててさ。もうその声が職員室中に響き渡ってんの。他の先生もみんな仕事とかそっちのけで出口先生の方見ててさ。で、誰がそんなに怒られてんだと思ったら、福原先生なんだよ!」
「えっ」
秀紀は驚いた。出口先生はラッコみたいな顔をした温厚な先生で、生徒にも声を荒げたことがほとんどない。授業中に居眠りをしたらピコピコハンマーで頭を叩かれる程度だ。和田はさらに話を続ける。興奮しているのか、瞳孔が大きくなっていた。
「で、その内容を聞いてたらさ、どうも合唱部の部員が出したバイトの申請書を、福原先生が出口先生に渡し忘れていたみたいで。しかも、半年くらい。やばくね?」
秀紀にとっては寝耳に水だったが、直感が働いた。拓だ。連休最終日、拓を連れて福原がある頼み事をした。それが関係あるのは間違いないだろう。
(……あれ? でも、先生の不注意……?)
「福原、どうしてた? 泣いてた?」
宮本が好奇心をむき出しにして和田に尋ねた。
「泣いて……はなかったと思う。でも、ぺこぺこ謝ってた」
秀紀は、大笑いする宮本たちからそっと目をそらした。
「てかさあ!」
國田が大声で憤る。
「自分はそんな大事な書類を忘れておいて、よくうちらを課題のことであんなに怒れたよね!」
「ほんとそれー」
「まじで最低!」
「うちらが出したものも忘れられてんじゃない? 絶対机調べた方がいいよ!」
朝練終わりの隆と浜崎が教室に入ってきて、福原への悪口で盛り上がるクラスメイトたちを見て目を丸くした。
「……何があった?」
隆に尋ねられ、秀紀はかいつまんで説明した。隆もやはり笑った。
「今度課題で呼び出されたら、言ってやろ。人のこと言えんのかって」
秀紀は時計を見た。もうすぐSHRの時間だ。
「先生、教室にくるのかな」
「賭けようぜ。福原がこの後来るか、来ないか。オレはさすがに内海に任せるとみた」
「じゃあ、僕は来る方に賭けようかな」
8時半のチャイムが鳴り、教室に入って来たのは福原だった。いつもと何も変わらない顔で教室を見渡す彼を、生徒たちの冷ややかな目が迎えた。隆が舌打ちをする。
福原はまっすぐに背筋を伸ばし、出席をとり、今後の予定の話をした。今朝あったという事件には一切触れない。そのままHRを終えようとした矢先に、宮本が手を挙げた。
「……何だ、宮本」
溜息まじりに福原が宮本を指名する。宮本は席から立ち、大声で問いかけた。
「先生が、大事な書類をだいぶ長く出し忘れてたって本当ですか?」
福原は宮本を見つめていたが、やがてうなずいた。
「ああ。事実だ」
生徒たちがささやきかわす。今度は國田が、手も挙げずに言った。
「そんなことでいいんですか? 先生。私たちにも同じことされたら、本当に困るんですけど!」
彼女に同意する声が大きくなる。それを鎮めることもなく、彼は黙って聴いていた。次第におさまると、福原はやおら頭を下げた。
「君たちにも不安な思いをさせてしまい、申し訳ない。今後二度とこのようなことが起きないように努める」
SHRが終わり、福原が教室から出て行くと、待っていたように生徒たちは不満をぶちまけた。
「一応謝ってたけど、つまんなかったね! もっと泣きながら土下座とかしてくれりゃいいのに」
「あいつが、するわけねえだろ」
隆がぼそっと呟く。彼に振り向き、秀紀は笑った。
「賭けは僕の勝ち。食堂で何かおごってくれ」
「くそ、仕方ねえな。自販機じゃダメか?」
「やだ」
そう答えながら、秀紀は立ち上がった。1限まで、あと少し時間がある。ちょっと行きたい場所があった。
秀紀が向かったのは、拓がいる21Hの教室だった。拓に、事実関係を確かめたかったのだ。だが、教室をのぞいても拓はいない。トイレにでも出かけたのか、それともこの事件で呼び出しを受けているのか。
自分のクラスに戻ろうとした時、秀紀は高島柚里とばったり鉢合わせしてしまった。
彼女はちょうど教室に戻ってくるところだったのだろう。入口を塞いでいる秀紀を見て、戸惑っているようだった。何かあいさつしようとした瞬間、田邊の言葉を思い出す。しまった、また彼女を怖がらせるところだった。
「君に会いに来たわけじゃないよ」
安心させようと思ってそう言ったけど、却って彼女は泣きそうな顔になった。秀紀はそそくさとその場を後にした。
昼休み、秀紀は職員室に行った。生活手帳係である秀紀は、毎日朝皆から集めた生活手帳を福原のところへ持っていき、昼休みにまた先生から返してもらう。この学校では生活手帳に毎日、昨日の行動の記録と一言日記を書くという面倒くさい義務があるのだ。担任も全員分コメントを書くので、絶対大変だと思う。
福原は自分の席にいて、パソコンを触っていた。傍らに生活手帳が積まれている。
「先生、」
話しかけると福原は秀紀の方を向き、眼鏡を外した。
「……秀か」
彼の席の側にいると、周りの先生からの視線が突き刺さってくるような気がした。この場には幸い、出口先生はいない。
「手帳ならもう書き終わったから、持っていっていいぞ」
「はい」
手帳の入ったかごを持ってから問いかける。
「あの、先生、大丈夫ですか?」
「……ああ、迷惑かけてすまないな」
「別に僕は何も迷惑じゃないですけど」
今も早速、拓のために勉強計画を作っているところだ。計画を作るのは楽しい。人に教えるのも。
「先生の方が大変みたいですけど……」
「お前に心配されるようなことは何もない」
きっぱりと断言され、秀紀は眉をひそめた。
「本当ですかぁ?」
「俺の心配をしている暇があるなら、自分の課題を確認しろ。また数学の課題を出し忘れているようだが?」
険のある、嫌な言い方だった。秀紀はついむかっとして、言い返す。
「それ、先生には言われたくないです」
そして、足音高く職員室を出た。心配して損した! と思いながら。
教室に戻り、生活手帳を教壇の横に置くと、クラスメイトたちが寄ってきた。
「来た来た、これを待ってたんだ」
宮本が真っ先に自分の手帳をとった。珍しい。生活手帳に興味がある生徒は普段あんまりいない。
「今朝の事件のこと、書いてやったんだ。どんなコメント書いてくるか、みものだぜ」
「わたしも!」
「おれも」
ほとんどのクラスメイトがそのことを書いたらしい。
「……何て書いてあった?」
「『自分の不注意で当該生徒や学校に迷惑をかけて非常に申し訳ないと思っています』だって」
「おれのも大体同じ」
「全員そうじゃない?」
皆が一斉に生活手帳をめくり、交換しあう様子はなかなか異様だった。秀紀は自分の席に戻り、忘れていた数学の課題を取り出した。




