第9章 定期演奏会(1)
合宿の翌朝のことだった。山崎が学校の玄関で靴を脱いでいると、誰かがその肩を強く叩いた。
「よっ」
「森井!」
すぐ後ろに廉が立っていたことに気がつき、山崎は驚く。こんな早朝、誰もいないと思っていたのに。
「夕べはよく眠れたか? 筋肉痛とか起こしてない?」
「筋肉痛になるような活動はしてなかっただろ」
山崎はそう言い返し、上履きを履いた。まだ、B棟の方角から楽器の音は聞こえない。ひょっとすると山崎たちが一番乗りかもしれなかった。
「何の用だ?」
「そっちは?」
聞き返され、山崎は口をつぐんだ。楽器を持ってきてはいたが、まっすぐ部室に行くつもりはなかった。かといって、正直に行き先を廉に告げるのも癪だ。
合唱部の合宿は、確かに楽しかった。廉と諍いを起こしたことさえ帳消しになったように感じた。だが、日常に帰ってきてみると、自分が向き合わなければならない問題はそのまま残っている。
廉はいい。所属する合唱部に温かく迎え入れられ、退部騒動もなかったことになった。合唱部は人数が少ないが、全員の仲が良い。廉はこのまま合唱部の部室に行き、定期演奏会の練習を楽しく行うのだろう。彼のことを羨ましく思っている自分に気がつき、不愉快な気分になった。
「……どうした山崎、急に黙って」
廉がわざとらしく山崎の顔をのぞき込む。面倒になって、山崎はとうとう白状した。
「職員室に行く」
「誰に会いに? 担任の石田先生? 吹部の香野先生? それとも福原先生?」
「なんで福原先生に俺が会いに行くんだよ。香野先生のところに行くんだ」
「ふーん」
山崎が職員室へ続く階段を昇ると、何故か廉もついてきた。
「何だよ!」
「俺も、香野先生に会っておこうと思ってな」
「何のために?」
「何でもいいだろ」
廉はにやりと笑った。
「それにしても、まだ7時にもなってないぞ。香野先生は本当に来てるのか?」
「ああ。先生はいつも必ず、6時には学校にいらっしゃっている」
予想通り、職員室の電気はついていた。心臓が跳ねるのを手で押さえ、山崎は扉を開けた。
「失礼します」
中にはほんの数人の教師しかいなかった。香野の机に目をやると、誰かが座っている気配があった。狭い職員室の中を、2人で通り抜ける。
香野は、イヤホンで音楽を聴きながら、パソコンで作業をしていた。廉は山崎の後ろから顔を出し、画面を盗み見た。数学の資料かと思ったら、五線譜がびっしりと並ぶ楽譜のデータらしい。
「……先生」
山崎がおずおずと呼びかけると、香野はイヤホンを外してこちらを見た。眼鏡の奥の瞳が細められる。
「おはよう。山崎君に森井君」
「おはようございます!」
山崎が深々とお辞儀をしたので、廉も従った。
「合唱の合宿は楽しかったかな?」
そう聞かれて、山崎は素直にうなずいた。
「はい」
「こっちの合宿ももうすぐ始まるからね。気を引き締めておくんだよ」
「はい! ……先生、コンクールお疲れ様でした。関東大会出場、おめでとうございます」
「ありがとう。部員たちにもそう言ってあげなよ。君のことをずっと気にしてたからね」
優しい口調でそう言った香野は、ふと廉に目を向けた。
「森井君はどうしてここに来たのかな?」
廉はごくりと唾を呑んだ。ただならぬ様子に、山崎も緊張する。廉は何を言おうとしているのだろう?
