4.9. 平山現咲の視点
八神圭伍がここまで説明すると、今度はリア子が言った。
「その事件のことは、私からも説明させて欲しいな。」
すると、八神圭伍は頷いた。
それを横目に見つつ、リア子が語り始めた。
「それは、私が東都大学経営学部経営学科の4年生になったばかりの頃だったわ。その年は桜の開花が遅くて、4月に入ってもまだ5分咲きくらいだった。暖冬だったんだけどね…。」
こうして、リア子の長い話が始まった。それをまとめると、こんなことになる。
その日、研究室の顔合わせで少し遅い時間になってしまった。リア子たちの父は厳格だ。事前に断っておかない限り、門限は早い。
だから、リア子は帰路を急いだ。普段通らない近道を使って。ところが、クルマが少なく人気も無いこの場所で、人工的な低音が聞こえる。
後ろから聞こえてくるような気がしてふと振り返ると、雲に覆われた暗い空の下、赤い光点が彼女の後ろをつけてきていることに気づいた。彼女が走っても方向を変えても、それはきっとついて来た。
気持ち悪い…。
彼女が何の気無しに後ろを振り返ったその時、雲が切れ間から満月の光が地上に差した。すると、いつの間にか、彼女の目の前にボロボロの服を着た人が現れた。浮浪者だろうか?暗くて性別もよく分からなかったが、初老の男だろうか…?
「彼」の手には銃のようなものが握られている。彼女が「逃げなければ」と本能的に思った瞬間、右肩に鋭い痛みを感じて、身体の自由が効かなくなっていった。
やがて、遠のいていく意識の中で、眩しい光が彼女の視界に溢れた。それが何なのか、彼女にはわからなかった。だが、彼女には「悪夢」を払ってくれる浄化の光のような気がした。
リア子が目覚めたのは、病院のベッド上だった。状況が判らず彼女はパニックになった。だが、彼女が目覚めたことに気付いた看護師が、落ち着かせてくれた。そして、リア子がクルマに轢かれて救急車で運ばれて来た…と語った。
リア子は、看護師の説明を聴きながら彼女の記憶を辿った。どうも、看護師の説明はおかしい…リア子の記憶と整合しない。
リア子は、ふと、意識が無くなる前に痛みを感じた右肩を摩った。すると、少し腫れが残っていて痛みも感じる。その様子を見た看護師が、彼女に何か問題があるのか尋ねてきた。
そこで、右肩に鋭い痛みを感じた後に意識を失ったと看護師に話し、まだ腫れが残っている右肩を見せた。すると、看護師の顔色が変わった。
やがて、警官が次々にやって来て、質問攻めにあった。警官たちが慌ただしく去っていくと、今度は診察室に連れて行かれて、医師たちの診察を受けた。それが終わると、検査に次ぐ検査。血液もたっぷり抜かれた…。
ようやく検査が終わって病室に戻ると、父の平山龍生が女性の秘書と共にやって来ていた。父はリア子に声をかけたが、どことなく空虚だった。どう言うわけか、父も警察に事情聴取されたらしい。
その父と秘書の会話は、意味が分からないのに、何故か記憶に残った。
「やはり、高坂和巳の仕業でしょうか?」
「警察が言うには、奴は破産して家族も離散して浮浪者になったらしい…。」
「社長を恨んでのことでしょうか?」
「奴に恨まれる筋合いは無い。努力もせず能力も無いのに、恵まれた立場にいた奴が悪い。だから、有能な部下たちが去ると、直ぐに転落したんだろうさ。こうなったのは哀れだが、我々だって奴隷じゃ無いんだ。意思ってもんがある。」
あの浮浪者は、高坂和巳っていうのか?私が酷い目にあったのは、父が彼に恨まれているからなのだろうか? …2人が病室から出ていくと、じわじわと疑問が湧き上がってきた。
ようやく病室に静寂が訪れた。何か疲れて、眠ってしまったリア子が目覚めると、病室はすでに真っ暗だった。
起き上がって病室の明かりをつけると、ベッドサイドにリア子のお気に入りのミッシェル=エトワールのマカロンが置かれていた。こんな気の利いたお見舞いを持ってきてくれるのは、妹のムーコぐらいだろう…と思っていた。
マカロンをいただこうと手に取ったその時、看護師がやってきて、来客を告げた。彼女を轢いたとされた「元容疑者」が、容疑を晴らしてくれたことについて、礼を言いに来たのだと言う。
特に断る理由も無く、看護師に病室で面会すると告げると、マカロンを口に入れた。やがてノックをする音が聞こえて、入室するように告げると、そこにいたのは男性だった。後から考えれば何の根拠もないのに、彼女は「元容疑者」が女性だとばかり思っていたのだ。
彼の姿を見て、彼女はふと我に帰った。彼女が身につけていたのは、ノーブラの上に薄手の入院服。急に恥ずかしくなった彼女は、慌てて毛布に潜り込んだが、マカロンが喉につっかえてむせた。
面会に来た男性は、病室に入った途端に咳が止まらなくなった彼女を見て、慌てて看護師を呼びに病室から出て行った…。
リア子がその話を始めると、今度は八神圭伍が話に割って入った。
「それが僕だよね?」
「そう。圭伍さんとの出会いだった。」
「あの時は焦ったよ。初対面だというのに…いや、初対面では無かった…。後でわかったんだけどね。」
オレの前なのに、2人ともほんのり頬を染めた。…見せつけなくても良いじゃないか。オレは少し腹が立った。
その時、彼がお見舞いに持って来たのもミッシェル=エトワールのマカロンだったとか、2人はさらに話を続けた…。そんなこと、どうでもいい。オレには必要無い情報だった。それなのに、オレの記憶には、しっかり刻み込まれてしまった。
そんな話になってしまったため、リア子の話はその時のオレにはどうでも良い話に思えた。だけど、後から思い返してみると、そこにはとても重要な内容が含まれていた。