第3章 カレーパーティー
その週の土曜日、午前10時。合唱部員たちは部室に集合した。全員そろうと、まず森井が前に立って挨拶をする。
「おはようございます! 欠席の奴はいないな? いたら返事しろよ」
「それ、全然面白くないですよ」
優路が茶々を入れ、そこでやっとささやかな笑いが生まれた。
「今日は待ちに待ったカレーパーティーだ! 新入生はそうでもないかもしれないが、俺は去年からずっと楽しみにしてた! どれくらいかと言うと、去年のカレーパーティーからずっとカレーを食べなかったくらいだ」
「うそ、この前食堂でカレー食べてたくせに」
泉がぼそりと呟いた。
「まあ細かいことは置いといて。まずは買い出しだ。一同出発!」
森井に号令をかけられ、部員たちはぞろぞろと廊下に出た。部員の集合を後ろで見守っていた福原だけが部室に残るらしい。
スーパーに着くと、美里が1年生3人に尋ねた。
「どんなカレーを作るか、決めなくちゃね。皆、家では何を入れてる?」
千早が答える。
「うちは、野菜をとにかくいっぱい入れてました。ニンジン、タマネギ、ジャガイモは勿論だけど、他にもキャベツとかナスとか。ローリエの葉も」
「ヘルシーね。拓のところは?」
「おれは……シーフード」
「秀紀は?」
「フツーです。給食のカレーみたいな感じで」
「去年はどんなカレーを作ったんですか?」
千早は美里に聞いた。
「去年はね、廉さんの趣味でキーマカレーを作ったよ。タマネギとかジャガイモとかは細かく刻んで、ひき肉とニンニクを入れて」
「キーマカレーかあ、それもおいしそう」
「新入生歓迎会なんだから、みんなの好きなカレーにしていいよ」
「カレーうどんでも?」
その時、後ろを真衣たちの班が通った。真衣も「カレーうどんにしていいですか?」と先輩に尋ねている。
千早が笑う。
「真衣と澤田君は、センスが同じ」
「……ふつうのカレーライスにしよう」
「いいんだぜ、おれは別に。カレーうどんでも」
「いや、ふつうでいいんだって」
秀紀は、すぐそばに積み上げられたジャガイモの袋を1つ取り、拓が持つかごに入れた。
「ジャガイモ、タマネギ、ニンジンは絶対入れるよな?」
「そうね。あとは……そうだ!」
千早が真っ赤なトマトを手に取った。
「トマトカレー、どう? さっぱりした味になるわ」
カレーにトマトを入れたことはなかった。美里がにっこり笑う。
「おいしそうね」
「テレビ番組でやってたんです」
「肉はどうする?」
「テレビでは牛肉を入れてたわ」
精肉コーナーに行くと、ちょうどカレーに入れる用の小さな塊肉があった。
「牛肉だ」
「ちょっと高そう」
「大丈夫よ。去年に比べたら安いから」
「去年どんなだったんですか?」
「みんながそれぞれ好きなトッピングを買うから、お会計がとんでもないことになってて。先生もちょっと呆れてた」
「気をつけなきゃですね」
秀紀たちが買い物袋に食材を詰めていた時、ちょうど真衣たちの班も会計を済ませて合流してきた。優路が店員さんに領収書を書いてもらっている。
「何買ったの?」
真衣が持つ袋を、千早が覗こうとした。真衣はさっと袋を閉じる。
「作ってからのお楽しみ」
「ケチ!」
秀紀も思わず真衣に尋ねた。
「カレーうどんにするの?」
「しないよ。澤田じゃあるまいに」
「な……!」
真衣は秀紀の目を見てにやりと笑ってみせた。どうやら野菜売り場では、秀紀をからかったらしい。
「別に、こっちもカレーうどんなんか作らねえし」
「あっそう、滑らなくてよかったね」
何とか言い返そうと口を開きかけた時、森井がひょいと顔を出した。
「こら、喧嘩するなよ」
「あ、すいません」
