失った記憶 3
婚約後初めて彼の家に招待された時、遅刻してはいけないと屋敷を早く出過ぎて到着が早くなってしまった。
執事のアンリさんに「ぼっちゃまは現在剣術の稽古中です」と言われ、見学してはどうかと誘われた。
言われるがまま、アンリさんについて歩いていると、公爵邸の美しい屋敷に目を奪われながら歩いていた。
案内された訓練場には、たくさんの騎士たちが訓練をしていて、彼はどこかと探そうとしたところ、一際小さな影が目の前で吹き飛ばされたのを見て固まる。
「っつ……」
ヴュート様……⁉︎
思わず驚いたところに、大柄の熊のような短髪の男性が笑いながら吹き飛んだ彼の方に近寄っていく。
「ははは、そんな簡単に吹き飛ばされるようじゃあ今後の訓練が心配ですね。まるで枯れ枝のようではないですか。そんなんじゃ貴方が目指すという最強の騎士になるなんて夢のまた夢ですぞ」
その人物に思わず目を見張った。
生きる伝説、王国騎士団団長のアシュラン=キリウスその人だ。
訓練場にはシルフェン家の騎士達と、王国騎士団の制服を着た騎士達が模擬戦をしていた。
交流練習とか、合同練習だろうか?
「もう一度、お願いします」
キッと顔を上げ、立ち上がった彼は剣を構えてアシュラン殿に向き直る。
「うーん。お相手したいのは山々ですが、幾分私も忙しいもので……。そこの新米兵士にお相手をお願いしましょう。おい、そこのへっぴり腰のにいちゃん」
「へ? 私ですか⁉︎」
「そうそう、にいちゃんだよ」
近くで対人練習をしていた王国騎士団の制服を着た『へっぴり腰のにいちゃん』と呼ばれた彼は慌てて彼らのところにやってきた。
自分のとこの隊員くらい名前覚えてあげましょうよ。
「しばらくおぼっちゃまの相手しといてくんないかな。俺ぁ、そこで茶ぁ飲んでるからよ」
暇やないか!!
さっき忙しいと言った口が、公爵家の嫡男相手にすごいこと言うな。と開いた口が塞がらない。
ここまでコケにされたら怒るんじゃないかなと思いながら、ちらりとヴュート様を見る。すると、彼は黙って『へっぴり腰のにいちゃん』に向き直った。
「よろしくお願いします」
「は……はいっ」
丁寧に礼をされた新米騎士は強張った顔で礼をして構えた。
「おい、『へっぴり腰』君。おぼっちゃまだからって手ェ抜くんじゃねぇぞ。サボったら屋敷の周りを二十周走らせるからな。終わんなくても今夜寝られると思うなよ」
アシュラン殿のその言葉にヒョっと彼の背筋が伸びる。
公爵家の周りなんて一周走るのに小一時間はかかる。
哀れ……。
そう思いながらも向き合った彼らの手合わせにハラハラしてしまう。
そうして始まった稽古は……。
……弱すぎない?
ヴュート様の剣は一向に『へっぴり腰』のお兄さんに当たる気配がない。
なんか、見てて可哀想になってくる。
「フリージアお嬢様。そろそろ約束のお時間ですが、ヴュート様にお声かけしましょうか?」
横に立っていた執事のアンリさんが小さく耳打ちをした。
「いえ……。よければ見ていてもいいですか?」
「お嬢様がそうおっしゃるのであれば」
柔らかく微笑みながらそう言って彼は椅子を持って来てくれたが、やんわりと断った。
後ろからアシュラン様の圧を感じる『へっぴり腰君』は、右に、左にと攻める手を休めない。
何度目かの負けを越えて、勝負が決まるのが長引いてきた。
「ハッ……ハァッ……ハッ……」
小さく、浅い呼吸を繰り返すヴュート様が倒れるんじゃないかと心配になる。
「も……、もう一度……」
ふらふらと、騎士に向かっていく彼をハラハラと見ていると、一撃で弾かれていた剣は落とされる事なく、彼の手の中で堪えている。
「あっ……」
騎士の剣をいなしたヴュート様のそれが相手に向かった時……。
カクン、と膝から崩れ落ちた。
「はーい。そこまで」
日が傾きかけた頃、ずっと日陰でお茶とお菓子をメイドさんに給仕されていたアシュラン様がのっそりと立ち上がりながら言った。
「坊っちゃんは限界みたいだから、今日はここまでにしておきましょう。ゲイルもご苦労さん」
『ゲイル』と声をかけたその言葉にアシュラン様があえて騎士を『へっぴり腰』と言った意図を知る。
「僕はまだ……っ」
「お客様もお待ちのようですしね」
アシュラン様がにこりとこちらに視線をやると、その先を辿ったヴュート様と目が合う。
「フ……フリージア嬢……。いつから……そこに」
だんだんと真っ赤になってくるヴュート様をアシュラン様がニヤニヤと見ている。
「ご無沙汰しております。ヴュート様。そして初めましてアシュラン王国騎士団長様。フリージア=ソルトと申します」
裾を軽く摘み上げ、貴族令嬢としての礼を執る。
「あぁ、ソルト家の御令嬢でしたか。初めまして。アシュラン=キリウスです。ずっと立ちっぱなしでお疲れでしょう。中にでも入りましょうか」
いや、貴方のお家ではないでしょう⁉︎
と思いながらも、そういえばアシュラン様とシルフェン公爵様は旧友の中だったと聞いたことがあるのを思い出す。
「立ちっぱなしって…いつから」
驚いて動けないのか、膝に力が入らないのか、微動だにしないヴュートが呟く。
「えと……その……」
なんて言ったらいいか分からなくて口籠ると、「へっぴりごし君とやるとこからですよねー」とにこやかにアシュラン様が言う。
「アンリ! フリージア嬢が来たなら教え……」
「違うんです。私が訓練を見たいと言ったんです」
アンリさんにそう言った彼を遮った。
「お恥ずかしい……ところを」
少し俯きながら、腕で顔を隠す彼の前にしゃがみ込む。
「いいえ。とても素敵でした」
「どこが……。一度も、相手に剣が掠る事なく。最後は体力切れです」
相手は、彼より一回り大きな体つき。アシュラン様から見れば『へっぴり腰』といえど、選ばれた者しか入団することの出来ない王国騎士団員だ。鍛え方も体力も技術も、雲泥の差があるはずだ。
「いえ、とても素敵でした。私にはないものをお持ちのヴュート様が羨ましいです」
「え……?」
キョトンとするヴュート様は何を言っているのか分からないだろう。
相手が強いと、敵わないと分かっていても立ち向かう勇気。
自分は誰にも向かっていけない。
諦めることを覚えてしまったから。
だって拒絶されるのが怖いから。
そして何より、機嫌取りをしようとしている、卑怯な自分が何より恥ずかしかった。
それでもなお、目の前で彼がその姿を見せてくれても、私には真似をすることもできない。
そんな事を考えていると、アシュラン様がひょいとヴュート様を担いだ。
「うわっ。何を……」
「何って、膝に力が入らんのでしょう? いつまでもここにいるわけに行きませんし。フリージア嬢をずっとここにいさせるおつもりですか?」
「……っ。自分で歩けます……」
「婚約者殿の前で格好つけたい気持ちはわかりますが、そんな生まれたての子鹿のような状態では屋敷の中にたどり着くのは真夜中ですよ」
そう言い捨てて、アシュラン様は彼を担いだままさっさと屋敷の中に入って行った。
あの時、真っ赤になりながらも、不貞腐れた彼の顔を可愛いと思った記憶は未だ鮮明に覚えている。