「先生。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
静かな声で、廉は謝罪した。香野が目を見開く。
「やってしまったことは、もう、取り消しできません。先生方がお怒りになるのも、当然だと思います。……だけど、俺たち、和解しました」
「合宿で?」
「はい」
香野は首を少し傾げ、廉の次の言葉を待っている。
「山崎君の友達として、先生にお願いします。山崎君を、コンクールに出してください!」
山崎はぎょっとして廉を凝視した。廉は真剣な顔で、香野を見下ろしている。とんでもないことを言ってくれた。こんなこと、顧問に「お願い」するなんてあり得ない。そもそも、コンクールに出るメンバーは先生にお願いしたから出れるわけではないのだ。
腹立たしかったが、何故か鼻の奥がつんと痛む。山崎は右手で顔をぬぐっているふりをした。気がつくと、香野が山崎をまっすぐに見上げていた。
「山崎君は、どう思っている?」
「……僕は……」
背負ったトロンボーンが急に重くなった気がした。廉と香野を交互に見比べ、山崎は言葉を絞り出す。
「……森井にそんなこと言ってもらえるような人間ではありません。森井と合唱部を侮辱したのは、事実です。あの時の僕は間違っていました」
「だから、それはもういいんだって」
「森井は黙っててくれ。……コンクールに出ることは、望みません」
「それでも、出たいんだろ?」
軽い調子で廉が聞く。
やがて、香野が溜息混じりに言った。
「森井君は、コンクールメンバーの選出方法を知らないようだね。うちでは毎回オーディションをするんだ。コンクールに出られるかどうかは、そこで決まる」
香野は手招きをして、山崎を近くに寄らせた。それから何故か声を潜めて、香野は言った。
「8月末に、関東大会に向けてのオーディションをやる。そこで、練習の成果を見せてください。その結果で君がコンクールに出るかどうかを決めるからね」
どん、と衝撃が走った。廉が山崎をどついたのだ。廉は拳を握りしめ、叫んだ。
「よっしゃ!」
「馬鹿、やめろ。声がでかすぎる」
「やったな、山崎!」
職員室のあちこちから、忍び笑いが聞こえてくる。仕事をしていた教師たちが会話を聞いていたのだろう。
香野は呆れたような顔で、自身の机に視線を戻した。
「やれやれ、俺も大概生徒に甘いね」
「……ありがとうございます!」
山崎は深く頭を下げた。
「ああ、それと。副部長の仁菜と梶沢が部活運営に苦労してるから、フォローしてやって」
「はい!」
香野はイヤホンをまた耳につけながら、最後に付け加えた。
「……一応、福原先生にお礼は言っておくんだよ。俺は絶対に言わないから」
職員室を出ると、廉が山崎に言った。
「それじゃ、頑張れよ、山崎!」
「ああ。……ありがとう、森井」
それからB棟まで、2人で並んで歩いた。何人かの吹奏楽部員が登校してきていて、山崎に大きな声で朝のあいさつをした。
それから数時間後、合唱部の部員たちが集合して、いつも通りの練習が始まった。基礎練習、曲の練習、休憩を挟んでまた曲の練習。歌う曲が10曲もあるせいか、どことなくせわしない。
「定演まで、あと1ヶ月!」
「分かってますってば」
歌い出しを合わせるのが難しい曲もいくつかあり、伴奏ありの練習で何度も躓いた。楽譜の中の休符をしっかりと頭に入れて、拍の数え方をみんなで揃えなければならない。アイコンタクトやブレスを吸うタイミングで歌い方を合わせるのだが、気を抜くとすぐに少しずつずれていってしまう。
「指揮者がいたらいいんだけどな、なんせこの人数だから」
根気よく後輩たちに指導する廉が、ある時こうこぼした。
「合唱コンクールだったら、絶対指揮者はいますよね」
「そうだな。でもまあ、ないものねだりしていてもしょうがない。しばらくはメトロノームをつけて練習しよう」
夏休みでも、練習は毎日朝から夕方まで続く。誰よりも練習に励んでいたのは、福原かもしれない。秀紀は家が近いこともあってわりと一番乗りをすることが多いのだが、いつ来ても福原のピアノの音が聞こえるのだ。そして、夕方はピアノに送り出されてB棟を出るのだった。
この日も、秀紀が部室に来ると、福原が『空駆ける天馬』の伴奏を練習していた。前半のテンポが早い連符部分が苦手らしく、同じフレーズを何度も繰り返し弾いている。
邪魔をしては悪いかな、と秀紀は思い、声をかけずに通り過ぎようとした。だが、福原は足音で気がついたらしい。ピアノの音がやんだので、秀紀は教室の中をのぞき込んだ。