森井は真衣から買い物袋を取り上げ、そのまま持ってすたすた歩き出した。毒気を抜かれた秀紀と真衣は、それ以上何も言わず先輩の後を追いかけた。
調理室の鍵を開け、買ってきたものを広げた。野菜、肉、カレールウ。家から1合ずつ持ち寄った米も。
エプロンをしめたら、調理開始だ。拓が慣れた様子でざるに米をあけて、流れる水で研ぎ始めた。
「上手いな」
「うちでよく母さんを手伝ってるからな」
美里と千早が手早く野菜の皮をむき始めた。
「美里さん、ピーラー使わないんですか?」
「包丁でむく方が得意なの。ゴミを集める手間も省けるし」
「ほんとだ、皮が全然途切れないですね!」
秀紀は恐る恐る千早たちに近づいた。
「あの、僕は何をしたらいいですか?」
美里が振り返り、にっこりと笑う。
「じゃあ、トマトを切ってもらおうかな」
まな板にトマトを置いて、秀紀は握った包丁を振り上げた。包丁を使うのは久しぶりだ。小学校低学年のころ、お手伝いをしたことがあったっけ。
「はっ!」
包丁を勢いよく下ろす。トマトは真っ二つになり、真っ赤な中身が噴き出した。他の3人が悲鳴を上げる。
「秀紀!!」
普段は穏やかな美里の顔色が変わっていた。
「澤田君、怪我するわよ!」
千早の手から、ジャガイモが転がり落ちた。
「お前はもう包丁に触るな」
拓が、そっと包丁を秀紀から取り上げた。
秀紀は口をへの字に曲げた。
「見てくれよ、ちゃんと切れてるじゃないか。これを繰り返せばうまくいくよ」
「その前にお前の指が飛ぶぞ」
美里が皮つきのタマネギを秀紀の手に押しつけた。
「タマネギの皮、むいて。手でむくだけだから安全でしょ」
タマネギをちりちりとむきながら、秀紀はため息をつく。
「楽勝だと思ってたんだけどな」
「あれで楽勝だと思ってんなら、もう包丁は二度と握らせないからな」
千早が大笑いする。
「澤田君ったら、敵の首切るんじゃないんだから!」
「そのたとえもどうなんだよ」
切った野菜と肉を炒めるのも、千早と拓の役目だった。その間秀紀は美里と一緒に、まな板やボウルを洗う。
もう1つの班を見ると、先輩たちに混ざって真衣がわいわいと鍋をかき混ぜていた。
「くそ、料理は負けた……」
「いつの間に、秀紀と真衣はライバルになったの?」
秀紀は真衣に愚痴をこぼした。
「あいつ、さっき僕のことからかってきたんです。だから見返してやりたくって」
「合宿でも料理はするし、見返す機会はいくらでもあるわ」
「合宿あるんですか?」
「ええ。楽しいよ、普段いけないようなところで泊まるんだから。毎年、男子と女子に別れてお料理対決するの」
「その時までに、料理上手になります」
秀紀は泡だらけの拳を握った。
「……怪我だけはしないようにね」
炒めたタマネギやジャガイモがすき通ったころ、鍋に水を入れた。秀紀は鍋をかき混ぜる役目をもらい、ぐるぐると鍋の中身を木へらで回した。数十分煮た後、カレールウをとかした。鍋の中があっという間に茶色く染まる。
「めっちゃいい匂い!」
千早が歓声を上げる。
「美里さん、味見してもいいですか!?」
「勿論、どうぞ」
小さな皿に少しだけカレーをよそい、すすってみて再び千早ははしゃいだ。
「最高の出来です!」
つられて、秀紀も大鍋を覗き込んだ。千早が別の皿を手に取り、秀紀に差し出した。
「ほら、澤田君も味見なさいよ」
まだ粘りの少ないカレーを飲み込んで、秀紀は呟いた。
「うまっ」
「でしょ? 早く食べたいわ。待ちきれない」
ちょうどその時、もう1つの班のカレーも完成したようだった。真衣と先輩たちがハイタッチしている。
カレー皿を食器棚から出しながら、美里が秀紀に声をかけた。
「秀紀、先生を呼んできて。多分部室にいらっしゃるから」
秀紀は一瞬固まった。
