英雄は裏切りを知る 2
「貴方、大丈夫?」
ひょいと覗かせた、恐らく年下の女の子は心配そうに紫水晶の目を揺らしている。
「えっと……。多分」
そう言って起きあがろうとすると腹部に激痛が走る。
「っつ……」
「ちょっと、無理しちゃダメよ」
駆け寄ってきた女の子の周囲に大人の姿はない。
「えっと……、君が助けてくれたんだよね? ありがとう」
「ちょっと大きい声でお父様、お母様〜! って言っただけよ。ところでこんな人気のないところで何してたの? いつもあいつらにいじめられてるの?」
あ、あいつら……って。
幾分か令嬢らしくない口ぶりの彼女は少し怒っているようにも見える。
「違うよ。今日初めて会って……」
俯きながら、視線を散らばった薬草に目をやった。
もう少ししたら日が落ちる。
時間がない。
少しでも、何かトリスタンの為に何かしたかったのに……。
そう思うと視界が滲んだ。
「ちょちょちょちょ……! 何⁉︎ どうしたの? お腹痛い⁉︎ 大人の人呼んで来ようか⁉︎」
「違う……。違うんだ」
溢れ出した涙は止まらない。
トリスタンの苦しそうな表情が頭から離れない。
「弟が……。弟の薬草だったんだ」
そう言うと、彼女は黙り込んで近くに散らばった薬草を見ながら、転がっていた薬草図鑑の印を付けたページをパラパラとめくった。
あんな状況の薬草なんて使えないことぐらい僕でも分かる。
ぐちゃぐちゃに踏み躙られ、もうどれが何の薬草かだなんて分かりもしない。
「サリベル、ミコレット、アーベラ、ピポラ……」
彼女が小さく口にした薬草の名前にハッと顔を上げる。
「分かるの……?」
「うん、分かるよ。好きだから、こういうの。……弟さん、具合悪いの?」
沈んでゆく夕陽が木々の間から差し込んでくる。
逆光になった彼女の表情は分からないけれど、心配してくれているのは分かる。
「咳が……止まらなくて。熱も下がらない。ここにしかない薬草を早く持って帰ってあげたかったけど……。また明日明るくなったら取りに来る事にするよ」
その時、シルフェン家のメイドが泣きそうな顔をしながら息を切らせて走ってきた。
「坊ちゃま、こんな所にいらっしゃるなんて。森の奥に行ってはいけないと申し上げたではありませんか」
「ごめん、ちょっと……ウサギを追いかけていたらこんなとこまで入っちゃったんだ」
「さ、参りましょう。お嬢様もご一緒に広場へ戻りませんか?」
彼女に気付いたメイドが声をかけると、「私は一人で戻れるから大丈夫。お気遣いありがとう」と言って、手を振りながら歩いて去って行った。
その日は屋敷に帰り、朝早く探そうと心に決めて眠りについた。
――のに、夜明け前、バタバタと屋敷が騒がしくなる。
「ヴュート様! トリスタン様が!」
部屋に飛び込んできたメイドと弟の部屋に入ると、父も母もトリスタンの側で手を握っている。
主治医が近づいてきて、眉根を寄せて、言いにくそうに小さな声で言った。
「恐らく……。今日が峠かと……」
その言葉に奈落の底に落とされたかのような感覚に陥る。
「ト……トリスタン」
まだ逝かないでくれ。
神様、まだ弟を連れて行かないで。
――守ると決めたのに。
「ピポラがあれば……」
そう呟いた主治医の言葉に思わず部屋を飛び出した。
あの花さえあれば!
あの時踏み潰されなければ!
あの侯爵家のヤツがいなければ!!
ドス黒い感情と焦燥が混じり、ザワザワと抑えが効かない感情が込み上げてくる。
厩舎に駆け込み、自分の馬に跨った。
「ヴュート様!?」
厩番が驚きの声を上げるが、王家の森に行ってくるとだけ告げ、引き止める声を無視してそのまま公爵家を出た。
王家の森の広場には、ちらほらと、明かりが灯され、夜通しピクニックを楽しんでいる者たちもいた。
「昨日の場所に行けば、他にも近くに生えているかもしれない……」
昨日の場所を探して森の中に入る。
こんな時間なら昨日のあいつらに邪魔されることはないだろう。
ガサリと背後で音がしてビクリと体がこわばる。
ウサギのような小動物じゃない。でも、ここに危険な動物はいないはずだ。
「あ、早いね」
思わぬ声と共に、銀色の頭が顔を出した。
「え、……え?」
どこぞの令嬢が動く時間帯ではない。
人のことは言えないけれど、予想だにしなかった茂みから覗く銀の頭に固まる。
「こんな時間に、……何して」
「あなたに言われたくないわ。……はい、コレ」
そう言って彼女が差し出した籐カゴの中には沢山の薬草が入っていた。
「ピポラも沢山見つけたのよ」
そう言ってカゴを差し出した彼女の手は小さな切り傷に、ドレスは泥だらけ。
しかも昨日と同じドレスだった。
「何で……」
「……時間はあまり無いのかなって。私が探しておけば時短になるでしょ? プレゼントだよ。リボンも結んでるでしょう?」
差し出されたカゴを受け取ると、確かに明るい黄色のリボンが籐籠の持ち手に結んであった。
「そのリボン、私の刺繍の初めての完成形なのよ。大丈夫だよ。絶対弟さん良くなるよ」
そう言いながらあどけなく笑った彼女の笑顔に胸が震え、銀糸を使った模様の刺繍に手を触れた。
「ありがとう……。綺麗だ……」
「こちらこそ、褒めてくれてありがとう」
