第2章 入部式
「合唱部に入った!?」
教室で秀紀の報告を聞いた篠原が、驚きの声を上げた。
「男バレじゃなかったのかよ」
「……なんか、断るに断れない雰囲気で……ただ見学に行っただけなのに」
秀紀は憮然と言った。あの後入部届を書かされ、今日行われる入部式にも参加するよう約束させられた。先輩部員の喜びようと、顧問の厳しい顔に挟まれて、どうしても嫌だと言えなかったのだ。
「合唱部がヤバいって噂、あながち間違いじゃないのかもな」
「や、やばい!? 何だよそれ。僕今からそこに入るんだけど……」
「ただの噂だぞ。でも、先生はめっちゃ厳しいし、練習はほぼ毎日あるらしいぞ。普通文化部って週に何回かしか活動しないだろ?」
秀紀はうっと息を呑んだ。
「人数が少ないのも、先生にいじめられてどんどんやめていったからだとか」
秀紀は頭を抱えた。
「めっちゃ嫌だ……」
「諦めろよ。お前はもう合唱部員だ」
篠原が秀紀の肩をぽんと叩いた時、予鈴が鳴った。もうすぐ1限目の授業が始まる。
「1限は何だっけ」
「現代文だな」
教科書とノートの他、辞書を持ってくるようにとの指定があった。ロッカーに入れていた辞書と教科書を机の上に出した頃、本鈴と同時に教師が入ってきた。
秀紀は唖然として目を見開いた。周りの生徒も同様で、ざわめきで空気が揺れたのが分かった。
現代文の教科書と辞書を抱えて入ってきたのは、いかにも外国人といった風貌の、合唱部の顧問だった。
昨日強引に入部させられた苦い思い出が蘇り、秀紀は恨みがましく教師を睨みつけた。だがふとした瞬間に目が合い、闘争心はへなへなとしぼむ。
教壇に授業資料をどさりと置いて、その教師は秀紀たちを見渡した。
「号令を」
そう命じられ、慌ててクラス会長が「起立」と声をかけた。始業の挨拶が終わると、教師はよく通る声で話し始めた。
「ここにいる大半の生徒は、初めましてだな。国語担当の福原勲だ。このクラスでは現代文を教える」
何人かの女子が、彼の顔を眺めてささやき合っている。福原はふと、不機嫌そうに顔をしかめた。
「誤解のないよう言っておくが、俺は日本人だ。日本文化が好きな物好き外国人でも、この学校に多くいる司祭でもない。外国とのコネなどないし、スパイでもない」
誰もそんなこと言ってないって。そう篠原が、秀紀にだけ聞こえる声でささやいた。秀紀は吹き出しそうになるのをなんとかこらえる。福原の険しい目が自分たちの方をじっと見ている気がした。
「それでは、授業を始める。辞書を出しなさい」
教室の隅から、え、と動揺の声が上がった。福原が素早くそちらに目を向けた。
「出席番号20番の和田君、辞書を持ってきていないのか?」
「は、はい。忘れてしまって、」
「予備が1冊だけあるから、使いなさい」
ため息混じりに福原がそう言った。和田が慌てて教壇まで取りにきて、重苦しい空気の中そそくさと戻っていった。
「辞書を適当に開き、出たページの単語を読みなさい」
福原の指示に、クラスの誰もがぽかんとした。一体何をやらせたいのだろう?
