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第1章 入学


 その日はからっと晴れていて、少し暑いくらいだった。


 最寄りの駅から徒歩5分、トレードマークは天を刺すカテドラルの尖塔。入学式に遅れまいと逸る少年、少女たちを満開の桜並木が迎えた。見渡すとあちこちで桜の花びらが雪のように舞っていて、かわすのも面倒なほどだった。


 澤田秀紀さわだひできは、今年度聖アレクサンドル学院大学高等部に入学する生徒の1人である。聖アレクサンドル学院大学高等部は、カトリック系私立大学の附属高校で、部活動に力を入れていることや海外留学のチャンスがあること、学校の敷地が広く設備が充実していることで人気を集めていた。校舎の側に建つ荘厳なカテドラルにはしばしば観光名所と勘違いした見物客がやってくる。また、大学のキャンパスがすぐ近くにあるためか、都内で有数の蔵書数を誇る大学図書館や、あちこちに安価でおしゃれなカフェがあり、探究心旺盛で虚栄心も強い若者が毎日を過ごすのにはふさわしい場所だといえるだろう。


 秀紀がこの高校に入学したのは、比較的家から近いことと、学費免除の特待に上手く滑り込めたからだ。彼の家庭は全然クリスチャンではなく、むしろ仏壇があるので仏教徒に近いのだが、秀紀も両親も特に宗教にこだわりはなかったため、遠くの公立よりも近くの私立、と教会の門をくぐることになった。


 入学式は(予想通り)、広くて天井の高いカテドラルで行われた。初対面ばかりが並ぶクラスの列の中程で、秀紀はきょろきょろと辺りを見回してばかりいた。なにしろ、目につくもの全てが珍しい。


 カテドラルのステンドグラスからは色とりどりの光がさあっと差しこむし、壁際に並ぶ教室の列の端にはどうみてもシスターの格好をした女性たちが何人も並んでいた。今、秀紀たち新入生の前で大きな十字架を背に立っているのは、黒く裾の長い法衣を着た神父だ。


 ロザリオを首にかけた神父とおぼしき人物は、秀紀の想像に反して、至って普通の祝辞を述べた。彼は来賓として呼ばれたらしい。続いて、スーツを着た初老の校長が壇に上がり、威厳のある声で話し始めた。話の内容は、正直そんなに面白くない。


 退屈した秀紀はまた、周りにいる人間を眺め始めた。新入生の列の後ろでは、吹奏楽部員と年配の指揮者が、椅子に座って静かに待機している。先ほど秀紀たちが入場してきた時、軽快なマーチを演奏してくれたのだ。

 壁際に真面目な顔をして並ぶ教師たちの中には、何人か外国人が混ざっていた。さすがカトリックの学校だ、と秀紀は密かに感心した。そういえば、フランス語の授業をとることもできるらしい。


 不意に、1人の少女の姿が秀紀の目に映った。


 秀紀のクラスの列から少し離れたところにいる、見知らぬ少女だった。真新しいブレザーに包まれた背筋はぴんと伸びていて、しかし彼女の横顔は優しい笑みに彩られていた。高い位置で1つに束ねた、さらさらの黒髪が、くっきりと目に焼きついた。


 不思議なことにその瞬間から、あれほど退屈だった入学式の記憶が飛んでしまったらしい。気がつくと秀紀は1年生の教室に戻っていて、自分の机でぼんやりと考え込んでいた。


 あの子のこと。長い黒髪は窓から差し込む太陽に照らされて、一本一本の毛先が輝いてみえた。ピンク色の滑らかな頰は彼女がふと笑みを浮かべるたびにふっくらと持ち上がった。その笑みは、まるで聖母マリアみたいだった。(せっかくカトリックの学校に入ったから、こういうたとえをしてみましたよ。へへ)

