前夜(1)/暗夜
気づけばその人のことを考えている。
顔がきれいだから?
声が低くてかっこいいから?
お金持ちで、それをちっとも気にしていないから?
コルトシュタインの王様だから?
「……ダメだ」
娘はベッドサイドの小さな机に置いた薬瓶を開けた。残り3粒。
今や薬瓶だけが、娘の周りに残った彼のおもかげ。
どうしても振り切ることが出来ない。
なぜ、何故、なぜ……幾らでも考える時間があった。幾ら考えてもわからなかった。
彼の何が羨ましいのか。彼の何が妬ましいのか。
なぜ……何故、こんなにも胸を締め付けられなければならないのか。
彼のことを考えるたびに、心にどろどろとした闇がわだかまる。
錠剤を水で飲み下す。
薬の苦さが口に広がるのを感じながら、グラスにたゆたう水を眺める。
上下水道の整備は先代の王が熱心に取り組んだ事業だった。
賢王ウィルフレドが賜物、コルトシュタインの上水はそのまま飲める。
娘は深く息をついた。しつこい咳が止まる。
今のうちに、仕事をしなければならない。
陰鬱で憂鬱な、できればやりたくない仕事だ。
ベッドから半身を起こして見やる窓に、馬車が近づいていた。
音も立てず夜を走る、妖魔の馬車だ。
父の部下が、また人をさらってきた。
娘は低く笑いながら、仕事に使う道具を準備する。蝶々の図鑑と、薄い紙。
あまりに無駄がなくて、時間稼ぎにもならない。
よいしょ、と年寄り臭い掛け声で再びベッドに上がり、座る。
何事かを呟きながら図鑑を膝の上に広げ、その上に小さな薄紙を置いた。
気づかないうちに尖っていた歯を立てて、人差し指の先に傷を作る。
薄紙の上に落ちた血の色を見て安心する。
まだ赤い。
〝本当か?”
耳をふさぐ。それでも聞こえる。繰り返し頭に響く。〝本当か? 本当か?”
血が赤いだけで安心などできるのか、本当は人間ではないのではないか。
位の低い魔物にでもなってしまったら、もう、あの人にも会えなくなってしまう。
現実と思考がごちゃ混ぜになって、娘を苦しめる。
胸を撫でつけて動悸を抑える。手順を続けなければ。
真っ赤なままの血で文字を書く。形だけを丸暗記した文字だ。
意識を集中して触れる。ぬるりと冷たい感触。
やがて文字そのものが浮き上がり、暗く発光し始めた。
安定した証拠だ。娘はまた息をついた。これで少し休める。
汗で前髪が張り付いて気持ち悪い。
この2年ほどの間、何度も何度も繰り返したことだ。
「だめだ……だめだ、だめだ」
膝の上に置いた図鑑を払いのけ、娘はベッドに横たわる。
あの文字を目にすると駄目なのだ。
胸に抱えたドス黒い思いが、溢れて止まらなくなってしまうから。
笑いたいのに声が出なかった。泣きたいのに涙が出なかった。
どっちもとっくに枯れてしまったんだろう……と思う。
誰か、と言いかけてやめた。
想い人の影も頭の中の声も拒んで、堅く目を閉じる。
ここは『勇者』のいなくなった世界。
自分を助けてくれる人なんて……白馬に乗った王子様なんて、居るはずないじゃないか。
2019/6/5更新。
2019/6/24更新。加筆しました。
2019/6/25更新。加筆しました。
2019/7/5更新。