なかなか動かない生徒たちに苛立ったのか、福原が声を荒げた。
「辞書を開くだけのことが、そんなに難しいか?」
秀紀たちは慌てて辞書を開いた。たまたま、「たち~たて」のページが出た。
「7分間、自分が開いたページを読め。その後、最も印象に残った言葉を発表してもらう」
彼が口を閉ざした後、教室に沈黙が張った。クラスの大半が仕方なく、辞書を読み始めた。
辞書をゆっくりと読む機会など、今までになかったかもしれない。知らない単語と、知っている単語が混ざっている。「立場」の説明を読んで、漠然と知っている単語を改めて説明されるのは面映ゆいものだと思った。「タツノオトシゴ」の項目には、小さなイラストがついていた。
7分経つと、福原が発表者を指名した。
「出席番号9番、中川さん」
呼ばれて、大人しい女子が立ち上がる。
「君が今読んだページの中で、最も印象に残った言葉と、その言葉の意味を教えてくれ」
中川は、つっかえながら発表を始めた。
「萌芽__草木の芽の萌え出ること。芽生え。新しい物事が始まるきざし……」
福原が、黒板にきれいな字で「萌芽」と書いた。続いて、もう何人かの生徒を指名し、いくつかの言葉を黒板に書いた。
秀紀はとうとう最後まで指されなかったが、その辞書を引く時間が終わると、少し残念な気がしたのだった。
辞書の発表が終わると、やっと福原は教科書を開いた。最初の単元を少しやった後は、漢字の小テストもした。気が緩んだ生徒がひそひそ話を始めると、福原はすぐに授業を中断して、叱責した。そのせいか、授業が終わるころには、教室内はすっかり静かになっていた。
長い授業がチャイムの音でやっと終わり、秀紀たちはほっと胸をなで下ろす。福原は板書をそのままにして、教室から出て行こうとしたが__
「澤田君」
「はいっ!?」
福原は秀紀の前でわざわざ立ち止まった。思わず直立不動の姿勢をとった秀紀にこう言った。
「部室で待ってるぞ」
彼が出て行ってから、秀紀は机の上に突っ伏した。まだ朝なのに、緊張でどっと疲れてしまった気がする。
放課後になると、秀紀は再びB棟4階に向かった。
入部式が行われるためなのか、合唱部の部室は金銀のモールや色紙の鎖で飾り付けられていた。椅子が円状に並べられていたので、秀紀はそこの1つに腰掛ける。秀紀と同じ1年生とおぼしき生徒は他に3人ほどいて、部屋の中をきょろきょろと見回していた。壁に貼られた標語の紙__『整頓』『笑顔』『気合い』、棚にぎゅうぎゅうと押し込められた大量の楽譜、CDのラック……部室らしい品々に隠れて、トランプやオセロといった、先生に即没収されてしまいそうな物が乱雑に置かれていた。
先輩部員たちは隅っこで額をつきあわせ、なにやら話し合っていたが、福原がやってくると慌てて席に着いた。
丸く並んだ部員たちの顔を互いに見合わせる。そのほとんどが初めて会う人だ。これからどんな厳しい活動が待っているのかと気分が重かったけれど、少しだけ、ほんの少しだけ新しいことが始まる期待があった。
口火を切ったのは、昨日秀紀に話しかけてきた背の高い先輩だった。
「皆揃ったので、入部式を始める。まず、1年生! 合唱部に入ってくれてありがとう。これからいろんな楽しいことをやっていこうな。それから、2、3年生も。このメンバーで活動できるのは、あと1年もない。悔いのない活動をしていこう」
先輩部員たちが、口を揃えて「はい!」と返事をした。その勢いに秀紀は気圧される。
「それじゃ、自己紹介。まずは1年生からだな。澤田君から」
「え」
秀紀は焦った。全員の視線が集まり、顔が熱くなる。おそるおそる立ち上がった彼に、先ほどしゃべった部員が言った。
「名前、クラス、出身校、好きな物、それと何か一言」
「は、はい。1年3組、澤田秀紀です。出身は東部中学校で、好きな物は……えっと、映画です。よろしくお願いします」
お辞儀をすると、拍手が贈られた。秀紀が座ると、隣の女子が代わりに立った。長い髪と、赤い縁の大きな眼鏡が印象的な、凛々しい少女だ。
