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こちら、満員電車にて

作者: 文尾学

満員電車だ。

これだから通勤時間になんか電車に乗りたくなかったのに。だが、小生は就職活動の身。我儘など言っていられない。午前中の時間しか面接時間が選択できなかったのだ。それも運命だと受け入れることにして、朝七時半の電車に乗った。

そして、今、小生は脂汗を流している。

電車に揺られること二十分。腹が痛くて仕方がない。

なんでこんなことになったのか。昨日何を食べたのかすら、腹が痛くて思い出せない。そんなことに頭を使ってしまうと、肛門を閉じている電気信号が途切れてうんちが流れ出てしまうかもしれない。

危ない状況だ。

一瞬の油断も許さない。肛門の穴にとにかく全身の力を込める。お尻の強度は鋼にも匹敵しているだろう。それでもギリギリだ。

新宿駅に着くまで残り四十分。果たして耐えられるだろうか。面接時間は九時十五分。かなり余裕を持って電車に乗った。予定では八時半頃着いて、そこから面接会場まで十五分程歩く。会場付近に三十分前には着いている予定で動いていたが…。

「ふーーーー」

サラリーマン包囲網によって身動きは取れない。ずっと同じ体勢というのは腹に負担がかかる…。そして、右隣のサラリーマンがとてもタバコ臭い。

いや。他のことを考えるのは止めよう。お尻のことだけ考えなければ。目を閉じ、お尻の穴に更に力を込めた。目を瞑り、暗闇に自分を溶け込ませる。そうすれば、邪念が消えるような気がした。

そう言えば、長いトンネルを抜けると雪国が広がる小説があった。なんてワクワクする美しい冒頭だろうと思ったのを覚えている。

小生も腹痛を抱えながら、新宿へと向かうこの暗闇が早く晴れるのを必死に待つ。


「前を走ります車両の安全点検のため、この電車は速度を落として走行致します」


思わず目を開いた。

窓を流れていく景色がどんどんとスピードを落としていく。嘘だ。どうしてよりによってこんな大事な日に腹痛に見舞われ、遅延すら起こってしまうのか。

腕時計を見ると八時十五分だった。後十五分で新宿に着くのに、これでは肛門が先に限界を迎えてしまう。一旦駅を降りることも考えなければならない。

明大前駅で降りれば、またそこから特急に乗れる。それであれば、肛門の解放タイムを挟んでも、ちゃんと面接時間には間に合うはずだ。

焦ることはない。こんなときの為に、時間に余裕を持って出ているのだ。

「ふーーーーーーーー」

深呼吸をし、心を整えて再び目を閉じる。


「前方を走ります車両での車内トラブルのため、一時停車致します」


再び目を見開く。

窓を流れていく景色は更に速度を落とし、やがて古い二階建ての家の洗濯物が干してある庭の前で電車が停車した。

もはや一切の心の余裕がなくなったのは言うまでもない。このままでは小生がこの車両で車内トラブルを起こしてしまう。そうなれば、もう面接などというレベルの話ではない。茶色く染まったリクルートスーツで面接官と対峙するなど至難の業だ。幾ら小生と言えども、それは気恥ずかしい。

いよいよ本当に最後の現界が来ても、この場に逃げ場などない。周囲をサラリーマン包囲網でガチガチに固められているのだ。腕一本すら動かすことに難儀してしまうこの空間。世の中のサラリーマンは毎朝こんな戦場を戦っているのか。一体お腹を下しているサラリーマン達はどうやってこの戦場を掻い潜っているのだ。