まだよく顔も見ないうちから、彼女の可憐さに心が騒ぐ。300人以上いる同級生の中で、目をつぶっていても、耳を塞がれていてもすぐに彼女を見つけだせる気がしている。でも、彼女はまだ自分を知らない。そう思うと、気分が沈んだ。彼女と同じ中学から、男子は何人来ているのだろうか。今この瞬間、誰かが彼女に話しかけているだろうか。


「なあ」

 ひらひらと目の前で手を振られて、秀紀は思わずのけぞった。

「な、なんだよ」

 目の前にいたのは、見知らぬクラスメイトだった。短く刈った髪の毛を逆立てた、派手な顔をした男子生徒は、秀紀に軽薄な口調で話しかけた。

「ヒマだから、しゃべろうぜ。あんたどこ中? オレは朝日が丘中だけど」

「東部中だよ」

「へえ! いとこが東部中にいるんだ。オレたちの2年下だけど。名前は?」

「澤田秀紀」

「澤田な、覚えとく。オレは篠原隆しのはらたかし。よろしく!」

「よろしく」

 お互いに握手は求めない。何だかそれはかっこつけてる気がするから。でも、秀紀は内心ほっとしていた。あのまま彼女のことを考え続けていたら、どきどきし過ぎて心臓が破裂してしまうんじゃないかなと思ったからだ。

「部活はもう決めたか?」

「バレーかな。中学でやってたから。篠原は?」

「バド! こうみえて、中学の時は都内でベスト8までいったんだぜ。まあでも、この学校は男子の部活があんま強くないらしいけど」

「なんで?」

「女子が多いからな。それに、文化部の方が最近は全国とかバンバンいってるらしい」

「文化部って、吹奏楽とか?」

「そう。あとは合唱とか美術とか茶道とか、いろんな部活があるからそっちに人数が流れるんだと。女子に囲まれて音楽ごっことか理解できないけど」

 秀紀は笑った。

「たしかに、野郎ばっかりの方が気楽だよな」

「分かる? ハーレムはいいけど、女子にこき使われるのはごめんだからな」

 そのうち、担任の教師が入ってきて、雑談はおしまいになった。出欠を取る担任の声を聞きながら、秀紀の意識は再びあの子の姿を再現することに戻っていった。


 翌日から授業が始まった。秀紀や篠原が所属する特進クラスは授業科目が他のクラスよりも多様であるらしい。数学がⅠとAで分かれていることなど、秀紀は今まで知らなかった。歴史の授業も世界史と日本史で分かれており、さらに同じ日本史の中でもAとBがあることも。(Aが安土桃山時代までを習い、Bがそれ以降を習うのかな? そんなわけないか)


 昼食は、篠原やもう何人かの男子と一緒に、食堂で食べた。油断しているとすぐ席が埋まってしまうため、チャイムが鳴ってからのスタートダッシュが大事なのだということを、秀紀たちは身をもって学んだ。カフェもいくつかあるが、高等部の教室があるA棟からはまあまあ離れている。


 放課後、1年生は思い思いに興味がある部活をのぞきにいった。校内では新入部員確保に目をぎらつかせた2、3年生が闊歩している。野球、サッカー、バスケ、バレー、剣道、フェンシング、柔道、ハンドボール……どこを歩いていても部活勧誘のポスターや、プラカードを持つ先輩たちに出くわした。


 篠原は早々にバドミントン部に行った。同じ中学出身の先輩がいて、練習に参加しろと誘われているらしい。秀紀も、そろそろバレー部に行こうかと思い、更衣室でTシャツに着替えてから体育館へと急いだ。


 ところが困ったことに、道に迷ってしまった。階段を何回も昇り降りし、廊下を急ぎ、外に出ては校舎の中に戻り、とうとう見覚えのない場所に出た。これじゃだめだと引き返しても、元いた場所には戻れない。あげくのはてには、入学式の日にもらった地図をじっくりと調べても、自分が今どこにいるのか、さっぱり分からない始末。