「は、はい」
福原への苦手意識はまだ抜けていない。それでも、先輩に頼まれたことを断るのは気が引けた。ぎくしゃくと足を動かしたその時、森井が寄ってきた。
「俺も秀紀についてく」
「な、なんで?」
「サボりたくなったから」
森井は秀紀の肩を抱き、強引に調理室の外へと連れ出した。
「腹減ったし、さっさと先生連れてこようぜ」
「はい、でも、あの」
「心配すんな、先生も別にかみつきゃしないから」
それはそうでしょうけど。
調理室がある棟から部室棟への渡り廊下を、2人で歩いた。外からは運動部のかけ声が、部活棟の中からは吹奏楽部の練習音が聞こえてくる。
「秀紀は、音楽経験はあるんだったか?」
「ないです。音楽の授業とかで歌ったことはありますけど」
「上等、上等。歌うのは好きか?」
「嫌いではないっす」
「そのうち大好きになるぞ。そんな顔してる」
「どんな顔ですか、それ」
思わず秀紀は自分の顔をなで回した。歌が好きな顔って、歌手に似てるとか? 口がでかいとか?
「大声で歌いたい! って、顔にでかでかと書いてある」
「……それ、適当なこと言ってません?」
「はっはっは、バレたか」
部室に近づくと、ピアノの音が聞こえた。秀紀は思わず階段を昇る途中で足を止めた。たびたび間違えるためかちょっと弾いては止まり、再開しては止まり、を繰り返している。
「先生だ」
森井がそう言って、足を早めた。慌てて秀紀も後についていく。
「この曲、分かるか?」
秀紀は首を振った。
「聞いたことないです」
「合唱コンクールで定番の曲だよ。6月に聖堂で歌うんだ。先生が伴奏をしてくれる」
「はあ……でも、」
そのピアノは、お世辞にも上手いとはいえなかった。
「先生はもともとピアノをやってたんですか?」
「いや、合唱部の顧問になってから始めたんだ」
そう森井が答えた瞬間、ピアノの強い和音が響き渡った。低い音から上がる音階の果てに……
「IN TERRA PAX!」
森井が大声で歌い出しながら、ピアノのある教室に飛び込んだ。ピアノの音がふつりと途切れる。
秀紀はあっけにとられていたが、我に返り、森井に続いた。
教室の中ではピアノの前に座っていた福原が、驚いた顔で振り向いていた。
「……なんだ、廉か」
「カレーができました、先生」
福原は首を横に振った。
「俺はいい。君たちだけで食べなさい」
「そのくだり、毎年やってて飽きませんか? 俺は飽きました」
森井がすかさず言い返す。
「ほら、行きますよ。皆が待ってるんですから」
「いや……」
「つべこべ言わずに!」
渋々福原は立ち上がる。秀紀は黙って見ていただけだったが、教室の電気を消してほっと胸をなで下ろした。これでカレーを食べられる。
カレーを全員分よそった時、美里が冷蔵庫から紙の箱を取り出した。
「ババロア作ってきたの。皆でデザートに食べようね」
「ありがとうございます!」
箱から出てきたなめらかないちごのババロアは、表面からうっすら冷気が上がっていた。美里が包丁を入れると、断面に埋め込まれたいちごが現れる。
カレーと美里のババロア、ジュースやお茶が皆に行き渡ると、廉が立ち上がった。
「腹減ったな! ご託はいいから、さっさと食べようぜ! みんな、お疲れ様。先生、ありがとうございます。それじゃ、いただきます! アーメン!」
「アーメン」
皆で両手を組んで、声を揃えた。それから、熱々の白米とカレーをすくって口に入れる。
「あつっ」
できたてのカレーを頬張ると、たしかにトマトの酸味を感じた。
「今までで一番うまい」
秀紀が呟くと、隣の拓がうなずいた。
「同感」
「カレーうどんじゃなくてよかった?」
千早が秀紀に笑いかけた。
「何だよ、千早までいじってくるなよ」