窓の景色が変わらない。

一分が永遠に感じられるような時間だった。


気がつくと、小生は急いで階段を降りていた。

電車の扉が開くのと同時に飛び出したのだ。

ここが何処の駅なのか分からないし、トイレが一体何処にあるのかも分からない。だが、とにかく前へ進まないといけない。

十分間、全く動かない電車に閉じ込められたはずなのに、その間の記憶が無い。一体小生はどうやってあの時間を耐え抜いたのか。

いや、そんなことはどうでもいい。

階段を降りると、真正面にトイレがあった。内股になりながら、小走りで男子トイレに駆け込む。これで、救われる。今までの苦労が報われる。それなのに、個室の扉は全て閉まっていた。

しかも、その扉が開くのを待っているのが一人いる。

もう、だめかもしれない。

腕時計を見ると九時前だった。面接の時間すら守れない。ましてや、今まさに脱糞しそうな人間が社会で真っ当に働けるわけもない。小生には、社会人になるステップはまだ早かったのだろうか。今まで何をして生きてきたのだろう。後悔と羞恥心に苛まれる。

自責の念を抱きながら、全てを諦めようとしたとき、個室の扉が同時に二つ開いた。

小生は、小生はこのときほど人に感謝したことはない。

「ありがとう」

そう言って、小生は片方の個室に入り鍵をかけた。


トイレが詰まっている。


縁ギリギリまで水が溜まり。トイレットペーパーの残骸がふわふわと浮かんでいる。

踵を返し、ここから出てきた奴を追いかけて引きずり回そうかと思ったが、腹が限界だった。

「ふーー」

空なんて見えないのに、思わず天を仰いだ。

だがしかし、たまたま、本当に偶然にも他の個室の扉が開き、そこに小生は滑り込むように入った。

そこから腹の痛みとなるものを解放する。

間に合った。小生は間に合ったのだ。

リクルートスーツを茶色に染めることなく、この戦いに勝ち抜いたのだ。自分を褒めてあげたい。心の底から自分自信を褒めてあげたいと思った。

だが、冷静になると、もう一つの問題が浮かんできた。

時間は九時十五分を過ぎている。もう面接に間に合わないのは確定した。

小生は急いでメールを開き、面接の案内を見た。やんごとなき理由で遅れてしまうと、そう伝えたかったのだ。

メールに記載されている電話番号はどうやら、その会社の本社、人事担当の部署のようだった。

トイレの中で、小生は電話をかけた。

「プルルルル。プルルルル」

長い。

永遠に繰り返されるベルの音。

全くつながらない。

コン、コン、とドアをノックされた。いかんいかん。先ほどの小生のように、今にも現界を迎えようとしている戦士が内股で脂汗を垂らしているかもしれない。早く同胞の為にこの楽園を明け渡さなければ。


結局、何回かけても電話は繋がらなかった。もう、いよいよ諦めなければならないと思ったとき、携帯電話が振動した。

登録のない番号だ。

「もしもし」

「私、株式会社○○の採用担当をしている小村と申します。○○様(小生の名)の携帯電話でよろしいでしょうか」

「はい。そうです」

「面接時間を過ぎましたので、何かあったのかと思って念のためご連絡させて頂きました」

なんて良い人なのだろう。小生は自分の身に降りかかった不幸をこの親切な方に話した。もちろん、腹痛の部分は省いて。

「遅延ですか。それは災難でしたね。他の方の採用面接が終わるのがお昼前になります。もし十二時からであれば、面接させて頂きます」

「い、良いんですか?」

「もちろんです。焦らずに、ゆっくりいらしてください」

小生は、小生は信じられなかった。採用面接でこんなに優しくして頂けるとは。涙が出そうになるのを堪えた。

「あ、有難う御座います!」

「はい。お会いできるのを楽しみにしています」


こうして、小生は大事な面接を迎えることが出来た。あの日、小生を温かく迎え入れてくれた面接官の方達にはいくらお礼を言っても言い足りない。

結果としてご縁はなかったが、それでも、あれだけ親切にしてくれたことを小生は忘れない。

その会社が作る様々な作品を小生は楽しみにしている。小生も、別の形ではあるが、作品を作りたいと思っている。

最後に、これは実話である。

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