「おはよーございます!」
「……おはよう。早いな」
「家、近いので」
福原に近づき、秀紀は鞄を手頃な机に下ろした。
「難しいですか?」
福原は苦笑しながらうなずいた。
「でも、ピアノ弾けるのすごいですよね。僕なんか習ってなかったからさっぱりです」
「何もすごくはないさ。今だって、美里の方がよっぽど上手い。昔から習っていたらしいからな」
秀紀は、今までずっと気になっていたことを聞いてみる気になった。
「あの、先生はどうして伴奏をしてくれるんですか? だって、その……」
「美里がいるのに、と言いたいんだろう」
「は、はい」
「ただでさえ人数が少ないのに、そのうえピアノだの指揮だので歌から抜ける子が出ると、肝心の合唱が貧弱になるからな」
「まあ、それは……たしかに」
それに、と福原は優しい声でつないだ。
「美里も他の部員も、伴奏をするためにこの部活に入ってきたんじゃない。合唱をしたくてここにいるんだから、その機会を奪う訳にはいかない」
その時秀紀は、返す言葉をとっさには思いつかず、黙っていた。内心、福原のこういうところが(自分も含めて)慕われるんだろうな、と思う。彼には彼の私生活もあるはずなのに、どれだけの時間を秀紀たちのために割いているのか、こんなに長いこと一緒にいれば簡単に想像がつく。秀紀たちの要望も、大抵聞き入れてくれる。香野には甘いと言われていたが、誰よりも心強い合唱部員たちの味方だ。(それに最近は、厳しく注意されそうなポイントを避ければ、叱られることも少なくなった。)
「……頑張ってください。僕らも、めっちゃ頑張ります」
結局それだけしか言えなかったけれど、福原は笑ってうなずいた。
8月下旬にさしかかると、歌以外の演出の打ち合わせもするようになった。
「じゃあ、会場は教会でいいんだな?」
福原に確認され、フルーツバスケットの形で座る部員たちは互いの顔を見合わせた。ミーティングの最中である。
「他にいい場所、ある?」
泉が部員全体に問いかけた。
「近くにホールはあるっちゃあるが……」
「もうこの時期、空いてないかもしれませんね」
「教会、いいじゃないですか。教会コンサートのリベンジってことで」
「やめろ、嫌な記憶がよみがえる」
「あ、すみません」
「何笑ってんだよ、真衣」
「笑ってないですよ」
泉が考え込みながら、挙手をした。
「なんだ?」
「めっちゃ馬鹿みたいな案かもしれないんだけど、言っていい?」
「おお、どんどん言え。名案かもしれないからな」
「あのね、私、星空の下で定演がしたい」
その言葉に、全員が驚いた。廉が慎重に尋ねる。
「どうしてだ?」
「合宿の時、みんなで星を見たでしょ。あの時の特別な雰囲気の中で歌ったら、どんなに楽しいだろうって思うの」
「野外で定演やるってことですか?」
「声が響かなさそうですね……」
泉が慌てて首を振る。
「何となく言っただけだから。そんなに気にしないで」
「あ! じゃあ……」
千早が何か思いついたのか、目を輝かせた。
「プラネタリウムで定演やるのはどうでしょうか?」
「プラネタリウム!!?」
福原も含めて部員たちが声を揃え、聞き返した。
「ほら、室内だから声も響くし、お客様が座れる椅子も元々あるし」
「結構ありかもね」
美里がおかしそうに言った。千早の隣で、真衣がスマホを取り出して何か調べている。
「……この近くにプラネタリウム、ないですよ。都心まで行かなきゃ」
「そっかぁ……」
落胆する千早や泉を尻目に、拓が口を開く。
「こうするのはどうでしょうか」
その前置きに、廉や福原が警戒する様子を見せた。
「何だ?」
「教会で、黒い幕とかで即席プラネタリウムを作る、というのは……」
「……この中で一番現実的だね」
「現実的か??」
「でも、楽しそう! 幕に穴開けて、天井いっぱいに張るんでしょ?」
「はい。幕と明かりで、星空を演出できたらって」
「いけそうだね」
「たしかに」
部員たちに見つめられ、福原は顔をしかめた。
「先生、どうでしょうか?」
「……お前ら、許可とるのは誰だと思っているんだ」
廉に手のひらで自分を指され、福原は渋面のままうなずいた。
「分かった。相談してみよう。……ただし、条件がある。もし許可がとれたら、絶対にそれをするんだぞ。途中でやっぱり変えますなんて許さないからな」
「はい、勿論です!」
部員たちは声を揃えて返事した。ぴったり同じタイミングだ。連日の練習が効いてきているようだった。




