第2章 コンクール、出る?出ない?(7)
その翌日、秀紀は学校を休むことにした。
「しんどいし熱っぽい」と朝母親に伝えると、すんなりと休む許可をもらえた。今まであまりずる休みをしようとしたことはなかったから、信用されたのだろう。
「病院行くなら、有給とるけど?」
母親はそう言ってくれたが、秀紀は首を振った。病院なんかに行ったら、仮病であることがバレてしまう。
「今は、いいかな」
「そう。じゃあ、今日一日ゆっくり寝てなさい。解熱剤は戸棚にあるからね。悪化するようだったら電話するのよ」
「わかった」
両親が出勤すると、秀紀は自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がった。すぐに眠気がやってくる。体調が優れなかろうが元気だろうが、二度寝は気持ち良いものだ。
次に目を覚ました時、時計は11時過ぎを指していた。とっくの昔に学校は始まっていて、今頃皆は4限目の授業を受けているころだろう。
柚里も授業を受けているのだろうな、と思うと、胸の奥がずしんと重くなった。
昨日の田邊の言葉は、鮮明に覚えている。柚里を守ろうとする彼の真剣な目も。彼は柚里が秀紀のことを嫌い、怖がっていると明らかにした。秀紀にとっては寝耳に水だったけれど__柚里の代理という彼の言葉を信じないわけにはいかなかった。
「怖がらせるつもりなんて、なかったのに」
昨日と同じ言葉を、ひとりぼっちの部屋の中で呟いた。それに冷たく言い返す田邊は、ここにはいない。だから、思いっきり感傷にひたることができた。
高校に入学してからの1年間、ずっと柚里のことを想い続けてきた。彼女とは少しずつ、適切な態度で距離を縮めてきたつもりだった。無理やり迫ったり、追いかけ回したことなどなかったはず。それでも、彼女にとっては迷惑だったのだ。
何て無駄な時間だったんだろう。叶うことのない好意に振り回されて、犠牲にしたものはたくさんあったはずだ。勉強する時間、部活への情熱、そして__柚里の心。秀紀にとっては何よりも大切なもの。
目を閉じると、彼女の笑顔がありありと浮かぶ。でも、それは田邊の言によれば、無理やり作った笑顔だったのだろう。一刻も早く、忘れてしまいたい。いやいや、そんな簡単に忘れられるはずがない。秀紀は柚里に近づきすぎた。彼女の顔も、声も、性格も、心に焼きつけてしまうほどに。
布団をかぶり、また眠ってしまおうと寝返りを打った。けれど、それまでたっぷり寝てしまったせいで、もう眠気はやってこなかった。空っぽの頭に忍び込んでくるのは、柚里との思い出ばかりだ。
「はは……学校行けばよかった」
友達としゃべったり、集中して授業を受けたり、部活をしていれば、気が紛れたかもしれない。安易に逃げようとしたせいで、かえって昨日受けた傷に向き合う羽目になった。
昼近くになっても、食欲は全くわかなかった。勉強するでもなく、テレビを見るでも、漫画を読むでもなく、ただぼんやりと柚里のことを考える長い時間を秀紀は過ごした。
意識がゆっくりと遠のいていったころ、玄関のチャイムが鳴った。
「……はーい……」
宅配か、宗教の勧誘か。ぼさぼさになった髪の毛をおざなりに整え、部屋着姿で秀紀は扉を開けた。
「秀!」
扉の前にいたのは、真衣、拓、千早の3人だった。秀紀は目を丸くする。
「……え? どうしたの?」
「どうしたのはこっちの台詞!」
千早が、中身の入ったビニール袋を突き出した。
「お見舞い、持ってきた!」
「……いやいや、まだ昼すぎじゃん。学校は?」
「さぼった」
と答えたのは真衣だ。
「あんたに会いに26Hに行ったら、風邪で欠席って聞いたからさ。昨日何かあったなと勘づいた」
「……さすが真衣だね」
「まあね」
「なあ、中に入ってもいいか?」
拓が聞いた。秀紀はうなずく。
「もちろん、どうぞ。あ、父さんも母さんもいないから」
「ありがと、お邪魔しまーす」
「お昼食べたの?」
「まだ。そっちは?」
「秀んちで食べようと思って、弁当持ってきた」
「秀にはおかゆでも作ってやろうか?」
「いいよ。本当は風邪じゃないし」
「やっぱりな」
どかどかと玄関から上がり、3人は家の中を見回した。
「とりあえず、僕の部屋に来て」
部屋は4人がくつろぐには少しせまいけれど、汚くはないはずだ。椅子や床にクッションを敷いて座った3人は、興味深げに本棚や机の上を眺めていた。
「わ、このシリーズ全巻あるんだ」
「参考書の量多いな、さすが特進」
「ねえ、これ定演の時の写真!?」
好き勝手にしゃべる3人を前にして、秀紀はほっと頬を緩めた。合唱部の仲間たちとしゃべったら、何だか楽になった気がする。サボりはよくないけれど(秀紀が言える台詞ではないが)、来てくれて本当に助かった。
「……それで? 昨日、何があった?」
そう尋ねたのは拓だった。真衣は何故か、暗い顔をして黙っている。秀紀はできるだけ明るい声を出そうと努めた。