 すっかり参ってしまった秀紀は、見慣れない廊下の隅に腰を下ろした。教師でも誰でも通りがかってくれたら助けを求めることもできるけれど、運悪く誰1人近づいてはこない。

「神様、お助けください」

 秀紀はクリスチャンでもないのに、都合良く神に祈った。まあでもいいよな、僕は今聖アレクサンドル学院の生徒になったんだから。ちょっとくらい神様になれなれしくしたって。

 その場でぼうっとして、10分ほど経った。どうやら助けの手は差し伸べられなかったらしい。身勝手なため息をついて、秀紀は立ち上がった。廊下は少し埃っぽい。新鮮な空気と風を求めて、窓を開けた。


 顔に当たる春の強風に混ざって、かすかな歌声が聞こえた。

「えっ、どこから?」

 秀紀は思わず、窓から身を乗り出した。やっぱり、聞こえる。視線を下げると、何やらささやき合いながら1つの方向を見て歩いていく女子生徒たちの姿が見えた。彼女たちの向かう先から、歌が聞こえる。

 秀紀が外を見下ろしながらぽかんとしていると、1人の女の子が早足で、先ほどの女子たちを追いかけるようにして歩いていった。ポニーテールが特徴的だ。

「……あの子だ」

 秀紀は呟いた。何の根拠もないけど、あの子だ。こんなに早くまた見つけられるなんて!


 窓をそのままにして、秀紀は廊下を走った。最初に見つけた階段を駆け下り、上履きも履き替えずに知らない出口から外へ飛び出した。すっかり緑の葉に衣替えした桜の木々の前を駆け抜け、彼女の姿を探した。

「いた……!」

 彼女は中庭(校舎と校舎の間にあるんだから、多分中庭だ)のベンチに座っていた。1人だ。だが、話しかける勇気はどうしてもなかった。

 彼女の見つめる先には、男子と女子が2人ずつ、横一列に並んでいた。何をしているのだろうと思った瞬間、彼らは大きく口を開け、歌い出した。


 すらすらと流れ出すのは、陽気なメロディーと英語の歌詞だ。滑らかに、発音に照れることもなく、背の高い男子がリードして歌う。めがねをかけたもう1人の男子は、笑っているような楽しげな表情で口を動かしていた。1つしばりの女子はちょっと照れ臭そうに、目を伏せて歌っていたが、その隣のボブヘアの女子は眉をいきいきと動かし、普段の会話をしているような様子でこちらを見て、どこか誇らしげに時折顎を上げながら、声を重ねた。

 たった4人しかいないのに、彼らは本当に楽しそうに、パワフルな声で歌う。聞いたことのある懐かしいメロディーが、がつんと頭の中に流れ込む。

 つられて手拍子を叩きながら、ベンチに座る彼女を盗み見ると、彼女も満面に笑みをたたえ、大きく手を打ち鳴らしていた。彼女が体を揺らすたびに、ポニーテールの先も左右に踊った。


 彼らは何者? と思った時、背の高い男子の足元に放り出されたプラカードが目に入った。黒いマジックででかでかと「合唱部」と書かれている。


 歌が終わった。拍手が上がる。合唱部の部員たちはプラカードを拾い上げ、大声で言った。

「合唱部、絶賛部員大募集中! B棟4階の一番奥で活動してます! 興味があったらのぞいてみてくれ!」

「いーっぱいイベントあるので、すごく楽しいよ!」

「体験入部期間中は、毎日いろんなとこでゲリラコンサートします! 場所はその時になってからのお楽しみ。もし見つけたら、また聞いてください!」

「それでは、また、どこかで会いましょう!」

 4人で同時にお辞儀をすると、合唱部員はどこかへ走っていった。中庭に集まった生徒たちはしばらくざわめいていたが、やがて散らばっていった。


 秀紀はその場に立ち尽くしていた。もう、歌は終わったのだ。あんなちょっとの時間、彼らの歌を聴いただけなのに、無性に寂しかった。


 ベンチから立ち上がる、衣ずれの音がした。はっと目を向けると、あの子がこちらに歩いてこようとしていた。何か話しかけたいと秀紀は思う。だけど、今は全くその準備ができていない。無理だ!