彼女に渡された籐籠に涙が落ちる。
彼女の気持ちが嬉しかった。
どれだけ、時間を割いて、こんなになるまで探してくれたのだろうか。
「え、やだ! また泣いてるの⁉︎ まだ殴られたところ痛い⁉︎」
「いや、……そうじゃなくて……」
「大丈夫よ! あいつらにはこっそり仕返ししておいてあげたから」
ふふんと得意げに言う彼女は聞いてくれと言わんばかりの顔をしている。
「い、一体何を……」
体の小さい彼女があの三人の少年に向かって行って無傷とは考えられないし、実際彼女はピンピンしている。
「可愛らしいご令嬢達と話をしているところに後ろからこっそりナメクジを投げつけてやったのよ」
え……。
まさか素手でナメクジを投げたんじゃ……。
令嬢らしくない彼女の言動と行動に瞠目する。
「そしたらあいつ『きょえぇぇぇぇっ!』って綺麗な令嬢たちの前で情けない悲鳴上げてたのよ! 『きょえぇぇぇ』って! ないわー! 笑い堪えるのに必死だったわ」
ケラケラ笑う彼女に開いた口が塞がらない。
「そんな事したら……」
「何言ってるの。大事な薬草を踏み潰された上に、暴力振るわれて、更に三人ががりでボコボコにされるところだったのよ。あれくらい大したことじゃないわよ!」
そう言う彼女の圧に思わず怯んでしまう。
「……逞しすぎるよ」
「ありがとう! 褒め言葉として受け取っておくわ。ま、こっそりという所が自分では納得できないけれど、あいつらも親に隠れてこっそりいじめをしていたんだからおあいこよね」
ニカっと笑う彼女に「そうだね」と一緒に笑ってしまった。
「弟さん……元気になるといいね」
そんな僕を見ながら彼女が視線を落とした先のカゴに目をやる。
ふと見ると、夜にしか咲かない珍しい花、「月の雫」もあった。
万病に効くとも言われるとそれは、間違いなく夜の内に摘んだものだろう。
あの後すぐに、きっと僕のために摘んでくれたものだ。
「早く貴方の弟のところに行ってあげて。早くしないと萎れちゃう」
「あ、うん。……えと、また明日も会えるかな」
そう言うと彼女は少し遅れて、「私ね、妹が出来るの」と言った。
「え?」
近々赤ん坊が生まれると言うことだろうか。
「明日、新しいお母様と二つ下の妹がお屋敷に来るの。だから明日は二人の歓迎パーティをするからここには来られないの」
新しい母親と妹……。
それはきっと複雑な心境だろう。
「そっか……」
「お母様が、亡くなって少し静かだったお屋敷も賑やかになるかな。お父様も魔道士協会の副理事長さんっていうお仕事を辞めて、別のお仕事でお忙しいみたいだけど、……お屋敷にいる時間が増えると嬉しいな」
その言葉に驚く。
父親が辞めた魔導士協会の副理事長と言うことは三代公爵家の一つ、ソルト公爵家の令嬢だったとは……。
正直、とても公爵令嬢には見えなかったと言ったら彼女は怒るだろうか。
「貴方みたいに妹と仲良く出来ると嬉しいなぁ」
そう柔らかく微笑みながら彼女はもう一つ小さなカゴを出した。
そこには恐らく薬草ではない花が摘まれている。
「ここにしかないお花、あげたら喜んでくれるかな」
照れくさそうに、心配そうに言う彼女は昼間の彼女と比べて少し儚げだ。
「君なら大丈夫だよ。絶対仲良くなれる」
「ジア! ……フリージア! どこにいるの?」
その時、遠くで女性の声が響くと彼女がパッと顔を上げた。
「お祖母様だわ。テントを抜け出していたのがバレたみたい! 代わりの人形じゃダメだったか〜」
ガックリと項垂れるその様に、笑ってしまう。
「じゃあ私行かなくちゃ。あなたも早く弟さんのところに戻ってあげて!」
「う、うん!」
「あ、それ、私からって誰にも言わないでね! お父様に夜更かししてたことがバレたら怒られちゃう」
そう言って手を振りながら彼女は去って行き、背後から祖母に飛びついて二人で笑っていた。
彼女が去って行ったと同時にシルフェン家の馬車で追いかけてきたメイドと執事の迎えが来て家に帰った。
急いで主治医にその薬草を渡すと、『ピポラ』だけでなく、『月の雫』があることに驚きながらも、これで峠は越えられるはずだとすぐに治療に当たった。
そうして二日もすれば彼女にもらった薬草で弟の病気は信じられないほど改善し、家は明るくなった。
「私がもっとトリスタンを丈夫に産んでいたら」
そう毎日のように泣いていた母は、トリスタンの回復に心の底から安心したようで、母とトリスタンの明るい声が屋敷に響き渡る。
そんな二人を穏やかに見つめる父に僕も、この幸福に感謝するしかなかった。
そうして父に将来の結婚相手としてソルト公爵家のフリージア嬢がいいと進言すると少し、驚いたような、それでいて揶揄うような顔をしながら打診してくれると言った。
その後、話は少しずつ進展し、半年後、婚約の為の顔合わせの日取りとなった。
彼女は気づいてくれるだろうか。
あの時のお礼をたくさん言いたい。
「よかったね」、とまたあの時のような曇りない笑顔で言ってくれるだろうか。
それとも「ほら、私の言った通りでしょう」と得意げに言うだろうか。
そんな想像を膨らませながら迎えた当日。
――彼女の笑顔はあの時のものではなくなっていた。
僕を覚えてさえいなかった。