「フラれた! というか、彼女が迷惑してるって、田邊に言われた」
3人は絶句した。秀紀はさらに言葉を重ねる。
「昨日、高島じゃなくて田邊が来たんだ。彼女の代わりだって。それで、僕のことを高島が怖がってるから、もう近づくなって言われた」
「そんな……まさか」
「ほんとだよ! 録音しとけばよかったね、あはは」
「秀……」
「気にすんなって、拓。僕も、もうすっきり忘れることにしようと思ってんだ。あ、高島、どうしてた?」
「なんか元気はなさそうな感じだったけど……そういや、田邊がやけにべたべた話しかけてたな」
「そっか。いやー、高島には悪いことしちゃったな。ストーカーみたいに思われてたなんて」
「秀!」
千早が呼びかけた。
「無理するのはやめなよ。私たちの前でくらい、しんどいって言えばいいよ。誰かのせいにすればいいよ!」
「ううん、平気だよ。いや……平気になりたい」
秀紀は口の端をつり上げてみせた。
「高校生活は短いんだから、切り替えていかないと。田邊にも、女々しい奴だってこれ以上馬鹿にされたくないし」
「……他にも何か言われたの?」
秀紀はためらった。田邊が合唱部について放った言葉は、部員たちに伝えるには毒が強すぎる。でもその時、黙ったままの真衣が顔を上げて、促すように秀紀を見た。
「『最初から勝負を捨ててる合唱部と、自分たち吹奏楽部を一緒にするな』って」
「……なに、それ」
千早が唖然として呟いた。拓は顔をしかめ、黙り込んだ。代わりに真衣が吐き捨てるように言った。
「自分たちの活動だけが正義と思い上がる傲慢さ、去年から何も成長していない」
秀紀はとっさに、高島はそうじゃないよと言おうとした。けれど田邊は彼女の代理と言っていた。田邊の言葉はそのまま柚里の意見かもしれない。そうであればとても悲しい。彼女が、合唱が好きと言っていたのは、偽りだということになるのだから。
「……ごめん、秀。わたしのせいだ」
真衣が絞り出すように言った。秀紀は慌てて首を振る。
「真衣のせいなんかじゃない。僕がずっと勘違いしていたのが悪かったんだ」
「ううん、わたしが間違ったアドバイスをしたせいだ。あんたをたきつけるような真似までして……」
真衣の震える肩を、千早がそっと抱きながら怒ったように言った。
「でもさ、まさかそんなに嫌な奴らだと思わなかったよねー。去年の1年と山崎さんは確かにちょっとアレな時があったけど、反省したと思ってた」
「自分たちが特別だって意識がある限り、吹部の奴らの考え方は変わんないよ」
と、真衣。
「コンクールに出てることがそんなにえらいのかよ」
と拓は呆れたように言った。
「まあ、コンクールで結果出してるのはえらくはある。でも、だからって他の部を見下していい理由にはならない」
真衣は冷静だ。
「あたしらもコンクールに出る?」
と、千早が軽く言った。
「練習時間増やしたら、秀も気が紛れるかもしれないし」
「吹部ほど良い賞をとれる未来は見えないけど、それでもいいならわたしものるよ」
真衣がまだ怒っているような口調で言ったのは、田邊や柚里に対抗意識を燃やしているのかもしれなかった。
拓は
「しょうがねえな」
とつぶやき、秀紀の背中を叩いた。
「別にコンクールに出たいわけじゃないぞ。秀の失恋に免じて、だからな」
「う、うん」
「よし、次のミーティングで皆にそれ言おう」
「待って、失恋云々は言わないでくれよ」
「え、駄目なの?」
「駄目に決まってるだろ!」
狭い部屋の中で笑いが弾けた。その時やっと秀紀は、自分が空腹であることに気がついた。
3人は夕方には帰っていった。午後の授業をサボったことが気まずいから、そのまま家に帰るらしい。彼らを見送りながら、秀紀は強張っていた体を伸ばす。昨日の夜に比べて体が格段に軽い。
携帯を見ると、福原からの着信が入っていた。ついさっきかけてきたらしい。慌てて折り返すと、2コールほどで出た。
「もしもし、澤田です!」
『元気そうだな、秀』
秀紀は思わずコホンコホンと空咳をしてみせた。
「ま、まだちょっと体調が……」
電話の向こうで、福原が含み笑いをしたのが聞こえた。
『明日は学校に来られそうか?』
「はい!」
『そうか。__ところで、真衣、拓、千早の3人が昼からの授業を全て欠席したそうだが、何か知ってるか?』
「あ、それは……その……」
『お前の家に来たんだろう?』
「まあ……はい」
叱られるかと構えたが、福原の声は優しかった。
『お前に何があったかは聞かないが、仲間がちゃんと心配してくれていることを忘れるな。3年部員も1年も、皆が味方だ。__じゃあ、また明日』
「はい」
その時、秀紀は通話を終えようとする福原に向かって、祈るように言った。
「先生、僕、コンクールに出たいです」
福原はしばらく黙っていた。秀紀が焦り始めたころ、やっと返事がくる。
『そうか、分かった。せっかく出るなら、金賞を獲らないとな。険しい道だが、覚悟はいいな?』
はい、と秀紀はささやいた。