「1年1組、加藤千早です。出身は御堂中です。好きなことは、歌を歌うことです。中学の時から、ここの合唱部に入りたいと思っていました! これからの活動が楽しみです。よろしくお願いします」
千早はそうはきはきと言って、背中を折った。周りからどよめきが上がる。
次に立ち上がったのは、堂々とした背の低い女子だった。大きな目で周りを見回し、落ち着いた口調で話し始めた。
「藤野真衣です。千早と同じ1年1組です。鳥山中学校から来ました。好きなものは理系の教科です。先輩と千早の熱烈な勧誘を受けて入部しました。よろしくお願いします」
和やかな笑い声が上がった。千早と真衣は既に顔見知りらしい。
最後の1年生は、大柄な男子だった。
「定島拓……1年5組です。出身は、引水中学校です。好きなものは、ラーメンです。中学では野球部だったんで、合唱ははじめてですけど……よろしくお願いします」
大きな拍手が上がった。
「では、次は2年生」
そう言われて立ったのは、眼鏡をかけた痩せ型の部員だった。
「23H、島田優路です。出身は嘉島中学校です。好きなことは……まあ、合唱部の活動かな」
先輩部員たちがどっと笑った。
「1年生に言っておきたいのは、先輩は皆優しいよってことです。先生は厳しいですけど、いじめられた時には僕らがいます。何でも相談してください」
秀紀はこっそり福原の顔を盗み見た。険しい顔をしていると思いきや、拍手しながら苦笑いを浮かべていた。
次は、髪を1つ縛りにした柔和な顔の女子の先輩だ。
「同じく23Hの中西美里です。引水中出身です。好きなことはお菓子作りです。今度作ってくるから、味見をしてくれると嬉しいな」
美里はにっこりと1年生に笑いかけた。
「優路はああ言って脅かすけど、先生もそんなに厳しくないからね。怖がらなくて大丈夫。これから、楽しいこといっぱいやっていきましょう」
どっちが正しいことを言っているのだろう?
「では、次は3年だな」
最初に進行をした男子部員が、意気揚々と言った。
「森井廉。33Hだ。部長を務めさせてもらっているから、困ったことがあったら何でもすぐに相談するように。好きなことは洋楽を聴くこと、歌うこと。よろしく」
「出身は?」
「ああ、そうだった。園山西中」
そう言って森井はさっさと座った。彼の隣の女子部員が立つ。
「飯能泉です。32Hです。出身は朝日が丘中です。好きなものは、カラオケです。よろしく!」
部員たちの自己紹介が終わると、福原に視線が集まった。彼はゆっくりと立ち上がり、生徒たちを見下ろして自己紹介を始めた。
「合唱部顧問、福原勲です。担当教科は国語で、2年3組の副担任です。__誤解のないよう言っておくが、日本人です。確かに父親がフランス人ですが、子どもの頃に日本国籍を取得したし、フランスに住んだことは一度たりともありません」
先輩たちが声をそろえて
「知ってます!」
と答えた。秀紀たち1年は戸惑いを隠せない。
「俺が君たちに求めることはたった2つ。合唱の練習は真面目にやること、部活外の他人様に迷惑をかけないこと。外で歌を披露することも多々ありますが、学校の看板を背負っているのだということをくれぐれも忘れないように」
福原が口を閉ざすと、1年生は一瞬の間を置いて「はい!」と答えた。現代文の授業や部活見学の際に彼の口うるささは経験済みだった。
福原が座ると、森井が明るい声で言った。
「じゃあ、今後の話をしようか。早速だが、今週の土曜日に新歓もかねてカレーパーティーを開催する! 8人もいるので、2班に分けようと思っているんだが、どうだ?」
カレーパーティーの話など初耳だった秀紀はぽかんとしていたが、千早や真衣は神妙にうなずいていた。見学の時に聞かされたのかもしれない。
美里が質問した。
「班の分け方はどう決めますか?」
「くじ引きでいいんじゃないか?」
「じゃ、さっそく用意しますね」
美里と優路が立ち上がり、紙とはさみを持って部室を出た。その間に秀紀は質問する。