「あはは、ごめん。トマト入れて大成功だったでしょ」
秀紀と拓は素直に同意する。
「秀紀の指を危険に晒した甲斐があったわね」
「美里さんまで、からかわないでくださいよ!」
「だって、さっきの秀紀は本当にすごい迫力だったもの」
「人を殺す刃物の使い方でしたね」
その時、福原が部員たちに向かって言った。
「食べながらでいいから、今年部でやることの案を出してくれ」
らっきょうを噛み砕きながら真衣が首をひねる。
「やること、とは」
「この部活で、やってみたいこと。何でもアイデア出してくれていいよ。真面目なことでもふざけたことでも、自分がやってみたいことを」
「去年は、地元の夏祭りにお店を出したの。合唱部たこ焼き」
優路と美里が代わる代わる教えてくれた。
「やってみたいこと……」
「はいはい! じゃ、あたしから!」
泉が手を挙げた。
「部室でペットを飼いたい!」
「却下」
福原が顔をしかめた。
「最低限、部活動として意義のあることを言ってくれ」
「意義ならありますよ! 動物のお世話をすることで、責任感が養われます!」
「たまごっちでもやってろ」
優路がスプーンでカレーをすくいながら唸る。
「真面目に、6月の学祭は何やりますか。またたこ焼き?」
「演し物でもいいよね。合唱部なんだから」
「去年はたこ焼きだったんですか?」
「ベビーカステラとたこ焼き。楽しかったけど、合唱部って感じじゃなかったかも」
「そんなこと言ったら、ハンドベル部がかき氷屋やってんのも意味分かんないじゃん」
真衣が発言した。
「カラオケ喫茶はどうですか? お客さんの希望に合わせて、私たちも歌うんです」
「いいね」
美里がにこにこと賛成する。
「私と先生が伴奏で。楽しそう」
「知らない歌をリクエストされたらどうする?」
「あらかじめ、歌っていい曲のメニューを作っておくんです。この中から選んでくださいってことで」
森井もうなずいた。
「いい案だな。歌に関係あるってところが気に入った」
「美里と先生の負担が大きすぎないかしら?」
「いざって時はカラオケCDを流せばいいんじゃないか」
学校祭の出し物がほとんど決まったところで、皆一斉にカレーをおかわりし始めた。話し合いの間は食べる手が止まっていたのだ。
「合宿と定期演奏会の中身も決めないとですね」
拓がおそるおそる手を挙げる。
「あの、おれ、登山とかしてみたいです」
「登山!?」
「いいじゃないか」
森井が目を輝かせた。
「一面の草原が広がる山のてっぺんで、歌うんだ。気持ちいいだろうな」
「サウンド・オブ・ミュージックみたいにですか?」
「そう!」
「廉ってほんとに洋楽が好きね」
呆れる泉の隣で、優路がうなずいている。
「じゃあ、合宿も山でやりますか?」
「賛成!」
千早が先輩相手にはりきって手を挙げる。
「合宿っていつやるんですか?」
「夏休み。去年は海の近くに行ったわ」
「楽しそう!」
千早は目を輝かせた。
「定期演奏会を9月頃にやるんだけど、その時の演出や、「今年の歌」の歌詞も合宿までに決めなきゃなのよ」
「歌詞!?」
「そう」
泉が胸を張る。
「毎年1曲、自分たちで歌を作るの。なかなか決まんなくて、合宿で徹夜したこともあったわ」
作詞……秀紀は内心おののいた。ほぼポエムを作るようなものではないか。それって今ある曲を歌うのより何倍も恥ずかしいのでは?
拓も不安そうな顔をしていた。
「おれ、作詞とかしたことないです……」
「大丈夫。合宿になってみれば、なんか夜のノリでけっこう良い詩を思いつくものなのよ」
本当かな。
一抹の不安は残るものの、秀紀はいつの間にか合唱部の活動がすっかり楽しくなっていることに気がついたのだった。