 

 軽い足音が秀紀のすぐ近くで止まった。秀紀は息を呑む。あの子が目の前にいた。


 その子はやっぱり、とんでもなく可愛い女の子だった。たれ目も、そばかすが散ったピンク色のふっくらした頰も、孤を描く唇も、全てが魅力的だった。

 

 彼女は秀紀をじっと見つめ、手を伸ばした。秀紀の心臓はもう肋骨をぶち破らんばかりに飛び跳ねている。

 彼女が口を開いた。

「さくら」

「え?」

 彼女の細い指が、そっと秀紀の肩を撫でた。よく見ると、指先に桜の花びらが1枚のっていた。

「ふふふ。肩にのってた。きっと最後の花びらね」

 指先の桜は、そよ風にさらわれて飛んでいってしまい、分からなくなった。

「あ、ああ、もう葉桜だから……」

 彼女はにっこり笑って、秀紀に言った。

「合唱、すごく良かったよね。また聴けたらいいな」

 彼女が悠々と立ち去っても、秀紀はしばらくその場から動けなかった。


 多分、その時の体験のせいなのだ。男バレに入ると決めていたはずなのに、B棟の階段を登っていたのは__。


 部活棟__通称B棟の、最上階。4階の一番奥が合唱部の部室だと言っていた。奥から2番目の教室は空っぽだったが、アップライトピアノが置いてあるのが分かった。

 部室の扉は閉まっていた。中から、談笑する声が聞こえてくる。心臓が早鐘を打った。この中にあの子がいるといいなと思う。でも、そんな期待をしてどうする、と冷静なもう1人の自分に叱られもする。

 後ろから声がかかった。

「どうした?」

 深く落ち着いた声だった。振り返ると、小脇に紙の束を抱えた男が立っていた。彫りの深い顔立ちに、明るい髪の毛と瞳。入学式の時に見かけた外国人教師の1人だと咄嗟に思った。

「あ、あの……」

「1年生だな? 見学に来てくれたのか」

 教師はつかつかと近寄ってきて、秀紀の肩にそっと手を置いた。

「君が見に来たのは合唱部で間違いないな?」

「あ、はい」

「名前は?」

「澤田っす」

「澤田“です”」

 言い直され、秀紀は思わずむっとした。

「澤田です」

「よし。ちょうど今から練習だ。中に入りなさい」

 秀紀が黙っていると、その教師は露骨に眉をひそめた。

「返事は?」

「……はい」

 口うるさいやつだ。ちょっと見学して、さっさと退散しよう。そう考えながら、秀紀は部室の扉を開けた。


 中には7人ほどの生徒がいた。秀紀と同じ1年生も混ざっている。だが、あの子はいないようだった。

 秀紀の後ろからあの教師が入ってきて、大声で言った。

「新入部員、もう1人追加だ」

「えっ!?」

 まだ何も言っていないのに。慌てて否定しようとした時、秀紀と教師の目がぶつかった。彼は先ほどまでの厳しい表情を一転して崩し、にっこりと微笑んでいた。

「よろしく、澤田君」

 部室の奥から背の高い男子生徒が飛んできて、秀紀の手をがっしりとつかむ。

「ようこそ、合唱部へ! ゲリラコンサートを聴いてくれた奴だな、ありがとう! もう離さないぞ」

「えっ、ちょっと……」

 男子生徒は整った顔を秀紀にぐっと近づけ、背中を強く叩いた。

「お前は絶対、歌の才能がある!」

 周りの生徒たちは、にやにや笑っていた。


 なんだか分からないけど、はめられたらしい。今更帰りますとも言えず、秀紀はだらだらと汗をかきながら先輩たちの熱烈な歓迎を受けたのだった。





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