「あの、カレーパーティーって……?」
泉が答える。
「言葉の通り! みんなでカレーを作って食べるの。デザートとかも作っていいよ」
「ここで?」
皆が笑った。
「秀紀は面白いやつだな」
森井が秀紀の背中を軽く叩く。
「調理室を借りるんだよ。さすがにガスコンロや流しはほしいからな。家庭部の本拠地だけど、土曜日はもう予約してある。ですよね? 先生」
「ああ、勿論」
福原がうなずいた。
「そんで、そのパーティーの時に今後の活動について話し合うんだ。ゲリラコンサートは何回やるか、合宿はどこでやるか、あと定演の演出とか」
「定演って、9月の定期演奏会ですよね? 私、毎年聴きにいってました! 今年は部員として参加できるなんて、本当に嬉しいです」
千早が目を輝かせて言った。先輩たちは顔を見合わせ、照れ臭そうに笑った。
「嬉しいね、こうやって言ってくれる子がいるなんて。先生にさんざんいじめられた甲斐があったってもんだ」
秀紀は慌てて福原を見た。彼は表情を崩さず口をつぐんでいる。
「お待たせしました!」
美里と優路が、紙で作った入れ物を持って戻ってきた。中には小さくたたまれたくじが8枚入っている。
「赤いマークついてるのと、ついてないので分けました。1年生からどうぞ」
くじ引きの結果、秀紀、拓、千早、美里が1班。森井、泉、真衣、優路が2班となった。
「ありゃ、1年生が偏っちゃったな」
だが、真衣は平気な顔をしている。
「かまいません。どんなメンツでもカレーはカレー」
「そうか、悪いな」
美里が秀紀たちに言った。
「材料の買い出しは、当日にみんなで近くのスーパーにいくの。歩いて10分のところにあるから」
「会費はいくらですか?」
「気にしなくていいわ。福原先生が出してくださるから」
その時美里はふと、眉を寄せた。
「ところで、カレーが苦手って子はいない? 大丈夫?」
「好きです」
秀紀、千早、拓はさっと答えた。
「よかった。おいしいカレーを作ろうね」
森井がすっかりばらけた部員たちを見回して言った。
「いつもなら、もう練習に入る時間だが……先生、今日くらいはいいですよね?」
福原は肩をすくめて答えた。
「1年生は帰っていい。だが、2・3年は残れ。さ来週の本番に向けての練習があるだろ」
「分かりました」
そうして、4人は早々に帰宅することになった。千早と真衣は行きたいカフェがあると言って、2人で盛り上がりながら駅へと走っていった。
拓が秀紀に尋ねる。
「どっち方面に行くんだ?」
「あ、僕は自転車で帰る。学校から近いんだ」
「そうか。いいな」
「定島君は?」
「ここから3駅ってとこ。でも駅から家までが遠いんだ」
拓は大げさに肩をすくめてみせたけれど、福原のそれと違って全く似合っていなかった。
「そういえば、定島君はなんで合唱部に入ったの?」
秀紀がなんとなくそう聞くと、拓は首を傾げて考え込んだ。
「……もともと、高校では新しい部活に入ってみようと思ってたんだよな。で、いろんな部活を見に行ったけど、結局合唱部が一番面白そうだった」
「運動部は眼中になかった?」
「野球部から別の運動部に移ったって、新しい感じはあまりしないだろ」
「まあ、確かにね」
「澤田は?」
「僕は、うっかり見学にいったら捕まっちゃって。入るつもりは全然なかったんだけど」
拓が笑った。
「見学にいったら、そりゃあ捕まるだろ。つまりその時から入るつもりだったんだよ」
「違うって」
「そもそも、なんで見学にいったんだ?」
秀紀は口をつぐんだ。たまたま見かけた女の子に惹かれて、その子が入部してないかと期待して覗きにいっただなんて__しかも当の本人は影も形もないだなんて__恥ずかしくて言えるわけがない。
拓がまだ笑いながら、
「まあせっかく入ったんだから、3年間仲良くやろうぜ。よろしくな、澤田秀紀」
「わざわざフルネームでどうも、定島拓」
すぐにやめるかもしれないけど、とはあえて口に出さなかった。